アクアリウム 第二章 「ユキ」 ![]() ![]() ![]() ![]() ◆ ◆ ◆ 紅茶を飲みながら、僕は水槽の中を漂う魚を眺めていた。 何という魚なのかは分からない。くすんだ灰色の体に、赤いラインが一本走っている。水が冷たいのか、魚たちは水草の陰に集まって、ほとんど動こうとしない。 「その魚はね、昔の教え子からもらったのよ」 食卓の椅子にゆっくりした動作で腰を下ろしながら、エマ先生が言った。 「つい数ヶ月前に、この街に戻ってきたの。今は、珍しい陶器を探して、あちこちの街を巡り歩いているそうよ。この街の近くを通ったからって、会い来てくれたの。その時、お土産にもらったのが、その魚だったのよ」 エマ先生の目は、どこか遠いところを見つめているようだった。教え子の旅先に、思いを馳せているのだろうか。 「この街の人たちはね、一生に一度、大きな決断を迫られるのよ。この街でずっと暮らしていくのか、それとも、この街を出て、新しい居場所を探しに行 くのか。誰に教えられたわけでもない。でも、誰もが知っているの。子供から大人になる境目の時期に、その決断を下さなければいけないことを」 僕は黙って頷いた。僕だって知っていた。今まさに、自分がその分かれ道に立たされていることも。そして、自分がどちらの道を選ぶのか、ということも。確かに見えたその選択が、再び揺らぎ始めていることも。ゆっくり考えなさい。エマ先生は言った。焦る必要などどこにもないのよ。 僕は時計に目をやった。もうすぐ四時になろうとしている。ユキはまだ、絵を描き続けているんだろうか。 玄関まで見送りに出てくれたエマ先生は、ふと僕の目をまっすぐに見つめて言った。 「道は、必ずどこかで分かれてしまうものなの。それは、仕方のないことなのよ」 かすかに頷いた僕の肩に、エマ先生はしわくちゃの手をそっと置いた。 家の前まで来た時、僕は思わず立ち止まった。 「ああ、おかえり」 ドアにもたれかかるようにして座っていた彼は、僕に気付くと軽く片手をあげた。その側で、ユキは雪玉を作って遊んでいた。ユキの前ににはピンポン玉くらいの大きさの雪玉が十個並んでいる。 「やっと、君の弟を外に連れ出せたよ。なかなかてこずったけどね。君が帰ってくるのを一緒に待とうって言ったら、ようやく外に出てくれたよ」 それまでうつむいていたユキが、つと立ち上がると、僕に向かって両手を差し出した。てのひらには、少し大きめの、みかんくらいの雪玉が載っていた。 「僕に?」 ユキはこくんと頷いた。僕が受け取ると、ユキはまたしゃがみこんで雪玉作りを再開した。その時、僕はユキが手袋をしていないことに気が付いた。ずいぶん長い間遊んでいたのか、ユキの手は真っ赤になっている。放っておけば、しもやけができてしまうだろう。僕はユキの隣にかがみこんだ。 「ユキ。一度家に入って、手袋を取っておいで。ついでにマフラーもね。風邪をひくといけないから」 十一個目の雪玉を並べ終わると、ユキは家の中に戻っていった。 ドアがバタン、と派手な音を立てて閉まるのを見届けて、彼は立ち上がった。 「さて、君も戻ってきたことだし、そろそろ帰るか」 言ってから、彼は少し苦笑した。 「いや、僕の家じゃないんだから、帰るってのはおかしいか」 数歩歩き出してから、彼はふと足を止めた。 「そうだ、言い忘れてたけど」 背中を向けたまま、さっきまでと同じ何気ない口調で、彼は続けた。 「明日、出発することにしたよ」 「……そう、か」 僕も、できるだけいつもと変わらない調子で答えた。 「見送りに行くよ。ユキと一緒に」 ありがとう、と返した彼の声は、柔かい笑みを含んでいるように聞こえた。 「……晴れるといいんだけどな」 空を見上げながら、彼が呟いた。 ユキはもう、クレヨンを握ろうとしなかった。 ただ、窓際に膝をついて、外をじっと凝視している。机がわりのダンボール箱はいつの間にか底が抜け、ひしゃげた姿でユキの足元に転がっている。