「白く・儚く・歌う」 ![]() ![]() ![]() ![]() できたぞ、と幻燈師はひどくあっさりした口調で告げた。まるで、パンでも焼き上がったような調子だ。グラスの底には、黒い水を透かして紅の靄が見える。 「これから、どうするんだ?」 「もっと広い場所へ出してやるんだ。思う存分、羽を伸ばせるようにな」 幻燈師は、大事そうにグラスを抱え、外へ出て行った。その後を追うように、少女がすっと立ち上がる。分かるのだろうか。人形師は思う。これから幻燈師が見せようとしているものが、この娘には分かっているのだろうか。 外は、相変わらず漆黒に包まれている。この中を通り抜けて、幻燈師の家を訪ねたのがどれくらい前のことなのか、人形師にはもう思い出せなかった。それほど遠い昔ではないはずだが。この闇は、時間の感覚さえ吸い取ってしまうのかもしれない。 ふと、木の肌に冷たい土が触れた。少女が、両腕に抱いていた自分を地面に降ろしたのだ。そのまま幻燈師の隣を通り抜け、暗闇の中に姿を消す。 「大丈夫だ。あの子にはちゃんと分かってるんだよ」 幻燈師は、グラスの表面を慈しむように撫でている。何事か囁きかけているようだったが、人形師の耳には聞えなかった。 「さて。そろそろ頃合だな」 グラスを持った手を、できる限り空中高く掲げる。 「人形師。あんたも良く見てるんだぞ。これが、あの子の故郷だ」 言うなり、グラスを放り投げた。飛び出したグラスの縁から、細かい飛沫が溢れ出す。それは、霧雨のように大地に降り注ぎ、また上昇する蒸気となって空を覆い尽くしていく。黒一色だった世界が、少しずつ少しずつ、薄赤色に染められていく。刷毛で絵の具を刷いたように、夜の空が夕暮れの空へと塗り変えられていく。その様を、人形師は夢でも見ているような心地で眺めていた。 あの子はどこだろう。赤一色に照らされた世界を、私は見回した。あの子は、この風景を見ることができるのだろうか。私が呼び覚ましたこの夕焼けは、あの子の記憶の中にある故郷と重なるだろうか。 「あそこだ。あそこにいる」 人形師が、私の服の裾を引いた。少女は、何かを受け止めようとするかのように、両手を空へと差し出していた。そうしながら、軽いステップでくるくると回っている。真っ白な髪を紅に遊ばせ、唇を微かに動かしている。ああ、歌っているのだ。この夕日を、歌っているのだ。そう思った途端、私の耳に、確かに少女の歌声が届いた。 「聞えるだろう?」 人形師が、自慢気に言った。 「あの娘は、いい歌声を持っている」 細く高く、そしてのびやかなソプラノだ。歌う少女は今までの無表情が嘘のように幸福そうだった。 その瞳が微笑んでいるのを見て、私は久方ぶりに胸が熱くなるのを感じる。私にもまだ、喜びをもたらす力が残っていたのだ。 夕焼けは、ますます濃く、鮮明になっていく。少女の歌声も、更に華やかに、力強く響く。あの華奢な体のどこから、これだけの音を出すことができるのだろう。 「人形師。あの子は今まで、なぜ歌わなかったんだ?」 「歌わなかったんじゃない。歌えなかったんだよ」 「歌えなかった?」 「……あの娘を依頼人に引き渡す前、喉を潰しておいた。……惜しかったんだよ。あの娘の歌声を、他の人間に聞かせるのがな」 人形師の目は、少女を通り越して、どこか遠くを見つめているようだった。 「……彼女は、本当に歌を愛していたからな……」 天にも届けとばかりに響き渡る讃歌を聞きながら、人形師は祈りを捧げるかのように頭を垂れた。 少女は、一層軽快に、一層速くステップを踏んで踊っている。それに応えるかのように、夕日は眩いほどの光を少女に注いでいた。もうすぐだ。もうすぐ、フィナーレがやって来る。彼女にはふさわしい、華麗な幕切れだ。そして、その終幕は、同じくこの自分にも訪れるはずだ。 しかし、怖いぐらいに美しい夕焼けだ。あの娘は……、いや、彼らは皆、こんな風景を抱えて生きていたのか。この色は、何かに似ている。……そうだ、炎だ。あの日、彼らを焼き尽くしたあの炎も、こんな激しい色をしていた。そうか、あの時、彼らが微塵も怯えた表情を見せなかったのは、この夕日に似ていたからなのか。彼らはあの炎に、ふるさとを見ていたのか……。 その時、少女の歌声が止んだ。 「……どうしたんだろう?」 幻燈師が訝しげに眉をひそめる。少女は、ゼンマイの切れたオルゴール人形のように、ぴたりと動きを止めていた。 「人形師。あの子は一体……」 幻燈師の言葉がぷつりと切れる。その目が驚愕に見開かれるのを見て、人形師はついに幕が引かれる瞬間がやって来たことを悟った。見届けなくてはなるまい。それが、この自分に課された最後の仕事だ。人形師は、何一つ見逃すまいと、少女の姿に目を凝らした。 「……あれは……!」 幻燈師が悲鳴に似た声をあげた。その視線の先で、少女の体が崩れ始めていた。指先が、髪が、徐々にぼやけて消えていく。それは、まるで、長い年月をかけて、巨大な岩が風化していく様を見るようだった。 「あんたも見守ってやってくれ。……あの娘は、故郷へ帰るんだ。故郷の土へ、帰っていくんだよ」 さらさらと、頼りない音を立てながら、少女の体が砂へと戻っていく。きっと目の覚めるような純白の砂になるのだろう。足が、頭が、そして全身が、細かい粒子へと変わっていく。もう、あの娘の面影は見えない。 「幻燈師。あの娘の立っていた場所へ、連れていってくれないか」 一陣の風が吹いた。その風に乗って、砂が空へと舞い上がる。どうか、無事に送り届けてやってくれ。せめて、あの娘だけでも。人形師はもう一度、深く頭を垂れた。 あとからあとから、言葉が、音が、溢れてくる。ああ、この感触を、どうしてあたしは忘れていたんだろう。歌う。歌う。踊る。踊る。この空へ向けて、歌い、踊る。ああ、なんて綺麗な夕焼け。できるだけ軽やかに、できるだけ高らかに、踊り、歌う。みんなにも、見えるかしら。この夕焼けが、そして、あたしが。 ああ、体が熱い。夕日に溶けてしまいそうだ。だけど、それでもいい。あたしは歌う。あたしは踊る。みんなにも聞えるように。みんなにも届くように。本当に、綺麗な夕焼け。とてもとても綺麗な夕焼け……。 空の色が変わり始めていた。猛々しいほどの真紅から、淡い紫を帯びた朱色へ。まるで、少女の瞳を溶かし込んだかのような、柔らかな色だった。 少女が踊っていたその場所には、微かに光るものがふたつ転がっていた。拾い上げてみると、それは紫色をした水晶の珠だった。 「これは……」 「あの娘の目だ。目だけは、夕樹では造れない。その人形に合った石を埋め込んでやるんだ」 夕日にかざしてみる。吸い込まれそうな紫の奥、紅の霞が見える。ああ、あの子には見えていたのだ。この夕日を、あの子は確かに見ていたのだ。 「あの子は、本当に故郷へ帰れたのか?」 「ああ」 「どうして、そう言える?」 「分かるから……いや、感じるから、か。……この体も、同じ場所へ戻って行く。だから、よく分かる。いささか窮屈だったが、まあ良く動いてくれたもんだ。名木の誉れ高い夕樹を、こんなちゃちな玩具に仕立てるのは忍びなかったが、いかんせん、時間が無かった。そのことだけが、心残りだな」 私は、黙って穏やかな夕暮れを見上げた。これはもう、私の作品とは呼べない。私はただ手を貸しただけだ。創り上げたのは、あの少女と、そして、人形師だ。私ひとりでは、これほど繊細な幻は生み出せまい。 「なあ、幻燈師よ」 のんびりした声で人形師が呼びかける。その声が、遠くなり始めていることに、私は気付いた。 「あんたには、感謝してるよ。礼をするだけの暇が無いのは残念だがな。餞別と言ってはなんだが、ひとつ質問に答えてやろう。俺に答えられることなら何でもいい。どうだ?」 聞きたいことなど何もない。私はあまりに長い間、どんな物事とも、どんな人々とも遠く離れて暮らしてきた。今更、気に懸かることなど何もない。しかし、私は反射的に尋ねていた。 「……あの世界は、どうなったんだ?」 人形師は、苦笑したようだった。 「まだ気にしていたのか。もう、今のあんたには関わりないことだろうに。……まあ、いい。約束だからな。教えてやろう。……あの世界は、あの時のままだよ。あんたが人々の心から見出して、創り上げた闇に、今も覆われたままだ。誰もが、目眩ましから逃れられずにいる。要するに、人々が抱え込んでいた闇がそれだけ深く大きかったということだろう。そして、それは未だ晴れずにいる」 「……嘘だ……」 私には、ただそう呟くことしかできなかった。くくく、とひどく楽しげに人形師が笑う。 「ああ、嘘だよ……」 振り返った時、そこには既に人形師の姿はなかった。一掴みの白い砂が、小さな山を成している。 しかしそれさえ、掬い上げようとするより一瞬早く、足元を吹きぬけた風にさらわれ、やがて、見えなくなった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る あとがき→ 創作品へ 入り口へ |