「白く・儚く・歌う」



 少女の握るグラスの中には、黒々とした、得体の知れないものが入っていた。まるで、この世界の狭間を包み込む闇を閉じ込めたかのようだ。幻燈師は、音声は発せず唇だけを動かして少女に何かを告げた。応えるように、少女は緩慢な動きでグラスに目を落とす。再び、幻燈師が声なき声で語りかける。少女はしばらく視線を彷徨わせた後、グラスの水面に目を凝らすような素振りを見せた。必死に何かを見出そうとするかのように。驚いたな、と彼は思う。あの少女が、周囲のものに興味を示すことなど、これまで一度もなかったというのに。
「なにをやっているんだ?」
「……種を集めている」
「種、だと?」
 不可解な言葉に彼は首をひねった。しかし、幻燈師はそれ以上説明を加えようとはしなかった。少女と一緒に、グラスの中を真剣な面持ちで凝視している。やがて、少女がふっと瞳を閉じた。幻燈師が、大きく息をつく。少女の手からグラスを受け取り、その手を軽く握った。
「ありがとう。これで、分かったよ」
 そう呟くと、幻燈師は少女の側を離れ、テーブルの前、ワイングラスの置かれた辺りに立った。
「幻燈師。種とは一体なんのことだ?」
「その人間が後生大事にしまいこんでいた風景……、つまり、幻の種だ。それを、我々が目に見える形にまで育てる」
「育てる?」
「そうだ。……単純なことだよ。水を与えてやればいい」
 そう言うと、幻燈師は小さなグラスを傾け、ワイングラスの中に黒い液体を流し込んだ。

 種が完全に蒔かれると、淡い青だった水が不透明な黒へと変わる。表面が、寄せては返すように波立ち始める。その、生き物めいた動きをしばらく見守った後、私は椅子に腰を下ろした。
「なんだ、休憩か?」
 人形が不思議そうに聞く。
「いや。これでもう、終わりだ。この先、私にできることは何もない」
「これで終わりだと?」
 信じられない、という風に、人形ががくがくと首を横に振る。
「これで終わりだよ。トリックなんてこんなもんだ。誰にも明かさずにいるのは、案外失望されるのが怖いからかもしれんな」
 そう、我々にできることなどたかがしれている。しかし、人々はそれに気付かなかった。自分の望むものを描き出して見せる我々を、まるで魔法使いかなにかのように崇めたてた。我々の小手先だけの手品に、誰もが騙され続けたのだ。そして、その細工が人より少し上手かった私を、彼らは「天才」ともてはやした。
「……どうしてあんな真似をした?」
 私の心中を見透かしたように、人形が言う。
「あんなことさえしでかさなければ、あんたは今ごろ何不自由ない優雅な生活を送っていたはずじゃないか。それをどうして、こんな地獄と大差ないような場所に逃げ込まなきゃならんような立場に自分を追い込んだ?」
 私は目を閉じた。自分でも、数え切れないくらい何度も繰り返してきた問いだ。なぜだ。なぜ私は、あんなことをしてしまったのだろう。しかし、答えは出なかった。分かるはずもなかった。

 幻燈師は、目を瞑ったまま、身じろぎひとつしなかった。眠ってしまったのかと思われた頃、唐突に口を開く。
「……飽きたんじゃないか」
「飽きただと?」
 彼は、ふんと馬鹿にするように鼻を鳴らした。やがては消える幻ばかりを相手にすることに飽きたか、それとも、「天才」と呼ばれることに飽きたか。
「いいか、幻燈師。あんたは今まで存在した幻燈師の中で最も優れた腕を持っていた。あんたほどの職人は、この先も現れないだろうと言われている。だというのに、このざまはどうだ? 反逆者として扱われ、追われる身から一生逃れられない。そこまでして、あんたはなにを手に入れようとしたんだ? 惜しいとは思わなかったのか、自分が築き上げてきたものを、全て捨てることを?」
「……光栄なお言葉だな」
 くぐもった笑い声を上げ、幻燈師は目を開いた。その顔に、怒りとも嘲りともつかぬものが浮かんでいるのを、彼は見た。
「その台詞、そっくり返させてもらおう」
 すうっと目を細める。彼は、思わず身構えた。背筋に、冷たいものが走ったような錯覚に陥る。
「人のことは言えないはずだぞ。あんただって同じようなもんじゃないか。……そうだろう? 人形師」
 ああ、やはり気付いていたか。幻燈師の宣告を、彼は思いの外穏やかに受け止めていた。

 人形師は、我々幻燈師よりもずっと孤独な人々だ。彼らは皆、もとは身寄りのない孤児だったといわれる。
 そんな子どもたちの中から、美術や芸術といった分野に秀でた血筋を見つけ出し、幼い頃から技術を叩き込む。指導するのは年嵩の人形師たちで、選ばれた子どもたちが交流を持つのは、生涯でただひとり自分の師だけであるという。依頼人と人形師が出会うことも、ない。それは、人々が人形師の神がかり的な力を恐れたためだともいわれる。
 しかし実際、優れた人形師の造る人形には生命が宿るという。彼らは言葉を話し、自らの手足で動くこともできる。笑うことも、泣くこともできる。人形師たちは、失われた「家族」の面影を人形に託すことで、生きた人形を生み出すのだ。決して手に入れることの叶わない人の温もりへの渇望を、人形の命へと昇華させるのだ。
「どうして分かった? 俺が人形師だと」
 ひどく静かな声で、人形師はそう尋ねた。
「彼女、だよ。あの子の手は、とても冷たかった。生身の人間とは思えないくらいにね。だが、あの世の存在とも違う。ならば、結論はひとつだろう。あの子は確かに生きている。しかし、人間ではない」
 人形師は、黙って首を縦に振った。それを肯定ととり、私は続けた。
「話に聞いたことがある。人形師の中には、本物の人間のように精巧な人形を造る者がいる、とな。まさか、自分がお目にかかることになるとは思わなかったが」
 人形師は、微かに笑ったようだった。ぎしぎしと首を回し、少女の方へ目を向ける。
「……あの子は、夕樹でできているんだろう?」
「ああ。良い出来だろう? 自分で言うのもなんだが、俺が今まで手がけた中でも最高傑作だ。……どこぞの金持ちの鑑賞品になるには勿体無いくらいにな」
「それじゃあ、やはり本当だったのか? あんたが、夕樹でできた人形を全て……」
 軽く片手をあげ、人形師は私を制した。
「そんなことは、今はいいだろう。俺はあんたに、例のことについてこれ以上説明を求めたりしない。あんたも、俺が言いたくないことは追求しない。どうだ、異論はあるまい?」
 お互い様、というやつだ。私にしろ、人形師にしろ、もとの世界に帰れば、逃亡者であることに変わりはないのだ。
「そうだな……。そういうことにしておこう。しかし、これで分かったな。……あんたがなぜ、あの子に夕日を見せようとしているのか、その訳が」
 人形師は、何も答えなかった。ただ、その目はじっと、自分の作品である少女に注がれているようだった。

 声が聞える。ここに来てから、初めて聞いた声だ。テテの声? ううん、違う。もっと、別の人の声。なんて言ってるんだろう。あたしに話しかけているのは分かるけれど、よく聞き取れない。
 ……カエリタイノカイ。カエリタイ。カエリタイ? それは、なに? カエル。帰る? ああ、そうだ。みんながいつも言っていた言葉だ。帰りたい。早く、帰りたい。
 あの時も、みんな同じことを言っていた。帰りたい。帰りたい。ああ、これで帰れる。帰れるんだ。みんなは、どこへ行ってしまったんだろう。ちゃんと、そこへ帰れたんだろうか。

 世界の果て、太陽が沈み、月が昇るその場所に、暮れない夕焼けに染まる森があるという。世界が始まったその時から、世界が終わるその時まで、紅の空が色を変えることはない。その夕日の光のみを浴びて育った森の樹は、「夕樹」と呼ばれている。どこまでも真っ白な幹と、同じく真っ白な葉を持つ、美しい樹だ。夕樹は、しなやかにして堅く、強い。そしてまた、まるで、自分たちを育てた夕日そのもののように、脆くて儚い。どんな色にも移り変わるが、決して染め上げられはしない。だからだろう。夕樹から生まれた人形たちが皆、「人形」という形を与えられても尚、故郷の森を忘れられなかったのは。
 あの少女が人形師の手元を離れてから、数ヶ月ばかり経った頃のことだ。人形師の元に、依頼人からの手紙が届いた。少女の様子がおかしい、何かに取り憑かれたようにひたすら絵を描き続けている、しかも、夕日の絵ばかりを。突然の変化を気味悪がった依頼人によって、少女は人形師の工房へと送り返された。少女の変調が収まるまで、しばらく預かっていてほしい、ということだった。
 工房に戻ってきてからも、少女はただ描き続けた。そんな少女に、人形師は大量のキャンバスと、ありとあらゆる色彩の赤い絵の具を与えた。そして、来る日も来る日も少女の絵を眺め続けた。やがて、人形師はあることに気付いた。筆を走らせつつ、少女は小さく唇を動かしている。まるで歌ってでもいるかのように。その時、人形師は決意した。彼らがこんなにも求めてやまない故郷へ、帰してやろう、と。
「人形師」
 幻燈師の呼ぶ声に、彼はふと我に返った。見ると、グラスを見守っていた幻燈師が手招きしている。
「どうした?」
 木製の体は、自由に動かない。幻燈師はしばらく腕を組んで奮闘を観察していたが、業を煮やしたらしく、ひょいと抱えあげてテーブルの上に座らせた。
「すまない……。で、なんだ?」
「見てみろ」
 幻燈師が指差したグラスの中、真っ黒な水面は、今もゆるやかにゆらめいている。その底の方に、一筋の赤い光が走ったような気がして、人形師は小さく声をあげた。
「見えたか? あれが、芽だ」
「幻の、芽か?」
「そうだ。……あと少しだな。この芽は、とても成長が早い。じきに、大きく育ってくれるだろう」
 もうすぐだ。もうすぐ、あの娘をふるさとへ帰してやれる。目の前の小さな闇を、再び赤い閃光が切り裂いた。

 幻の芽は、人間の赤ん坊と似ている。始終側にいて、世話を焼いてやらねばならない。そして、絶えず惜しみない情を注ぎ込むのだ。「愛情」と呼んでもいいかもしれない。少なくともかつての私は、自分の作り出す幻影を誇りとし、愛してもいた。自分の作品が、コーヒーや煙草と同じ嗜好品として消費されていても、中毒性のある麻薬のようなものだと蔑まれても、それで構わないと思っていた。私の仕事は、人々を束の間現実の憂いから解放し、新しい活力を与えるものだと、そう信じていた。
 それが、どうだ? 私は自分の住処を包み込む闇を窓から見上げた。一歩先も見えないほどの、濃い闇だ。私は、間違っていたのだろうか。恐らく、そうなのだろう。でなければ、今こんなところにひっそりと身を隠してなどいまい。
「後悔しているのか?」
「……人形師は人の心を読むと言うが。本当だったんだな」
 人形師は肩をすくめるような仕草を見せた。
「こういう言い回しを聞いたことがないか? 幻燈師は人の目を眩ませる、人形師は人の心を眩ませる、とな」
 私は、窓の外の闇に目を戻した。この闇も、幻だ。人の目など、簡単に欺くことができる。しかし、人の心はどうなのだろう。青空を暗闇で覆ってしまうように、心の目を塞いでしまうことなどできるのだろうか。
「……後悔はしていない。しかし、自分が正しかったとも思えない」
「正しいかどうかなんてことは、他人が判断することだ」
「そして、裁判官たる彼らは、私の方が間違っているという判決を下した。だから私は、今ここにいる。そういうことか?」
「あんたはさっき、後悔していないと言ったな。ならば、どうして今更正誤を気にする? 結果はどうあれ、あんたは自分が為すべきと信じたことを実行したまで。そうじゃないのか?」
「……私は」
 一度、大きく息を吸い込んだ。
「私は、彼らを救いたかった。あの世界の人々を、救い出したかったんだ……」
 幻影は、人の心を眩ませることなどできなかった。所詮、人の目を惑わせる小細工にすぎなかった。そういうことなのだ。



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