「赤い空 銀の鱗」



* 第九章 銀色の幻 *

“目に映るもの、映らないもの。君は、どちらを信じる?”

 小さい頃、僕は「兄弟」という言葉に、憧れを抱いていた。例えば、学校からの帰り道、例えば、夕方遊び疲れて解散する時、小突きあったり笑いあったりしながら、同じ家へ帰って行く彼らが羨ましかった。一人っ子だった僕にとって、テレビのチャンネルやお菓子の数を巡って喧嘩をする相手がいる生活が、とても楽しげなものに思えたのだ。 しかし、少なくとも僕には「姉」がいた。校庭で駆け回ることに夢中になりすぎて、ついつい帰りが遅くなった時、夕食の用意をする母の代わりに学校まで迎えに来てくれる「姉」が。玄関の前まで僕を送り、斜向かいの家へと帰っていく「姉」が。

 コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。僕は寝返りを打って布団の中に深く潜り込み、気付かなかったふりをした。再び、さっきよりも強いノックの音がする。僕はぎゅっと目を瞑った。僕は今、眠っているのだ。眠っているから、ドアを開けたりしない。
 もう一度、ノックの音が響く。今度は、同時に聞き覚えのある誰かの声も降ってくる。
「淕、僕だ。起きてるんだろう? だったら、開けてくれないか」
 起きてるんだろう、か。僕は諦めてベッドから身を起こした。ドアまで歩いていくことさえ、ひどく面倒だ。
「起きてるよ。勝手に入ってくればいい」
 膝を抱え込みながら、僕はドアの外に向かって声をかけた。我ながら、つっけんどんな言い方だと思った。ここ三日ばかり、ほとんど誰とも口を聞いていない。声を出すのは、食事を運んできてくれた先生と少し言葉を交わす時だけだった。久しぶりに聞いた自分の声は、喉にひっかかっているようで、ひどく滑稽に響いた。
 両手に盆やら袋やらを抱えて、双子の片方……啓が入ってきた。いつの間にか、服のどこかにつけられた目印を確認しなくても、彼が双子のどちらなのか見分けられるようになっていた。彼らが、喧嘩をしてから……いつも一緒にいるように見えた彼らが、別々に行動するようになってからのことだ。
「すごい荷物だな」
「ああ。だから、開けてくれって言ったんだよ。両手がふさがってたからね。でなかったら、言われなくても勝手に入ったさ。……ほら、淕の分の昼ご飯。……と、洵の絵。新作なんだってさ。それから……まあ、これは後でいいや。もともと、洵に頼まれた分だけだったのに、途中でいろいろと押し付けられてさ、それでこんな大荷物になっちまった」
 僕は、ベッドの縁に腰掛け、渡された盆を膝の上に乗せた。大きめの深皿に入った野菜のスープとパン、そしてオレンジジュースにトマトが丸ごと一個。顔をしかめた僕を見て、啓がにやりと笑った。
「トマト、嫌いなんだって? ちゃんと食べろよ。一応は病人ってことになってるんだからさ。悠に、仰せ付かってきたんだよ。好き嫌いなくきちんと食べさせるようにって」
 啓の言葉に、僕は思わず体を硬くした。悠。そうだ、彼女は僕が病気をするといつも大げさなくらいに気を使うのだ。
「三日も授業を休んでるっていうからさ、本当に具合が悪いのかと思って見に来たんだけど。別に、そういうわけでもなさそうだな。……悠が、心配してたよ。僕が、君の様子を見に行くって言ったら、いろいろと頼まれた。風邪なのか、頭痛なのか、もし風邪なら、あの子はすぐにお腹を壊すから……っていう風にね」
 あれはほとんど母親の台詞だったな。啓は思い出したようにクスクスと笑った。
「そんなに気になるなら、自分で会いに行けばいいのに、って言ったのにさ。そんなことしたら、君が絶対機嫌を悪くするからって。……あのさ、淕」
「……何?」
 僕は、半ば啓の目を睨みつけるようにしながら、次に来るであろう質問を予期して身構えた。悠と、喧嘩でもしたのか? 
「余計なお世話かもしれないけど、さ」
「……余計なお世話だよ」
 即座に言い返した僕に、そんな怖い顔するなって、と啓は笑ってみせた。
「迷惑だと思うなら、聞き流してくれてもいい。だけど、ひとつだけ言っておきたいことがある。……修復可能な内に、歩み寄った方がいい。そうでないと……」
 ふっと黙り込んだ啓は、そのままいくら待っても続きを口にしなかった。やがて彼は小さく息を吐き、勉強机の前の椅子に座った。

