「赤い空 銀の鱗」



* 第十章 一枚の絵 *

“守ってみせる。あの時、そう心に決めた。”

 授業終了の合図と共に、僕は教室を出た。頭が重くて、目の奥が鈍く痛む。このところ、ろくに眠れていない気がする。何かと考え込んでしまうことが多くて、とても寝付けないのだ。そしていつも、僕の思考は堂々巡りを繰り返し、またもとの場所に帰ってきてしまうのだ。僕の手には負えない。僕ひとりではとても、太刀打ちできない。
 昼休み、昼食の時間だが、ほとんど食欲はなかった。食堂へ向かおうとする生徒たちの流れに逆らうように、僕は廊下に立ち尽くし、ただぼんやりと少し離れた場所にある掲示板を見るともなく眺めていた。時間割や、授業における注意事項を書いたポスター、もう何百回と繰り返し目にしてきたものばかりだ。今は、図工の時間に描いた楽器のクロッキーが一面に貼り出されていた。一週間ほど前、教室にトランペットやホルン、アコーディオンなどを持ち込んでスケッチしたものだ。自分がどの楽器をモデルに選んだのか、思い出そうとしながら一枚一枚を目で追っていた僕は、最後の一枚を見てもう少しで声を上げそうになった。

 掲示板の左隅、一番低い位置に、他のものとはまるで違う絵が貼り付けてあった。色鉛筆で丹念に色付けされた絵だ。右下には、オレンジの色鉛筆でたどたどしく名前が書かれている。銀色の魚に、習いたてのひらがな。間違いなく、洵の絵だった。
 洵にとって、この絵は特別なものなのだという。だから、彼女が特別だと思う人間に以外には、見せないのだと、いつか、彼女はそう言っていた。確かに、洵が授業中に魚の絵を描いている姿を、僕は見たことがない。そして今、掲示板に貼られているその絵に、僕は見覚えがなかった。
 彼女はこの絵を、僕の知らない「特別な」誰かに渡したのだろうか。

 そういえば、洵はどこへ行ったのだろう。今日はまだ、教室で彼女の姿を見かけていない。洵はいつも、僕よりもずっと真面目に授業に出ていたというのに。午後からは、洵の好きな理科の授業がある。理科の担当は、栗色の髪をおかっぱにした若い女の先生で、洵はこの先生にとてもなついていた。洵の母親にどこか似ている、というのが、その理由らしい。彼女がそう言う度、僕は胸の奥に鈍い痛みが走るような気がするのだった。
「淕……!」
 叩きつけるような声で名前を呼ばれ、僕は慌てて振り返った。廊下の向こう側から、誰かがこちらへ駆け寄ってきていた。
「淕! 良かった、ここにいたのか……」
 息を切らせながらも、ほっとした表情でそう言ったのは、哲だった。体を折り曲げて、乱れた呼吸を整えようとしている。
「大丈夫か? どうしたんだよ、哲。そんなに急いで……」
「……洵が……!」
 搾り出すようなその声に、僕は身を硬くした。なにか、不穏なことが起こるような、そんな予感がした。
「洵が、どうしたんだ?」
 哲は、必死の形相で僕を見上げた。まだ息苦しいのか、うまく言葉が出ないようだ。
「……二十階へ……! 二十階の、談話室に、行ってくれ。僕には……今は、うまく説明できない。だから、早く……!」
 早く。そう、うわごとのように繰り返す哲に頷いて見せ、僕は廊下を走り出した。

