アクアリウム 第二章 「ユキ」 ![]() ![]() ![]() ![]() ◆ ◆ ◆ ユキが真っ白な画用紙を青色に塗りつぶしている。 小さな左手にクレヨンを握りしめ、幼い横顔に驚くほど大人びた表情を浮かべている。机代わりのダンボール箱の前にぺたんと座り込み、ユキはもう一時間近いあいだ、絵を描くことに没頭していた。クレヨンを握った左手も、画用紙を押さえている右手も、青色に染まっている。 ユキの十二色のクレヨンは、青色だけが極端に短い。ユキは、どんな絵を描くにも……例えば、隣の塀の上で昼寝をしている猫。例えば、朝食に食べたリンゴ、例えば、庭でしおれかけているコスモス……青色しか使わないのだ。ほら、この色だってきれいだよ。そう言って違う色のクレヨンを渡しても、ユキは自分の手の中にあるクレヨンと新しい色のクレヨンをしばらく見比べたあと、静かに首を横に振るのだった。 いつかやってくるユキの誕生日には、青色だけを集めたクレヨンをあげることにしよう。僕はそう思った。 ユキは僕の弟だ。次の誕生日で四歳になる。 同じ年頃の子供たちと比べると少し小柄で、同じ年頃の子供たちよりもずっと深い色の瞳をしている。絵を描いていないときは、その瞳で窓の外をじっと見つめている。身じろぎもせずに。まるで、何かを待っているかのように。 ユキと僕はほんとうの兄弟ではない。街外れにある工場のそばの木陰で丸くなって眠っている小さな男の子を僕が見つけ、大人たちのところへ知らせに行ったのだ。あちこち歩き回って聞いてみたが、街の大人たちは誰もその男の子のことを知らなかった。 僕たちが木陰に戻ってみると、男の子はまだそこで眠り続けていた。おそらく、どこか近くの街からやって来て迷子になったのだろう、という結論が出たものの、これからどうしたらいいのかは、誰にも分からないようだった。 結局、最初に見つけた僕が男の子を自分の家で預かることになり、それ以来、その子は僕の「弟」ということになっている。 ユキという名前は、街の学校の近くに住むエマ先生がつけてくれた。 エマ先生は、もう何年も前に学校で教えることはやめてしまったけれど、僕たちは今でも尊敬をこめて「エマ先生」と呼んでいる。決して、「エマおばあちゃん」なんて呼び方はしない。 男の子の姿を見ると、エマ先生は顔をしわくちゃにして微笑んだ。まあ、なんてきれいな瞳。男の子はまるで人見知りする様子もなく、エマ先生をじっと見つめていた。 いくつなの? 先生がそう聞くと、男の子は小さな指をぎごちなく三本立ててみせた。お名前はなんていうのかしら? 男の子は小さく首を横に振った。どこから来たの? お父さんとお母さんは? 男の子はまた首を横に振った。おうちに帰りたいでしょう? 少し考えた後、男の子はもう一度、首を横に振った。 エマ先生は座っていた椅子から立ち上がると、男の子と視線が合うようにかがみこんだ。あなたはこれからこの街で暮らすことになる。そのためには、名前がないと少し不便ね。先生はしばらく考えこんだ。ユキ、というのはどうかしら。男の子はエマ先生の瞳をじっと見つめた後、こくんと頷いた。 帰り道、僕は少し遅れてついてくる男の子にぽつぽつと話しかけた。僕よりもずいぶんと小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと歩きながら。 いいかい、君はこれから僕の家で僕といっしょに暮らすことになる。もちろん、君がもとの家に帰りたくなったら、いつでも帰ればいい。もし帰りたくなかったら……、ずっとここにいればいい。 僕は君のお母さんのように料理が上手くないかもしれない。だって、目玉焼きひとつまともに作れないんだから。僕は君のお父さんのように器用じゃないかもしれない。小さいころ、工作の成績はいつだってクラスでいちばん悪かったからね。