その側には、ふたが開いたままのクレヨンと、真っ青に塗りつぶされた画用紙とが散らばっていた。 僕は、それらのものを拾い上げようとして、やめた。代わりに、ユキの隣に腰を下ろして、同じように空を見上げた。雲がかかっているのか、月も星も見えない。時々、近くの家の軒先から、積もった雪が滑り落ちる重くて鈍いという音が聞こえてくる。それ以外は何も聞こえない、まったく静かな夜だ。 ユキはいったい何をそんなに見つめているのだろう。問いかけようとして、僕は言葉を呑み込んだ。尋ねてみたところで、ユキは何も答えはしないだろう。深い色の瞳でじっとこちらを見て、ただ首を横に振るだけだ。 僕はユキの側を離れ、仰向けに寝転がった。明日の天気はどうだろう。そんなことをぼんやりと考える。確かに、晴れのほうがいい。見送りに行った帰り道、晴れていたほうがきっと前向きな気分になれるはずだ。小さな旅人の後ろ姿を、ちゃんと最後まで見届けるためにも、雲ひとつない快晴であってほしい。そのほうがきっと、僕だって少しは……ほんの少しは、寂しくないはずだ。 そういえば、結局僕は、ユキに誕生日のプレゼントを渡すことができなかった。この先ずっと僕は、そのことをふと思い出しては後悔することになるのかもしれない。ユキの青色に染まった左手と、その手に握られたクレヨン……。 ……もう何も考えるまい。「その時」がやって来たのだ。ただ、それだけのことなのだ。もう、何も尋ねないでおこう。知ったところで、僕に何ができるわけでもないのだから。今、僕が願うことは、たったひとつだ。 「……明日、晴れるといいな」 さっきまでよりも少し強くなった風が、窓のガラスを揺らした。ユキはまだ、空を見つめている。 昨夜の強風が寒波を吹き飛ばしたのか、翌日の空には雪雲のかけらすら見あたらなかった。 彼の出発に合わせて、僕らはいつもよりも少し早めに起きた。晴れているとはいっても、外の風は刺すように冷たい。僕は、ユキのコートのボタンをしっかりと留め、その上からマフラーを念入りに巻きつけた。頭には毛糸の帽子をかぶり、手袋もはめて完全防備したユキの姿は、まるで雪だるまのようにふくらんで見えた。少し動きにくそうだが、仕方がない。何といっても、ユキはまだたったの三つなのだ。出かけるよ、と玄関から声をかけて振り向くと、ユキは部屋の床を見下ろしたまま立ち尽くしていた。見つめる先には、クレヨンの箱と、画用紙の束がある。しばらく待ってみたが、ユキはまるで動こうとしない。何か、迷っているのだろうか。 「……ユキ」 もう一度呼びかけると、やっとユキはかがみこんで画用紙を拾い上げた。大事そうに両腕で抱え込む。クレヨンは? そう訊くと、ユキは僕を見上げ、ゆっくりと首を振った。まるで、もう何もかも全て描き尽くしてしまったのだとでも言うように。 外に出ると、久しぶりの晴天につられたのか、すでにたくさんの子供たちが遊んでいた。道の両脇には大小さまざまな雪だるまが作られつつある。 画用紙の束は、ユキの手にはあまるほどのかさがあった。持とうか、と何度かそう言ったのだが、ユキはいつものように頑固だった。はぐれないよう片手で僕の手につかまり、空いたほうの腕で風にはためく画用紙を懸命に押さえこんでいる。ユキの手は、僕の人差し指と中指を握っていた。初めて会った時、ユキの手は僕の親指を握れるくらいの大きさしかなかったはずだ。身長だって、少し伸びたのかもしれない。ユキも、少しずつ成長しているのだ。 もしも……。僕は考える。もしも、五年後、あるいは十年後、どこかでユキを見かけるようなことがあったら、僕はユキだと気付くだろうか。そして、ユキは、僕のことを覚えているだろうか。 工場が見えてきた。木陰に立っている彼に向かって、僕は軽く手を振った。 いい天気でよかったよ。そう言って彼は笑った。 「エマ先生には、君からよろしく言っておいてくれないかな。