 談話室の入り口には、人だかりができていた。どの顔にも、興味津々といった色が浮かんでいる。背伸びして、ドアのガラス窓から中を覗き込もうとする生徒たちを押しのけ、僕は室内に踏み込んだ。
 談話室の中は、ひどく散らかっていた。ソファが、足を上に向けてあちこちにひっくり返っている。テーブルの上に乗っていた鉢植えは、ことごとく砕けて土が床に散らばっている。その中、五人ほどの生徒たちが突っ立っていた。
「……淕兄ちゃん……!」
 甲高い声と共に、小さな人影が僕にしがみついてきた。洵だ。僕が頭を撫でると、火がついたようにわっと泣き出した。
「洵、いったい、何が……」
 あったんだ、と続けようとした時、別の場所から呼びかけられた。
「淕! どうして、ここへ……」
 目を上げて、僕はあ然とした。
「……啓! 何で君が……。いや、それより、どうして、そんな怪我……」
 啓は、軽く顔をしかめた。すぐさま、僕に背を向ける。
「そんなことはいいから。君が来てくれて、ちょうど良かった。洵を、早く別の場所に連れていってくれ。ここは、僕がなんとか片付けておくから」
「でも、君は……」
「僕なら、大丈夫だよ。だから、洵を……」
 頼むから。早口で、小さくそう付け加える。僕は、洵の肩を抱くようにして、談話室の出口へ向かった。啓の様子は、口で言うほど大丈夫なようにはとても見えなかったが、とりあえず洵をこの場に置いておくわけにはいかない。彼女を部屋に帰して、もう一度戻って来よう。そう考え、ドアノブに手をかけた、その時だった。
「……淕!」
「待てよ!」
 ふたつの声は、ほぼ同時だった。後ろを向いたその瞬間、シャツの襟元をものすごい力でつかまれ、引き倒された。床に片膝をつきつつ、僕は相手を睨み上げる。僕よりいくつか上、恐らく、啓よりも年上だろう。このドームの中では、最上級生に入る部類だ。
「……何の用だ?」
「その子は、まだ質問に答えてない」
「訊きたいことがあるんなら、それなりの手順を踏むんだな。実力行使なんて、あんまり頭のいいやり方じゃないと思うけど」
 言った途端、腹部を蹴り上げられた。唇を噛みながら、どうにか呻き声を押し殺す。冗談じゃない。喧嘩なんて、願い下げだ。そんなものに、小さな女の子を巻き込むなんて、何を考えているんだ。
「言っただろう? その子は、質問に答えてないんだ。さっさと話せばいいのに、いつまでも強情に黙っている方が悪い」
「洵は、知らないと言ったじゃないか」
 腕組みをして、啓が僕の前に立つ上級生に冷ややかな目を向ける。
「知らないものは、答えようがないだろう。そんなことも分からないのか?」
 嘲笑うような口調で言った啓の肩を、背後に控えていた生徒が強くつかんだ。その腕を邪険に払いのけ、啓は僕たちの方へやって来た。
「そんなはずがないだろう? それなら、どうしてあんな絵がその子に描けるんだ?」
「……知るか」
 うずくまったままの僕を助け起こしながら、啓が吐き捨てる。背中にぴったりと身を寄せていた洵を、僕はかばうように抱き寄せた。
「知らないもん……。洵は何も知らない。知らないんだから……!」
「嘘だ!」
 突然の大声に、洵がびくりと身を竦めた。
「知らないはずがない。お前が知らないはずがないんだ。お前は、あの魚の絵を描いたじゃないか。何枚も何枚も! お前以上に、あの魚のことを知っている人間が、どこにいるって言うんだよ!」
「知らないもん!」
「嘘だ! そんなことは嘘だ! 嘘だ! お前が来てからだ、あんな魚が出てくるようになったのは! ……お前だろう? お前があいつを連れて来たんだろう!」
「知らない! 知らないったら!」
 洵の声は、もうほとんど悲鳴に近かった。僕は、もう一度膝をつき、洵を強く抱きしめた。僕の肩の辺りに頬を埋めて、洵は激しく泣きじゃくった。小さな体がガタガタと震えるのが痛々しくて、僕は上級生の顔を見上げ、半ば懇願するように言った。
「もう、やめてくれないか。こんな小さな子をここまで怯えさせて、どうしようって言うんだ。どんな事情があるのか、僕は知らない。だけど、こんなやり方は間違ってる。絶対に、間違ってるよ」
 洵の背中を撫でながら、僕は俯いた。時折、引き攣ったようにしゃくり上げるその姿は、ひどく頼りない。こんな洵を、僕は以前にも見たことがある。彼女が初めてドームにやって来た、あの日に。
「洵……」
 身を屈め、啓がそっと洵の肩に手を置いた。
「……行こう」

 洵の手を握って、僕は立ち上がった。啓が、勢い良く談話室のドアを開け放つ。廊下の光が、やけに眩しかった。先を歩く啓に続いて、部屋を出る。ドアを閉めようと振り返った時、相手方の生徒のひとりと目が合った。その驚いたように見開いた目を見て、僕ははたと気がついた。いつだったか、コンピューター室で洵の絵を目にした、あの生徒だ。
「……淕」
 促すように声をかけられ、僕はドアを閉めた。喉元までせり上がってきた熱さを、やっとのことでやり過ごす。
 談話室の入り口付近には、相変わらず多くの生徒が集まっていた。出てきた僕らに向けられる好奇の視線に洵を晒したくなくて、僕は彼女の体を守るように引き寄せた。人ごみの中を足早に通り抜け、エレベーターへ向かう。他に人気のない箱の中に収まってやっと、僕は肩の力を抜いた。
「洵、大丈夫かい? 怪我はしなかった?」
 洵の目の高さまで屈みこみ、啓が尋ねる。洵は、こくんと頷いた。
「そう。それなら、良かった」
 安堵したように、彼は小さく息をついた。
「君は、どうなんだ?」
「僕は平気だよ。これぐらい、なんともない」
 彼の言葉に、僕は思わず吐息を零した。いったい、どこが「平気」だというのか。目の下や頬には大きな痣ができているし、唇は切れて血が滲んでいる。足首をひねりでもしたのか、さっきから、軽く左足をひきずるような仕草を見せていた。
「啓。どうしたって君は、大丈夫なようには見えないけど? ひとりで、あいつらの相手をするなんて、無茶な真似をしたもんだな」
「仕方がなかったんだよ。誰か助勢を頼むにも、外に出してくれないしさ。いや、僕ひとりなら出られたのかもしれないけれど、まさか洵を残していくわけにもいかないだろう? 野次馬連中は、面白がってただ見てるだけだしさ。ま、先生を呼びに行くだとか、余計なことをしないでくれただけ、ましなのかもしれないな」
「それにしても……、よく持ちこたえたもんだな」
 半ば呆れ、半ば感心しつつ呟いた僕に、啓はどこか照れたような微笑を浮かべてみせた。
「まあ、ね。こう見えても、慣れてるんだ。兄弟喧嘩で鍛えられたからね。でも、さすがにあれだけ人数が違うと敵わなくって、この有様だ」
 壁にもたれかかるようにして、啓は床に座り込んだ。口では威勢のいいことを言っていても、疲れ切っているのは確かなようだ。
「ところで……、僕らはどこに行こうとしてるんだ?」
「……悠のところへ。彼女のところにいれば、洵も安心できるだろう」
 同意しかけて、僕は一瞬躊躇った。悠と顔を合わせることには、まだ抵抗がある。あれ以来、結局僕は彼女とろくに話をしていないのだ。けれど、今はそんなことに拘っている場合ではないと、分かってもいた。
「ああ。悠なら、事情が分かれば、それほど騒ぎ立てずにいてくれると思う」
「うん……。何があったのかは、後で僕がちゃんと説明するから。悠にも、君にも」
 溜息交じりにそう言って、啓は目を閉じた。

 僕たちが部屋を訪ねると、悠はまず啓の惨状に小さく息を呑み、次に未だ嗚咽の止まらない洵を強く抱きしめ、最後に僕を物問いたげに見つめた。しばし逡巡した後、僕はぎごちなく口を開いた。
「悠。今は、何も訊かないでいて欲しい。落ち着いたら、啓が話してくれるから…。だから、とりあえず、洵を休ませて……」
「……分かったわ。洵、こちらへいらっしゃい。……あなたは、少し眠った方が良さそうね。なにか、温かいものでも用意するから、飲み終わったらお昼寝しましょうね。私が側にいるから、もう大丈夫よ。……それから、啓。あなた、ひどい格好してるわよ。それじゃあ、とても授業になんか出られそうにないわね。淕、誰か先生を捕まえて、救急箱を借りてきて。理由は適当にでっち上げるのよ。そういうことは、あなた得意でしょ? 戻ってきたら、あなたはちゃんと授業に出るのよ。分かった? 分かったなら、ほら、さっさと行ってらっしゃい」

 先生を探しに教室階へ上がった僕は、再びあの掲示板の前を通りかかった。鉛筆で描かれた絵の並ぶ中、そこだけ鮮やかなオレンジの文字が目に入る。元気よく跳ね上がった「ん」、左に傾いだ「ゆ」、不釣合いに大きな「じ」。彼女はもう、この魚の絵を二度と描かないかもしれない。そして、もしかしたら、その方がいいのかもしれない。あの絵はきっと、彼女にまた、同じような思いをさせることになるだろう。彼女は、そんなことを望んではいないというのに。
 しばらく立ち止まって眺めた後、僕はその絵を掲示板から剥がし取った。



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