僕は、君のおばあちゃんやおじいちゃんのように、むかしばなしを聞かせてあげることもできない。君は、むこうで犬や猫を飼っていたかもしれない。でも、僕の家はペット禁止なんだ。 僕は軽く後ろを見やった。男の子は少しうつむき加減に歩いていた。だけど、僕にだってひとつだけ約束できることがある。僕は、君に寂しい思いはさせない。だから、安心していいよ。僕の名前はカイ。これからは君の……、そうだな、新しいお兄さんだ。僕は後ろを振り向いた。男の子はまっすぐこちらを見上げていた。手を差し出すと、ユキは小さな手で僕の親指を握った。 僕はよく散歩に出かける。たいていはひとりで、ときにはユキもいっしょに。 じゃあ、行ってくるよ。そう声をかけると、ユキは一瞬、画用紙から顔を上げて頷いた。ふたたびユキが絵に熱中し出したのを見届けて、僕はドアの外へ出た。ユキの手には、いつもの青色のクレヨンが握られている。 しばらく歩くと、街の商店街に行き着く。果物屋でリンゴを三個買い、毛糸屋でユキの手袋を買った。今は十一月。風はもうずいぶん冷たくなっている。雪の季節が、もうすぐやってくるのだ。 文房具屋の前で、僕はしばらく立ち止まった。この前、はじめてここにやって来たユキがそうしたように。通りに面したガラスケースには、あのときと同じ十二色のクレヨンが並べられている。クレヨンを目にしたユキは、僕の親指をぎゅっと握りしめ、瞳を大きく見開いていた。僕が買ったばかりのクレヨンと画用紙の束を手渡すと、ユキはそれを両腕でしっかりと抱きかかえた。次の日から、ユキは僕がいくら散歩に誘っても頑固に首を横に振るようになった。眠っているときも、ユキはクレヨンの箱を大事そうに抱えている。 そういえば、僕が生まれて初めて両親にねだって買ってもらったのも、クレヨンだった。そんなことを思い出しながら、僕は文房具屋を後にした。 ユキはいったいどこから来たのだろう。図書館の窓際に置かれた椅子に座り、僕はぼんやりと考えた。午後の図書館はとても静かだ。 風をさえぎってくれる窓越しに暖かい日差しを浴びていると、だんだん眠くなってくる。それでなくても、読書はまるではかどっていなかった。膝の上には昔の航海術について書かれた本が広げてある。表紙をめくった最初のページ一面に広がる海は、ユキがいつも描く真っ青な絵にとてもよく似ている。そのページを見つめたまま、僕はそこから先へ進むことができずにいた。 ユキはいったいどこから来たのだろう。ふと目を上げると、窓の外に小さな女の子が見えた。噴水のふちに腰かけ、湯気の立つ紙コップを両手で包み込んでいる。ちょうど、ユキと同じくらいの年頃だろう。吐く息が白い。外はかなり冷え込んでいるようだ。僕と目が合うと、その子は軽く首を傾げるようにして微笑んだ。 ユキはいったいどこから来たのだろう。そして、どこへ行こうとしているのだろう。思わず微笑み返すと、その子は小さな手をひらひらと振ってみせた。 今日はユキのためになにか絵本を借りて帰ろう。僕はそう思った。 十二月のある朝、外の明るさで目が覚めた。 空気がきんと冷たく澄んでいる。僕はいそいで起き上がり、窓の側に駆け寄った。いきおいよくカーテンを引く。街は、一面真っ白になっていた。雪だ。ユキ! 見てごらん。窓の外を目にしたユキは、いつかと同じように瞳を大きく見開いた。真っ白になった道路を食い入るように見つめている。 雪だよ。そう言うと、ユキは不思議そうに僕の顔を見上げた。僕は少し笑った。そう、君の名前と同じだね。ユキの小さな手のひらをひろげて、指で「雪」と書いてみる。空気が冷たくなると、水分が凍って空から落ちてくるんだ。それが、雪だよ。ユキは自分の手のひらをじっと見つめている。そこに書かれた目に見えない「雪」を読み取ろうとしているかのように。 朝食の後、僕らは外に出てみることにした。クローゼットから買ったばかりの手袋を取り出す。