アクアリウム 第二章 「ユキ」 ![]() ![]() ![]() ![]() ◆ ◆ ◆ 「これが、雪なのか」 それは、僕らに話し掛けるというより、ひとりごとのような口調だった。ちょうど雲の切れ間から射し込んできた日光が雪に反射して、眩しく光っている。 僕は立ち上がり、片手をかざしながら、声の聞こえた辺りに目を凝らした。プラタナスの根元の辺り、ユキが眠っていたのと同じ場所に、ひとりの青年が座っていた。僕と目が合うと、彼は少し照れたように軽く首を傾げた。 やあ。そう言って、彼は立ち上がった。吹き付ける冷たい風にひとつくしゃみをする。突然で悪いんだけど、と彼は言った。 「この街の診療所まで連れていってくれないか? どうやら、風邪をひいたらしい。たいしたことはないけれど、この先も行かなきゃいけないところがあるもんだから、早めに治しておきたくて」 僕は頷いた。この工場とは反対側の街外れには、こじんまりした街の規模に似合わぬ大きな病院がある。反対側とはいえ、なんといっても小さな街だから、天候の悪さを計算に入れてもここから歩いても半時間ほどで辿り着けるだろう。僕がそう説明すると、彼は少し困ったような顔をした。 「いや、大きな病院は苦手なんだ。その……、薬がうまく飲めないもんだから」 僕は思わず少し笑ってしまった。それなら、三つのユキとさほど変わらない。 「それじゃあ、エマ先生のところに行こう。先生は医者じゃないけど、この街の知恵袋みたいなひとだからね」 エマ先生はいつものようにしわくちゃの笑顔で迎えてくれた。 まあまあ、いらっしゃい。僕が事情を説明すると、エマ先生は分かったというに頷いて、台所へ姿を消した。少し待っててちょうだいね。 僕たちは、食卓の椅子に腰掛けた。ユキは部屋のすみに置いてある水槽の前に膝を抱えて座りこんだ。ゆらゆらと泳ぐ魚の姿をじっと見つめている。 「あの子は、君の弟なの?」 「そうだよ。名前はユキ。もうじき4つになる」 少し考えてから、僕は付け加えた。 「たぶん、ね」 彼は、不思議そうに瞬きした。 「たぶん?」 そこで、僕はユキに出会ったいきさつを簡単に説明した。工場の側の木陰で眠っていたこと……君がいたのと同じところだよ。そう言うと、彼は目を丸くした……、エマ先生が名前を付けてくれたこと、僕が急に「兄」になった理由を。僕が話している間、彼はユキの姿をぼんやりと眺めていた。 「あの子は……、いったいどこから来たんだろう」 話を聞き終わると、彼は呟いた。 「さあ、分からないよ。それは、ユキしか知らないことだからね」 それじゃあ……。彼は僕の方に向き直って頬杖をついた。 「あの子は、どこに行こうとしてるんだろう」 僕は黙って首を横に振った。そのことについては、僕自身もずっと考えてきた。ユキはどこから来て、どこへ行こうとしているのか? あんな小さな子が、たったひとりで。……分からない。いや……。 彼に気付かれないよう、僕は小さく吐息を零した。本当は、その答えを知りたくないだけなのかもしれない。 薬湯は、湿った枯葉のような香りがした。 エマ先生は四人分のカップにその茶色い液体を注いだ。さあ、お飲みなさい。風邪のひき始めには、これが一番なのよ。ユキ、あなたもいらっしゃい。この寒い中を歩いてきたんだから、体を暖めないとね。 一口飲んで、僕らは思わず顔をしかめた。薬湯は、雨上がりの土のような味がした。僕らの顔を見て、エマ先生は満足そうな笑みを浮かべた。良薬は口に苦し、ってね。昔の人は上手く言ったものだわ。 カップが空になった頃……それには、湯気が立っていた薬湯がすっかり冷めてしまうほどの時間がかかったのだが……、エマ先生は再び台所へ戻り、今度は暖かい紅茶を淹れてくれた。ユキには、砂糖を少し加えたホットミルクが用意されていた。 「ところで、まだあなたのお話を聞いていなかったわね。あなたも迷子になったの? この子と同じように、ね」 エマ先生は、ユキの頭を優しく撫でながら微笑みかけた。ユキは一瞬ちらりと目を上げたようだったが、すぐにカップの表面に視線を戻した。熱いミルクに息を吹きかけては、薄く張った膜が波立つのをじっと眺めている。 「いいえ。探し物をしてるんです」 「探し物? 宝の地図でも見つけたの?」 彼は少し笑いながら首を横に振った。 「そんな、心躍るような話じゃあありませんよ、残念ながらね。……猫を、探してるんです。僕の住んでた街の診療所の飼い猫だったんですけど、いつの間にかいなくなっちゃって。街の人たちも寂しがってるもんだから」 彼は窓に目をやった。つられて僕も外を見やった。雪はもうやんでいて、青空が広がっている。それじゃあ、と彼が立ち上がった。 「そろそろ出発します。天気もよくなったみたいだから。薬湯、ありがとうございました」 歩き出そうとした彼が、ふと動きを止めた。ユキが、彼のコートの裾をぎゅっと握ったのだ。彼をまっすぐ見上げ、小さく、しかしはっきりと首を横に振る。 「ユキは、君にまだ行ってほしくないみたいだよ」 そう言って笑いながら、僕は体の奥の方で、何かがかすかにざわめき始めているのを感じていた。 