「白く・儚く・歌う」 ![]() ![]() ![]() ![]() ランプの炎が揺れた。私はページを繰る手を止め、チリリリ、と鳴る炎に耳を澄ませた。どうやら、来客のようだ。 本を閉じ、食器棚へ向かう。白地に青い縁取りの入った花瓶、まずは、このくらいでいいだろう。久々の客人だ。丁重にもてなさなければなるまい。花瓶を手に、私はドアの前に立った。ランプは、チリリリ、チリリリ、と小さく鳴り続けている。こころなしか、嬉しそうな響きに聞えるのは、気のせいだろうか。 やがて、ドアがノックされる。 目の前に立つ人物を、彼は狭い視界の許す限り、じっくりと観察した。三十過ぎの男、と見える。漆黒の髪の下からのぞく目は濃紺で、真夜中の湖面のように静謐な色を浮かべている。 しかし、こんな場所で暮らしている人間だ、外見など、さして当てにならない。それに、彼にとって重要なのは、この人物の持つ技術のみだ。 それにしても、ここは暗い。こんな、骨の髄まで染み渡るような闇には、久しぶりにお目にかかった。彼は思う。しかも、この闇はたったひとりの手で作り出されたものだというのだから、恐れ入る。さて、お手並み拝見といこうか。動かぬ口を気持ちだけ綻ばせて、彼は笑う。 ドアを開けると、そこにはひとりの少女が立っていた。腰の辺りまで伸びた長い髪は、降ったばかりの新雪のように真っ白、睫毛の一本一本までくっきり見えそうなほど大きな目は、アメジストのような深い紫、身につけた服は、細かいフリルがあしらわれた高価そうなものだが、黒い煤があちこちにこびりつき、見る影もない。彼女は、胸の辺りに木製の人形を抱えていたが、こちらもすっかり煤けている。もとは操り人形だったらしく、右手と頭のてっぺんに、麻紐らしき残骸がぶらさがっていた。 「やあ」 私は少女に声をかけた。彼女は、ぴくりとも動かない。ここにやって来る客は、皆そうだ。皆が傷付き、疲れている。そして彼らはもう、この世の存在ではない。生きた人々は誰も、こんな場所を訪れはしないのだ。 私は両手で花瓶の口を包み込んだ。何度か軽く上下に降った後、ぱっと手を開く。すると、何もなかった花瓶に、大輪のダリアが現れた。 突然、視界が真っ赤に染まった。それが、目の前一面に広がった花なのだと気付くのに、少し時間がかかった。 ここは、世界の狭間だ。この場所にやってくる客は、ほとんどが幼くして息絶えた子どもの魂だといわれる。そんな者たちを、この男はちょっとした奇術でもてなしているのだろう。 「洒落た真似をするじゃないか」 奇妙な甲高い声が、自分の口から聞えた。 「洒落た真似をするじゃないか」 きんとした声が、どこからともなく聞えた。少女の口元を見つめてみたが、彼女がしゃべったわけではないらしい。 「おい、こっちだよ」 また聞えた。少女の胸の辺りから聞える。そこにいるのは、焦げ跡の残る操り人形だ。 「そう、俺だよ。俺たちは、あんたに用があって来たんだよ。わざわざ、こんな所までさ」 「私に……?」 戸惑いながら、私は人形を見つめた。私がこの場所で暮らすようなってから、もう思い出せないほどの年月が流れた。その間、私を訪ねて来た者など、ひとりもいない。当然だ。誰も追いかけてこられないように、私はここに逃げ込んだのだから。 「そうだ。あんただよ」 人形は、そう言うと、口の端を軽く吊り上げるように嘲笑った。そのように、見えた。 「なあ、とりあえず中に入れてもらえないか? せっかく訪ねて来たんだからさ。……幻燈師さんよ」 ここはどこ? どこもかしこも真っ暗で、なにも見えない。 どうして、こんなところにいるんだろう。あたしはひとりでここに来た。ううん、ひとりじゃない。 テテが一緒。テテは、あたしの友達。みんないなくなっちゃったから、今ではテテだけが、あたしの友達。 ねえ、ここはどこなの? どうしてこんなにも真っ暗なの? テテはどこにいるの? ああ、テテの声が聞える。テテ。ちゃんと、ここにいたのね。 幻燈師、という言葉を聞いた途端、男は見るも無残なほどにうろたえた。やはりそうだったか、と彼は思う。幻燈師、この世のありとあらゆるものをスクリーンにして、この世ならぬ風景を映し出しして見せる人々。人の目を眩ますことを得意とする彼らだが、その反面、自身を偽ることにはまるで長けていない。この男もまた、そんな幻燈師の厄介な性癖を忠実に受け継いでいるようだ。 「私、は」 男は掠れた声を苦しそうに押し出した。 「私は、幻燈師などではない。見ての通り、しがない手品師だ。幻影を操るなんて、そんな大それたこと」 「へえ。じゃあ、そんなしがない手品師がなんでわざわざこんな場所にいる? ここは世界の狭間、それも、今まで見たことがないほど大きな裂け目だ。とても自然に生まれるような代物じゃない。大方、あんたが自分で作り出したんだろう? ついでに、この闇もさ」 男は何か言いかけたようだが、結局は口を閉ざし、力なく目を伏せた。認めたか。彼は、内心ほくそ笑んだ。 「まあ、あんたがどうしてこんな辺鄙な場所に逃げこまなきゃならん羽目に陥ったのかも、俺は承知の上だけれどな。……そこで、だ」 彼は自由に動かない体を精一杯乗り出した。ぎしぎし、と古びた木が軋む音がする。 「あんたに、折り入って頼みがあるんだよ。稀代の天才幻燈師と呼ばれたあんたにさ」 「頼み、だと?」 搾り出した声は、自分でも情けないほどに弱々しかった。 「ああ、そうだ。あんたにしか頼めないことだ」 人形が、がくがくとぎこちなく首を縦に振る。 「簡潔に言おう。この娘に、夕日を見せてやって欲しい」 「夕日?」 私は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。どんな無理難題を押し付けてくるのかと思えば、夕日だと? 「そう、夕日だ。しかし、ただの夕日じゃない。この娘の、生まれ故郷の夕日だ」 生まれ故郷、か。私は少女に目をやった。彼女は相変わらず黙り込んだままだ。自分が話題になっていても、表情ひとつ動かさない。 「しかし、私はこの子の生まれた場所を知らない。それなのに、どうやって故郷の夕日を作り出せというんだ?」 「そんなことは簡単だ。この世で一番美しい夕日を映し出せばいい。空も大地も、人の心までも染め上げる夕日を」 この世で一番美しい夕日。頭の隅で埃を被っていた古い記憶が、カチリと音を立てて蘇る。聞いたことがある。そんな圧倒的な夕日の話を、私はどこかで聞いたことがある。私はもう一度、少女を見つめた。もしかすると、この子は……。 「さあ、どうなんだい? 引き受けるのか、引き受けないのか。早く決めてくれ」 小さく溜息をついて、私は軽く目を閉じた。胡散臭い話だとは思う。しかし悪いことに、この仕事には私の擦り切れた職人魂を呼び覚ます何かがあった。 「分かった。引き受けよう」 その時、少女の瞳が微かに揺れたような気がした。 幻燈師は、幻を作り出す過程を人には見せない。それはちょうど、手品師が決して種を明かさないとの同じだ。依頼が入ると、幻燈師はひどく神経質になる。薄暗い部屋にこもり、食事も睡眠も取らずに作業に没頭する。幻燈師は、ひどく不器用な人種である。仕事に熱中している時には、その他のことは何もできなくなってしまうのだ。そんな時には、例え依頼主であっても、彼らに会うことはできない。 彼が訪ねてきたこの幻燈師も例外ではないらしい。しかし、準備が済むまで外に出ていてくれという幻燈師の言葉を、彼はにべもなくはねつけていた。 「引退して、もう随分と経つんだろう? いくら腕が確かでも、勘が鈍ってるはずだ。依頼主として、不安になるのは当然だと思うが?」 彼がそう言うと、幻燈師は諦めたように小さく首を横に振った。それ以来、口も聞かず思考の海に沈みこんでいる。しかし、やはり部屋の片隅で見守っている観客のことが気になるのか、時々ちらりとこちらに目をやっては、こっそり溜息をついていた。 「おい、幻燈師」 ふと思いついて、彼は声をかけた。しかし、幻燈師はなにも答えない。彼の呼びかけを無視したというよりも、まるで耳に入っていない様子だった。なおもしつこく呼び続けると、焦点の合わない目で彼の方を振り返った。 「……なんだ?」 「なにか、飲み物をもらえないか?」 幻燈師は、片眉を吊り上げた。 「人形がそんなものを必要とするとは聞いたことがないが」 「ふん、俺じゃない。