ドアを開けると、雪に反射した光が飛び込んできた。ユキは眩しそうに瞳を細めている。積もったばかりの雪は、踏む度にさくさくと軽い音を立てる。慎重な足取りであちこちに足跡をつけてまわっているユキの後について、僕も早めの散歩に出かけることにした。 まだ街の人たちが起きだすには早い時間なのか、通りには僕らのほか誰もいなかった。建物の屋根も、木々の枝も、ショートケーキのクリームのような柔らかい雪に覆われている。目の前に、猫が飛び降りてきた。いつか、隣の塀で昼寝をしていた猫だ。寒そうに身を震わせながら歩いていく姿を、立ち止まって見るともなく見送った。彼らの毛皮と、僕らのコートでは、いったいどちらが暖かいのだろう。一日だけ交換してくれと言ったら、彼らは交換してくれるだろうか。そんなことを思いながら、歩き出す。ぼんやりと考えごとをしている内に、商店街を通り抜けてしまった。 いったいどこまで行くのだろう。何気なく前を見ると、そこには誰もいなかった。さっきまで僕の数歩先を歩いていたはずのユキの姿は、かき消したように消えていた。さっと全身が冷たくなるのが分かった。ユキを見失ってしまったのだ。ふらふらと、僕はその場に座り込んだ。軽いめまいがする。体は冷え切っているのに、頭だけが熱を出したときのように火照っていた。落ち着け、と僕は自分に言い聞かせた。考えなければ。うつむいた瞬間、自分の足跡が目に入った。そうだ、足跡だ。ユキの足跡が残っているはずだ。僕は、祈るような気持ちでふたたび歩き始めた。 足跡は、街外れまで続いていた。 再び降り出した雪が、小さくて頼りない足跡を消してしまう前に……。僕は歩く速度を少し速めた。やがて道の両側に建ち並んでいた家並みが途切れ、ひらけた場所に出る。ずっと下を向いていた顔を上げると、目の前に工場の建物があった。いつの間にこんなところまで来ていたのだろう。この工場を越えると、その向こうはもう隣街だ。実を言うと、僕は生まれてからずっとこの街の外に出たことがない。位置こそ隣とはいえ、まるで違う星のように遠い場所なのだ。しかし、僕のようにこの街の中だけで暮らしている人々は少なくない。だからこそ、時々やってくる行商人や旅人に、彼らは憧れと畏敬の念を抱くのだろう。そういえば、ユキも小さな旅人なのだ。今はここに留まっているけれども、いつかまた、僕の元を去る時が来るのかもしれない。その時、僕はどんな思いを抱くのだろう。 引き返そうとして、僕はふと何かを思い出した。何か、軽いデ・ジャ・ヴのようなもの。工場の裏手に周ってみる。そこには、大きなプラタナスの樹が植えてある。この場所で、僕は初めてユキに出会ったのだ。 そして、その時と同じ場所に、ユキは立っていた。 ユキはこちらに背を向け、樹の根元の辺りをじっと見つめていた。 僕はユキのもとへ急いだ。雪を踏みしめる音に気付いたのか、ユキがこちらを振り向いた。落ち着き払ったユキの顔を見た途端、それまでの不安と安堵が堰を切ったようにあふれ出し、僕は思わずユキに向かって大声をあげてしまった。 「ユキ! だめじゃないか! ひとりでこんなところまで……!」 ユキはびくっと小さな体を震わせた。戸惑ったような表情で僕の顔を見上げている。そういえば、僕は今までユキを叱ったことがない。よほど驚いたのだろう、瞬きもせず見開かれたユキの瞳に、みるみる涙が浮かび始めた。うつむいた拍子に、水滴が頬を伝う。声を出さずに泣くユキの姿を見ている内に、僕はさっきまでの怒りを忘れてしまい、逆に一時的な感情からユキを怒鳴りつけてしまったことを後悔し始めていた。僕はユキの側にしゃがみこみ、何か言葉をかけようとした。 ……その時だった。 「これが、雪なのか」 ふいに、聞き慣れない声がした。 ![]() ![]() ![]() ![]() →進む 創作品へ 入り口へ |