「僕と哲は、小さい頃から喧嘩ばかりしてきた。あいつの方が一応は兄貴だから、ことあるごとに僕のことを弟扱いしてさ、それが気に入らなかったんだ。双子なんだから、兄も弟もないって、僕はそう思ってたんだけどね。喧嘩の理由は、いつもちょっとしたことで……。僕が哲のハンカチを間違えて学校に持っていったからだとか、哲が僕の机の上にあったペンを勝手に使ったから、だとかね。そんなことで、何日も口を聞かなかったりした。こっちに来てからも、それはあんまり変わってないな。まあ、さすがに十五にもなって、今じゃあ取っ組み合いの大喧嘩になることはなくなったけどね。一度なんか、あいつに突き飛ばされた勢いで、学校の廊下の窓ガラスを突き破ったことがあってさ。そこら中にガラスの破片が飛び散って、おまけに僕も哲もあっちこっち傷だらけでね。先生陣に呼び出されて、こっぴどく叱られたよ。ま、当然だけどね。……でも、僕らの喧嘩はいつも長続きしないんだ。初めの内は、もうこんな奴とは金輪際縁を切ってやる、って息巻くくせに、しばらく経てばどうして喧嘩してたのかも忘れてたりする。……いつもなら」
 啓は、目を伏せた。膝の上で、指先を組み合わせる。話そうかどうしようか、迷っているように見えた。
「だけど、今回ばかりは、どうもそういうわけにはいかないみたいだ。……哲はきっと、僕を許さないだろうから」

 ファイルを小脇に抱えて、僕はコンピューター室へと向かった。欠席していた三日分の授業を埋め合わせるため、先生たちは僕のために特別の課題を用意していた。プリントにして十枚、僕一人では手に余る量だ。これを一週間後に提出しなければいけないというのだから、厄介なことこの上ない。大体、僕は普段から宿題に真面目に取り組むような生徒ではないというのに、こんなものを押し付けてどうしようというのだ。きちんと仕上げてくるはずがないじゃないか。愚痴を並べる僕を、啓は笑いながら宥めた。
「観念しろよ。授業が終わったら、僕も少しは手伝うからさ。身から出たなんとやら……ってやつだろ?」
 茶化すように言った彼の顔に、さっきまでの翳りは微塵も残っていなかった。まるで、なにかを無理矢理に吹っ切ろうとしているようだと、僕は思った。