彼がこの街にやって来た日から、ユキは前にもまして熱心に画用紙に向かうようになった。朝起きてから夜眠るまで、食事の時間さえ惜しんで、クレヨンを握り続けている。ユキの小さな両手はいつも青色に染まっていて、僕が何回となく濡らしたタオルでふいても、少し目を離した内にまたもやクレヨンで真っ青になってしまっていた。 青色のクレヨンはあっという間に根元まで短くなってしまい、僕は新しいクレヨンを買うために文房具屋を何度も訪れることになった。店主は、いつも青いクレヨンを、それも一本だけ買っていく僕を、不思議そうに眺めていた。 幾度目かに店を訪ねた時、店主が僕に言った。そんなに青ばかり使うのなら、どうして何本かまとめて買わないんです? そのほうが面倒が少ないでしょうに。 確かにその通りだった。しかし、それでも僕はクレヨンを一本ずつユキに渡し続けた。理由は、僕自身にもよく分からない。ひとつだけ確かなことは、ユキにとってクレヨンの本数は大して重要ではないだろうということだった。それが一本であれ、五本であれ、十本であれ、ユキがそれを使い果たすのにかかる時間はあまり変わらないだろう。本数が増えれば、その分、ユキが画用紙を塗りつぶす速度が上がるだけだ。それほど、今のユキは真剣な表情をしていた。 ただ、ひたすらに描き続けるユキの姿は、僕に年老いた画家を連想させた。自分に残された時間を推し量りながら、全身全霊をかけてひとつの作品に挑もうとする老画家の姿を。 僕は、たぶん恐れているのだ。ユキが、その小さな体が許す限りの力をこめて立ち向かっている「何か」を。それが、完成してしまうことを。そして、その後にやって来るであろう、ささやかながら決定的な変化を。その時に、ユキが下すであろう、ひとつの決断を。 街は、この冬最大の寒波に見舞われていた。雪は毎晩、僕らが眠っている間に少しずつ音もなく降り積もっていった。 「こんな寒い冬は初めてだよ」 そう言って彼は首をすくめた。彼の住んでいた街では、雪などまるで降らなかったのだという。だからね、ここに来て、生まれて初めて雪を見たんだ。思ってたより冷たかったな。足元がすべって歩きにくいしね。おかげで、もうしばらく足止めを食いそうだよ。 僕らは、図書館の窓際の椅子に座っていた。ここに来ると真っ先に向かう、僕のお気に入りの場所だ。 「君の弟は元気?」 「ああ、元気だよ。毎日、絵ばっかり描いてるけどね。あんまり家にこもってばかりいるから、たまには外に出たほうがいいと思うんだけど。今日も一緒に行こうって言ったんだけど、だめだったよ。なかなか頑固だからね、ユキは」 思わず愚痴めいた口調になった僕を、彼は可笑しそうに眺めていた。 「兄貴も大変だな。君は弟思いだから、特にね」 そう言って、彼は笑った。僕は少し決まりが悪くなって、窓の外に目をやった。 時々、僕よりもユキのほうがずっと大人のような気がすることがある。ユキがここに辿り着くまでに見てきたであろうもののことを思うと、ひとところに留まり続ける自分がひどく幼い存在のように感じられるのだ。ユキは、どこから来てどこへ行こうとしているのだろう。僕は、ここしばらく頭の片隅にひっかかっていた問いを、もう一度繰り返した。 「あの子は、何を探してるんだろう」 しばらく黙っていた彼が、ふと僕に問いかけた。僕は首を横に振る。 「分からない。僕には、分からないよ」 この街に繋ぎとめられている僕には、と声には出さず付け加える。しばしの沈黙の後、彼はまた口を開いた。僕はね……。 「何となく、あの子と僕が探しているものは同じなんじゃないかって気がするんだ。ただ、そんなふうに感じるだけなんだけど」 でも……、と僕は即座に反論した。 「ユキは猫を探してるわけじゃない。それは確かだ」 彼は少し面食らったように僕の顔を見つめた。 「……猫?」 「そうだよ。君がそう言ったんじゃないか」 彼は納得したように頷いた。 「そうだった。うん、そう言ったね。でも、正確に言うと僕の探し物は猫じゃない」 彼はそこで少し迷うように言葉を切った。 「あの時は何となく言いそびれたんだけど、もっと大きな探し物があるんだ。だから……、たぶん、あの子もそれを探してるんじゃないかって気がする。たぶん、だけどね……」 そうかもしれない。僕は心の中で呟いた。確かに、そうなのかもしれない。しかし、僕は彼の言う「それ」が何なのか、尋ねることができなかった。この雪がやめば、彼は再び旅立つのだろう。そして、それはそう遠い未来のことではないはずだった。いつだったか感じた、胸の奥のざわめきは、いつの間にか増幅して、僕に警告を発し始めていた。急げ、時間がないのだ、と。 その時が来るまでに、僕は「それ」の正体を確かめておかなければならない。誰のためでもなく、僕自身のために。そうしなければ、僕は一生後悔することになるだろう。何故か? それは……。 そこまで考えたところで、僕は目を閉じた。その先は、まだ考えたくないんだ……。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |