「赤い空 銀の鱗」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 第八章 微かな影 * “予感はいつも、ほんのささやかなもの。だけどもう、取り返しはつかない。” 朝の教室は、熱気と喧騒に包まれていた。平穏無事を絵に描いたようなここでの生活においては、滅多に起こりえないことだ。普段ならばこの時間、寝ぼけ眼で欠伸を噛み殺している生徒たちがみんな、真剣な面持ちで周囲の連中となにやら議論している。賑やかな話し声と、時々沸き起こる笑い声。こんな光景は、もう長い間見たことがなかった。まるで、昔に戻ったみたいだな。そう思いながら、黒板の上の時計に目をやる。周りの生徒たちも、何人かつられたように時間を確かめた。九時五分。一時間目の授業開始時間から、三十五分が経過している。しかし、教壇に先生の姿はない。定規で測ったように正確で、遅刻にうるさい社会科の先生が、授業が半分以上過ぎてもまだやって来ないのだ。かつて、街の学校に通っていた頃にも、こんなことは一度もなかったはずだ。一体、何があったというのだろう。騒ぎが最高潮に達した頃、がらがらと教室の引き戸が開き、一人の先生が教壇の前に立った。 「静かに! みんな静かにしなさい!」 ぱんぱんと手を叩くその先生に、僕はまるで見覚えがなかった。それは、他の生徒たちも同じだったらしい。お互いに顔を見合わせ、首を傾げている。やっとのことで静かになった教室を見渡しながら、先生は口を開いた。 「まずは、初めまして。私は、上級生クラスで社会を担当しています。君たちの授業を受け持っていた先生が急な事情でここに来れなくなったので、これからは上級生と一緒に私の授業を受けてもらうことになりました」 先生は、再び教室内をぐるりと見回した。生徒たちはみな、予想外のことに言葉もないまま呆気に取られている。先生が来れなくなった? 上級生と同じ授業を受ける? 「今日は、連絡が遅れてしまったので、一時間目の授業は自習ということにします。では、次回からよろしく」 それだけ言い終わると、先生は教室を出て行こうとした。僕は思わず立ち上がった。待ってくれ。説明はそれだけなのか? 訊かないといけないことが、教えてもらわないと分からないことが、山ほど残っているのに。しかし、僕が駆け寄るよりも早く先生は立ち止まり、振り向いた。 「ああ、そうそう。一つ言い忘れていた。昨日、君たちの先生が出した宿題は、なかったことにします。忘れてきた人は、運が良かったな」 その一言に、静まり返っていた教室にわあっと歓声が上がった。一斉に椅子から立ち上がった生徒たちが、あちこちで跳ね回ったり抱き合ったりしている。その群れをかき分けて教室の出口に辿り着いた時、既に先生の姿はなかった。誰もいない廊下や階段をしばらく歩いてみたが、もう先生を捕まえることはできなかった。いっそ、最上階まで行ってみようか。そう考えて、すぐに打ち消した。最上階には、確かにこのドームの管理者たちが暮らしているが、先生たちの部屋がそこにあるという話は聞いたことがない。ならば、次の授業の時、先生を問い詰めてみようか。……いや、多分無駄だ。きっと、適当な理由をつけてはぐらかしてしまうに違いない。結局、僕らが真相を知ることはできないのだ。今まで、散々繰り返されてきたように。 その後の授業は、いつもと変わりなく、淡々と進んでいった。しかし、朝の興奮の名残は薄い霧のように教室中を覆っていて、生徒たちの顔には新たな変化への期待が滲んでいた。そう、彼らはなにも、宿題がなくなったというただそれだけのことを歓迎していたわけではないのだろう。いつもと違うことが起こる、単調な日々に小さな楔が打ち込まれる、そのことを、彼らは喜んだのだろう。ここから、何かが変わるかもしれない。この判で押したような日常を一気にぶち壊してしまうような何かが。熱狂の中で、僕は自分の頭の奥の方がすうっと冷めていくのを感じていた。変わる? この生活が、変わると? 「……よせよ」 誰にも聞えないよう、低い声で呟いて、僕は机に投げ出した腕に顔を埋めた。期待なんかするのはよせ。どうせ、また失望するだけだろう。もうそろそろ、気が付いてもいい頃じゃないか? ここでは、何も変わらない。ここは、袋小路だ。どこへ行くことも、どこへ帰ることもできない。 ……帰ることなど、できやしないんだ。 「淕! こっちこっち!」 夕食のため食堂に入ると、すぐに悠が僕を見つけて手招きをした。ごった返す部屋の中を苦労しながら進んでいると、突然、前から腕を掴んで引っ張られる。 「もう、何してるのよ。早くしないと晩御飯食べ損ねちゃうわよ。せっかく、おばさん達が作ってくれたっていうのに」 悠に引きずられながら食卓につく。その途端、目の前に食べ物を綺麗に盛り付けた皿が置かれた。何気なくその人物を見上げて、僕は驚いた。 「……母さん!」 母さんは、まじまじと僕の顔を見つめた後、にっこりと微笑んだ。 「なあに? そんな、お化けにでも会ったような顔して」 「だって、母さん……」 今日はまだ、僕らの区域の母親たちがやって来る番ではなかったはずだ。そんな大事なことを、忘れるわけがない。絶句していると、悠が横から口を出した。 「今日は特別なの。二つの区域のお母さんたちが集まって、お料理したのよ」 「そうよ。だから、思いがけなく可愛い息子に会いに来れたってわけ」 「だけど……、どうして……」 あら、と悠が大仰に眉を上げてみせた。 「淕は、おばさんに会えて嬉しくないの?」 「そうじゃない、そうじゃないよ、でも……」 「いいじゃないの。たまにはこういうことがあったって。