 哲は僕を許さない。淡々と、いっそ突き放すように、啓はそう告げた。口調こそは落ち着いていたが、床に向けられた目は小刻みに震えていて、それが彼の心の揺れを表しているように見えた。
「あの日、僕らは昔よくやった悪戯をまた仕掛けてみようと思い立ったんだ。よっぽど、退屈してたんだろうな。もう、よく覚えてないけど……。服を取り替えて、お互いに相手のふりをする、ただそれだけなんだ。ドームに来る前には、よくそうやって入れ替わってた。僕らの持ち物には全部、母さんが目印をつけてくれてね、あの時も言ったと思うけれど、誰でも見分けがつく反面、目印さえ取り替えれば簡単に人の目を誤魔化してしまえるんだ。近所の人や、学校の先生なんかは、けっこうそれだけで騙されたもんだよ。両親には、いつもすぐに見抜かれたけどね。あっという間にばれて、母さんに雷を落とされる」
 啓が、ドームに来る前の話をすることは珍しい。哲とは違い、彼は昔の日々について多くを語りたがらないのだ。
「そんな時には、父さんがとりなしてくれたもんだよ。別に誰かを傷つけるような悪戯をしたわけじゃないんだからいいじゃないか、子どもは大人を煙に巻きながら大きくなっていくんだ、って。父さんは、僕らの悪ふざけにとても寛容だった。逆に、もっとやれってけしかけるくらいだったんだ。大らかで、子どもみたいなところがあって、でも厳しい時にはちゃんと厳しい。父さんは本当に……、尊敬すべき人だったと思う」
 微妙な違和感に、僕は眉を寄せた。啓の言葉の何かが、頭の隅にひっかかる。父さんは本当に……。
「……尊敬すべき人、だった……?」
 僕の呟きに、啓は俯いていた顔を上げた。いつかと同じ、追い詰められたような色が、その目には浮かんでいた。
「そう。だった、だよ。……哲も、すぐに僕の言わんとすることに気付いた。ほとんど殴りかかりそうな勢いで、僕に詰め寄ってきたんだ。どうしてそんな言い方をする、どうして父さんのことを過去形で話すんだ、ってね」
 啓はそこで一度視線を逸らし、唇を噛んだ。まだ、躊躇しているのだ。その先を、話してしまっていいのかどうか。自分の確信を、言葉にしてしまっていいのか。言葉にしてしまえば、それが動かしようのない事実に変わってしまいそうな気がする。僕は、目を閉じた。どうしてだろう。彼の迷いも、恐れも、全てが手に取るように分かってしまう。それは多分、僕自身が彼と同じ結論を導き出しているからなのだろう。目を瞑ったまま、僕はゆっくりと口を開いた。
「このドームの中には、僕らが知りたくないような事実や、穏やかな生活を崩壊させてしまうような事実が、積み重なっている。まるで、パンドラの箱のようにね。それでも、真実を知りたいと思うのか。それとも、知らぬ顔をして変わらぬ毎日を送るのか。……悠は、僕にそう訊いたよ。どちらを選ぶつもりなのか、って。……啓。いつだったか、君に訊かれたことがあったよね。君たちや僕の父親、洵の両親は、本当に生きているのかって。あの時、僕は答えられなかった。心の中ではもう、自分の答えを見つけていても、それを口に出してしまうことができなかった。……怖かったんだよ。後戻りできなくなりそうで、怖かったんだ。だけどもう、怯えるのはやめにする。僕は、全てを知ることを選ぶよ。今更、背を向けることはできない。……後へは退けないんだ」
 僕は目を開いた。啓の不安げに揺れる目を、真正面から見据える。
「父さんにはもう、会えない。それが、僕の答えだ」

 啓は、小さく頷いた。僕の言葉に驚いたような様子はない。不吉な憶測を、非難する素振りも見せなかった。
「どうして……なんだろうね」
 ぽつりと、啓が呟いた。
「どうして、僕と哲の信じる事実は同じじゃないんだろう。同じものを見て、同じ経験をして、同じ生活をしてきたのに。……僕はね、淕。哲が、少し羨ましいような気もするんだ。あいつは、父さんに再会できることを心から信じている。これっぽっちも疑わないんだ。……僕も、そうできれば良かったのにな。そうすれば、こんな風に仲違いすることもなかったのに」
 ため息のような啓の声を聞きながら、僕はぼんやりと考えた。悠は、どうなんだろう。彼女は僕に真実のかけらを手渡した。そうすることで、悠は僕に何を期待したんだろう。僕に突きつけた二つの選択肢、彼女が選ぶのは、どちらなんだろう。彼女もまた、啓と哲がそうしたように、僕とは違う未来を見続けるのだろうか。だけど、と僕は思う。
「だけど、例え信じる事実が異なっていても、僕らが望むものは同じなんじゃないのかな」
 啓に語りかけるというよりも、自分に言い聞かせるため、僕は言葉を続けた。
「僕らが願うものは、きっと同じだよ」
「……そうだね」  やっと、啓の顔に笑みが戻った。そう、僕らの願いはひとつだ。それだけは、信じていたいと思った。

 コンピューター室は、生徒たちでいっぱいだった。僕は背伸びして室内を見渡した。こんなに人がいるというのに、この部屋はとても静かだ。なんとか空いているブースを見つけ出した僕は、席につき、端末の電源を入れた。機械が起ち上がるのを待つ間、僕は持ってきたファイルの中から何枚かの画用紙を引っ張り出した。洵が描いた絵だ。黒い枠の中に、銀色の魚。洵は最近、この絵ばかり描いている。二枚目も三枚目も、同じ絵だ。僕は苦笑した。全く、よく飽きないもんだな。
 真っ黒だった画面が、鮮やかな水色に変わる。僕は課題のプリントを取り出し、キーボードに手を置いた。正直なところ、僕は端末の扱いがあまり得意ではない。単なる好みの問題なのだろうが、僕たち人間より遥かに優れた情報処理能力を持ったこの機械に、どうしても馴染めないのだった。だから、必要のない限り、コンピューター室に出入りすることはない。生徒たちの中には、自由時間の多くをこの部屋で過ごす者も多いそうだが、僕には到底理解できなかった。
 しかし、好き嫌いに拘っていても仕方がなかった。提出期限までに、なんとか全て片をつけてしまわないといけない。もともとが、単なるずる休みなのだ。先生たちも、そのぐらいのことはお見通しだったのかもしれない。
 キーボードを叩きながら、明日からは授業に出ようと僕は心に決めた。そしてもう一度、悠の話を聞こう。整理のつかない頭を抱えたまま、彼女と顔を合わせるのはひどく億劫だった。けれど、これ以上彼女を避けていても前には進めない。ちゃんと、理由を聞くのだ。悠が、なぜ司令官に協力したのか、その理由を。そこから、全てが始まるような気がした。

 ふと、僕の後ろで誰かが息を呑んだような気配を感じた。振り向いてみると、そこには僕よりも少し年下に見える生徒が立っていた。大きく目を見開き、何かを見つめている。僕は、彼の視線を追った。その先には、洵の描いた絵が置かれている。この絵が、どうかしたのだろうか。尋ねてみようかと向き直った途端、彼ははっと我に返ったように踵を返した。まるで、僕の目から逃れるように、足早に去っていく。
 僕は洵の絵を手に取り、じっくりと眺めてみた。何の変哲もない、色鉛筆で描かれた絵。この絵のどこに、彼をあれほど驚かせたものがあるんだろう。近づけたり遠ざけたり、裏返してみたりして観察したが、僕には何も見つけられない。諦めて、再びディスプレイに意識を戻す。途中で終わっていた文章を入力しようとエンターキーを押そうとして、僕は奇妙なことに気付いた。音が聞こえない。これだけの人数が集まっているのに、何の音も聞こえないのだ。キーボードを叩く音も、マウスをクリックする音もしない。僕は静かに立ち上がり、辺りを見回してみた。この部屋にいる誰もが、じっとディスプレイを見つめていた。微動だにせず、画面をただ凝視している。
 ぞくり、と冷たいものがこみ上げてきた。彼らは何をしているのだ? 何を見ているのだ? 僕は広げていたプリント類をファイルに突っ込み、端末の電源を切った。早く、この場を離れたかった。この静寂は、ひどく気味が悪い。僕は逃げるように出口へと向かった。
 外へ出る直前、ドア近くの端末が目に入った。まだ、誰も使用していない真っ黒な画面。その隅を、何かが掠めたような気がした。銀色の、金属のような光沢を持った三角形の物体。
 突然、僕は思い出した。これを、僕は前にも見たことがある。この部屋で、このディスプレイの中で。その時、これは何かに似ていると思ったのだ。僕のよく知っている、何度も目にしたことのある、何かに。
「……あ……!」
 僕は声をあげた。ファイルの中から、画用紙の束を乱暴に抜き出す。洵の描いた絵。黒い枠と、銀色の魚。
 そうだ、あれは魚だ。魚の背鰭だ。ディスプレイの中を泳ぐ、鋼鉄の魚なのだ。足元から、得体の知れない寒気が立ち上ってきた。洵、君はいったい、何を見ているんだ?



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