この娘にだ」 ああ、と納得したように頷き、幻燈師は台所へと向かった。 「なににする? いずれにせよ、大したものは置いてないがな」 紅茶の缶を棚から下ろしながら、私は尋ねた。確か、薔薇の花びらの入った茶葉がまだどこかに残っていたはずだ。 「そうだな……。ウィスキーはあるか? できれば年代物がいい。三十年以上前のものならなおいい」 「……その子が? ウィスキーだって?」 思いがけない返答に、私は面食らった。 「ああ、そうだ。人にはいろんな事情ってもんがあるんだよ、幻燈師。なにはともあれ、この娘には古いウィスキーが一番なんだ」 どんな事情なのかは見当もつかない。考えるのが面倒になったので、私は人形の注文通り、小さなブリキのコップに氷を入れ、琥珀色の液体を注いだ。もうかれこれ五十年近く前、私がまだ現役の幻燈師だったころ、依頼人から謝礼として貰ったものだ。 「……どうぞ」 少女の方へ差し出す。しかし、彼女は何の反応も示さなかった。人形がやけに素っ気無い口調で口を挟む。 「手に持たせてやってくれ。……この娘は、目が見えない」 曖昧に相槌を打ち、私は少女の両手でカップを包み込むようにした。少女はなおもしばらくじっと動かなかったが、やがてやっとグラスの存在に気付いたように、それをゆっくり口元に運んだ。カチカチと氷が鳴る音に、私はぼんやりと耳を済ませていた。 冷たかった体が、少しずつ温かくなってきた。たぶん、さっきの飲み物のせいだ。ふわふわするような、眠いような、不思議な感じ。ここに来る前にも、何度か飲んだことがあると思う。なんだか、頭の中がぼんやりしていて、うまく思い出せない。 だけど、懐かしい香りがした。あたしは、あの香りを知っている。よく知っている。ずっと前、ずっとずっと前、あたしはあの香りに包まれていたはずなのに。でも、どうして思い出せないんだろう。 浅い仮眠から覚めると、幻燈師は既に仕事を始めていた。テーブルの上に、大ぶりなワイングラスが置かれている。霧がかかったように不透明なグラスだった。幻燈師はその中に水を注いだ。とろりとした、薄青味がかった水だ。 次に幻燈師は、少し小ぶりの、同じく乳白色のグラスを手に、台所へと入っていった。やがて戻ってきた幻燈師は少女の前に立ち、その瞳を覗き込んだ。 「ひとつ、聞いておきたいことがあるんだが」 視線は少女から逸らさないまま、幻燈師が聞く。 「この子は、目が見えないと言ったな。それならば、どうやってこの子に幻を見せるつもりだ?」 「目で無くても、見ることはできるだろう」 「確かにな。しかし、問題はそういうことじゃない。この子が、その幻を見ることを、望んでいるのかどうか、私はそれを知っておきたい」 「……この娘に、望みなど無い」 「では、依頼に答えることはできないな」 「……どういう意味だ?」 彼は、軋む首をもたげ、幻燈師を睨みつけた。 「我々幻燈師は、依頼人が見たいと望むものを見せる媒介にすぎない。その人間が欲する映像を読み取り、映し出す。我々は、幻を作り出すんじゃない。その人間の心の奥底に眠るイメージを引きずりあげ、呼び覚ますだけだ。だから、望みもしないものを見せることはできない。……人の望んだ光景を、他人の目に映すこともできない」 「……要するに」 人形は溜息交じりに呟いた。 「あんたは、俺が自分の望みをこの娘に押し付けようとしていると、そう言いたいわけか?」 私は頷いた。 「なるほどな。あんたの言い分にも一理あるが……。しかし、それは違う」 慎重に言葉を選ぶように、人形は続けた。 「さっき俺は、この娘に望むものなどないと言った。だが、それは正確じゃない。この娘は、何かを望む方法を知らない。そんなものは、教えられちゃいないんだ。しかしな、俺には分かる。この娘が、自分でも気付かない……いや、気付けない憧れを、ずっと抱いてきたことがな」 「それが、故郷の夕日だと?」 「そうだ」 「なぜ分かる?」 「分かるものは分かるんだ」 分かるものは分かる、か。論理性の欠片もないが、妙に説得力がある。 「……まあ、いいだろう」 追々、謎は解けるはずだ。私は、少女の手にグラスを載せた。 ![]() ![]() ![]() ![]() 進む→ 創作品へ 入り口へ |