本当は僕があいさつに行けるといいんだけど、そんな時間もなさそうだから」 分かった、と僕は答えた。 「そういえば、風邪はよくなったのか?」 「おかげさまでね、すっかり治ったみたいだ。君に言われるまで、思い出しもしなかったよ。もとはといえば、風邪が縁で君たちに出会ったようなものだったのにな」 本当は、こんなに長居するつもりはなかったんだけど。彼は呟くように続けた。 「やっぱり……、名残惜しくなるからね。長く居れば、その分……」 僕は、心の中で彼の言葉を繰り返した。長く居ればその分、名残惜しくなる。過ごした時間の分だけ、記憶も積み重なっていくのだ。 さて、と。彼は何かを吹っ切るようにひとつ背伸びをした。 「そろそろ行くよ。まだ、先は長いからさ」 頷きながら、僕はとうとう「その時」がやって来たのだと自分に言い聞かせていた。それまで、僕の手を握っていたユキが、そっと手を離す。僕は一瞬だけ目を閉じ、ユキの肩をそっと前へ押し出した。さあ、行くんだ。 一歩前へ進み出たユキは、少しためらうような素振りを見せた。やがて、もう一歩前へ、さらに、もう一歩……。 そして、立ち止まった。抱え込んでいた画用紙の束を、彼に差し出す。 「……これを、僕に?」 ユキは大きく、力強く頷いた。彼が、画用紙に目を落とす。一枚、二枚とめくっていく内に、彼の目はだんだんと驚いたように見開かれていった。 「これは、君が描いたのか?」 ユキが再度頷く。目は、じっと彼を凝視している。彼はもう一度、画用紙に目をやった。僕は何が起こっているのか分からずに、ただ二人を見守っていた。 「……そうか」 やがて口を開いた彼の声には、感嘆とも畏敬ともとれる不思議な響きが込められていた。 「君はもう、見つけたんだね。僕らが探していたものを」 彼は、ユキの側にかがみこんだ。ありがとう。彼はそう言った。 「ありがとう。これで、道標ができたよ……」 それじゃあ、元気で。一度、僕らに向かって片手をあげた後、彼は去って行った。その後ろ姿が次第に小さくなり、やがて見えなくなるまで、僕とユキは並んで見送っていた。 工場の向こうには、隣街が続いている。そして、その隣にはまた違う街があり、そのまた向こうにも違う街が広がっているはずだ。そこは、どんな場所なんだろう。この街とはまったく違った生活があるんだろうか。それとも、僕たちと変わらない日々が流れているんだろうか。行ってみたい、と僕は思った。こことは違う街を見てみたい、そこに住む人々に会ってみたい。それは決して、一時的な衝動などではないはずだ。 隣でユキがくしゃみをした。続けてもう一度。僕は慌てて、マフラーをさらにきっちりと巻きつける。 「今度は君が風邪をひいたのか? じゃあ、またエマ先生に薬湯を作ってもらわないとね」 それを聞いて、ユキは思いっきり顔をしかめた。その顔を見て、僕は思わず笑い出してしまった。よっぽど、あの薬湯がお気に召さなかったらしい。 「とりあえず、家に帰ろう。朝ご飯もまだだしね。それから、今日は何をするか考えよう。何たって、いい天気だからね」 こくこくと相槌を打つように頷いていたユキは、ふと何か思いついたように僕のコートを引っ張った。何か言いたそうにしている。しばらく考えこんだ後、ユキは突然、ぱっと目を輝かせた。 「おっきいゆきだるま、つくろ」 雪だるまか。僕は空を見上げた。雲ひとつなし。絶好の雪だるま日和だ。なんだか妙に晴れやかな気分になった僕は、よし、と気合を入れるように一声掛けて、ユキを抱き上げた。 「じゃあ、家の前に雪だるまを作ろう。みんながびっくりするくらいの、街で一番大きい雪だるま!」 おっきいゆきだるま。透明な朝日を眩げに見上げて呟いた後、ユキは僕に向かって嬉しそうににっこり笑った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る あとがき→ 創作品へ 入り口へ |