ねえ、悠ちゃん?」 「そうそう。もう、淕は難しく考えすぎなんだから」 けれど、と言いかけて、僕は言葉を呑み込んだ。これ以上、答えの出ない応酬を続けても意味がなかった。母さんに会えたのは、もちろん嬉しい。悠や母さんの言う通り、これはちょっとした気紛れな出来事、思いがけないプレゼントなのだ。 しかし、いくらそう思い込もうとしても、微かな胸騒ぎはどうしても収まらなかった。これは、なんだ? 何かが起ころうとしているのか、本当に? いつものように母さんたちをゲートまで見送り、僕と悠は自室へと戻り始めた。螺旋階段を下りる悠の後を、大人しくついていく。 「どういう風の吹き回し? 階段なんて滅多に使わないくせに」 からかうように、悠は僕の顔を覗き込んだ。僕は何も答えず、そっぽを向いた。まだ、少し頭が混乱している。このまままっすぐに、ひとりで部屋に戻りたくはなかったのだ。 「ねえ、悠」 なんでもいい、何か形のある答えが欲しくて、僕は悠に尋ねた。 「どうして、母さんたちは今日、ここに来たんだろう」 悠は呆れたように笑った。 「なあに、まだそんなこと気にしてるの? おばさんも言ってたじゃない。たまには、こんな風にいつもと違うことがあったっていいじゃないの」 「……いつもと違うこと、だって?」 あくまでも明るい悠の口調に、僕は何故か説明のつかない憤りを覚えた。 「いつもと違う、それが大問題なんじゃないか。このドームには、そんなものは今までなかった。いつも、日常、決まりきった毎日、それが全てだったじゃないか。変わらないことだけが、この二年間を支配してきたルールだ。……そう、二年だ。二年もの間、僕らはそんな風に暮らしてきたんだ。なのに何故、今になって変化を当然のように受け止められるんだ? いつもと違う、そのことに、どうして誰も疑問を持たない?」 悠に怒りをぶつけたところで、仕方ないことは分かっている。けれども、一度口に出してしまうともう止まらなかった。螺旋階段の踊り場に立ち、僕は悠に向かって一気にまくしあげた。 「今回のことだけじゃない。僕らは、どんなことに関しても、充分な答えを与えられていないんだ。どんなことにも、全ての事柄に関してだ。どうして僕らは今ここにいる? どうして僕らはあの街を出なければいけなかったんだ? どうして、僕たちはあの街に帰ってはいけないんだ? 何一つ、僕らは知らない、何一つだ! なのに、誰もそのことを不思議だと思っていない。いつか帰れる、いつか、この生活には終わりが来る。ただただそう信じているんだ。何も疑ったりはしない。いや、本当は不安を感じているにしても、そんなものは巧みに誤魔化してしまう。どうしてだ? どうしてそんなことができるんだ? ……いや、そうじゃない。どうして、僕にはそれができないんだ? どうして僕は、みんなと同じものを信じられない? ここにいれば、何も変わらないのに。ここにいれば、僕らは守られているのに。それなのに、どうして……」 喉が熱い。ふらふらと、僕はその場に座り込んだ。 「どうして、僕は……!」 息が、苦しかった。俯いていても、こちらを見下ろす悠の視線を痛いほどに感じる。 「……じゃあ、淕。あなたは、どうしたいの? このまま、何も知らずに今まで通りの平穏な生活を送りたいの?」 僕は、下を向いたまま首を横に振った。そんなことはできない。もう、僕にはできない。 「それなら、何もかもを知りたいの? 私たちが知らされていないこと、大人たちが教えようとしないことを、全て?」 少し躊躇った後、僕は首を縦に振った。 「もしもそれが、知りたくないような事実だったとしても?」 僕は、再び頷く。 「例え、それを知ることで、この生活を壊してしまうことになっても? それでも淕、あなたは全てを知りたいと、そう望むの?」 三度頷いた僕に、悠は大きくため息をついた。しょうがないわねえ、と苦笑交じりに呟く。 「淕、こっちを向いて」 僕は、ゆっくりと顔を上げた。目を合わせた悠は、これまで見たことがないほど厳しい表情をしていた。厳しく、そしてどこか悲痛な顔。 「ひとつだけ、教えてあげるわ。ドームに避難する時、持ち物検査があったでしょう?」 「うん。……でも、あれは僕たちの区域だけだったんだって……聞いた」 「そう……。もう、知っていたのね」 悠の目に、何故か安堵したような色が浮かぶ。 「淕、あなたのお父さんは、ドーム建設の詳細を、手紙に残していたわね。それを、毎日あなたに託し続けた。あの持ち物検査は、その手紙を手に入れるために行われたの。私たちの区域に対してだけ」 「だけど、あの手紙のことは、僕たち家族と……、あとは悠くらいしか知らないのに……」 「……私よ」 何を言われたのか分からなくて、僕は戸惑いながら悠を見上げた。 「悠……、なに……を……」 「私が司令官に話したの。あの、手紙のことを」 頭がぐらぐらする。悠の言葉を、上手く理解できない。悠が、話した。何を? 手紙。父さんの手紙。司令官に。だから、あの手紙は……。 「……どうして。どうして、悠がそんなこと……!」 悠は不意に目を逸らし、僕に背中を向けた。 「だから言ったでしょう? 知りたくないような事実、今の生活を壊してしまうような事実、そんなものが、このドームには詰まっているのよ。それを知りたいと願ったのは、淕、あなたよ。受け止めなさい、全てを。もう、後には退けないわ」 振り向かないまま、悠は一人で階段を下りていく。僕は、引き止めることも、声をかけることすらできなかった。力無く背を預けた壁が、やけに冷たかった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |