「赤い空 銀の鱗」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 第七章 古代の湖 * “答えられないことが、あまりにも多すぎる。僕にも、そして多分、君にも。” 僕たちが住んでいた街から南へ数十分進んだところには、湖があった。遥か昔から同じ場所にあったという、古くて巨大な水たまりだ。その水は、一年を通してずっと灰色がかった緑色に濁っていた。確か、僕が小さかった頃、祖母からこの湖に住む古代魚の伝説を聞いたような記憶があるが、どんよりと沈んだ色をしたこの水の中で、生きていける生物がいるとは、とても思えなかったものだ。僕たちがこのドームに避難する直前、湖を埋め立て、こちら側からあちら側へと続く道路を造る計画が持ち上がっていたはずなのだが、いつの間にか立ち消えになってしまったようだ。 この湖には、名前が無い。もとから無かったのか、それとも長い年月の中で忘れ去られてしまったのか、理由は定かでない。 「へえ。じゃあ君もあのジュース・スタンドの常連だったわけか」 レモネードのグラスを持ち上げながら、哲は可笑しそうに目を細めた。 「常連っていうほど通いつめてたわけじゃないけどね。なんたって、僕らの住んでた区域からあのデパートに行くには、バスやら船やらを乗り継がなきゃいけないから、ずいぶん面倒だったんだ。誕生日だとか、クリスマスだとか、何か特別なイベントでも無い限り、なかなか連れていってもらえなかったからね」 僕も、テーブルに置かれたレモネードを手に取った。グラスの表面には細かい水滴が無数に浮かんでいて、口をつけなくてもその冷たさが分かった。一年中、機械で空調が整備されているこのドームの中では、外の世界の季節はまるで意味を成さない。しかし、僕たちの間では、レモネードはカレンダー上の夏の期間だけ、暖かいココアは冬の期間だけの飲み物であるという約束事のようなものがあった。もしかしたら、そうすることでなんとか外の世界と自分たちと結びつけておこうとしているのかもしれない。 「だけど、デパートに行く時は必ず、あそこのジュース・スタンドで休憩したっけ。ほら、コースターに昔の機関車だとか飛行機だとかの絵がプリントしてあってさ、あれを集めるのが流行ってたろ? 両親の分や、隣の席の人の分ももらったりしてさ。……何枚だっけ……そう、三十枚くらいまではいったんだけどな。同じクラスに、あそこの食品売り場で兄貴が働いてるっていう奴がいたもんだから、そいつには絶対敵わなかったんだ」 「僕は、確か六十枚近く集めてたはずだよ。ちょっとした自慢だった」 哲はそう言うと、懐かしそうにもう一度目を細めた。哲と話していると、なぜかよく昔住んでいた街の話になる。それとは逆に、啓はほとんど……いや、全くといっていいほど、自分たちの住んでいた場所の話題を口にしなかった。もしかしたら、そのあたりに双子の喧嘩の理由があるのかもしれない。僕はふと、そう思った。 このところ、僕と洵、そして双子のどちらかという組み合わせで過ごすことが多くなった。そこに、時々悠も加わる。しかし、双子がそろって顔を見せることは、決して無かった。偶然、どこかですれ違っても、僕や洵には声をかけるものの、お互いには言葉ひとつ交わさない。ほんのささいな口喧嘩くらいだと思っていたのだが、どうやら諍いの根は予想以上に深いらしい。一体、双子の間に何があったのか。気懸かりではあるものの、なんとなく聞きそびれたまま、今に至ってしまっているのだった。 「そういえば、あのコースター、どこにしまっておいたんだっけ」 ぼんやりと僕が呟くと、哲は軽く小首を傾げた。 「こっちには持って来なかったのかい? 僕は、避難する時に鞄に詰めてきたけど。家の中で、一番大事なものは何だろうって考えた時に、真っ先に浮かんだのがそれだったんだ。今思えば、他に大切なものはいっぱいあっただろうにね」 僕は、小さくため息をついた。 「何を持って出ようだなんて、考える余裕もなかったよ。唯一持ち出せたのは、父さんがくれた手紙だけさ。でも、それだって持ち物検査にひっかかって没収されたんだ」 「……持ち物検査?」 哲は、僕の言葉に驚いたように目を見開いた。 「ああ。ドームに入る時、入り口で司令官に言われなかったかい? 鞄の中身を見せなさいって」 困惑したように、哲は首を横に振った。 「いや……。僕たちは、そんなこと言われなかったよ。今まで、そんな話は聞いたことがなかった」 「なん……だって?」 今度は僕が面食らう番だった。それじゃあ、僕たちだけが検査の対象とされたのだろうか。僕たちの区域だけが? 「……どういうことなんだ」 僕と哲は、ほぼ同時に同じことを呟いていた。 「淕兄ちゃんと哲兄ちゃん、見っけ!」 底抜けに明るい声に、考え込んでいた僕たちは顔をあげた。満面の笑みを浮かべた洵、そして、少し強張った表情をした啓が、談話室の入り口に立っている。すぐさま駆け寄ってきた洵は、腕組みをして、軽く唇を尖らせて見せた。 「あっちこっち探したんだよ。一階から二十階まで全部」 大変だったんだから。ね? そう言って、洵は啓の顔を見上げた。 「ああ。階段なんて、いつもは使わないからね」 「……階段で来たのか?」 驚きと同情を込めて尋ねると、啓は苦笑しながら頷いた。 「おかげで、目が回りそうだよ。いい運動にはなったけどね」 啓と哲の双子が暮らす部屋は、居住階の最上階に当たる、二十階にある。僕と哲は、授業が終わった後、教室のある階に近いここ二十階の談話室にやって来たのだった。居住階はもともと住んでいた地域ごとに割り振られている。同じひとつの建物で暮らしているとはいえ、かつての生活領域や地域社会は、今も維持されているのだ。僕にしたところで、双子と知り合うまで、自分の使う階以外の居住階に足を踏み入れたことは、ほとんどなかった。 「ところで洵、どうして僕らを探してたんだい?」 実のところ、大体の予想はついているのだが、一応そう尋ねてみる。案の定、洵はポケットから小さな紙箱を取り出し、僕たちの前に高々と掲げた。 「ね、みんなでトランプしようよ」 この最近、洵はトランプに凝っている。中でも彼女が得意とするのは、同じ数字のカードを二枚ずつ集めるゲームで、年上の僕たちではとても敵わないほどの集中力を発揮するのだ。部屋の床いっぱいに並べたカードを吟味する洵の目はいつも真剣そのもので、狙ったカードを選び出す手腕は鮮やかといってもいいほどである。どちらかといえば、あまり記憶力のない僕では、到底相手にならず、対になったカードを次々と重ねていく洵を、半ば感心しながら眺めているだけなのだった。 洵がいつも持ち歩いているトランプは、裏に一枚一枚異なった絵の描かれた、丁寧な造りのものだ。このトランプを洵にくれたのは、司令官なのだという。僕も一度だけ見たことのある、年代物らしき書き物机の奥深くに、大切にしまわれていたものらしい。司令官は、なにかと洵のことを気に懸けているらしく、僕たちと一緒に授業に出られるよう取り計らったのも、彼女の背丈にあった机と椅子を用意したのも、授業中に退屈しないよう、どこからか新しい色鉛筆とノートを調達してきたのも、あの人だったということだ。もしかしたら、洵を半ば強制的に、大人たちの下からこのドームに連れてきたことに、司令官は多少なりとも責任を感じているのかもしれない。 早く早く、とぴょんぴょん飛び跳ねている洵に急かされるようにして、僕はソファから立ち上がった。これでまた夕食まで、そして夕食後、就寝時間まで、彼女と一緒にトランプと睨み合いをすることになるのだろう。しかし、いつもいつも負けてばかりでは、さすがに格好がつかない。今日は、もうちょっと気合を入れることにしよう。 「……悪いけど」 エレベーターに向かおうとした僕たちを、背後から哲が呼び止めた。 「今日は、宿題があるんだ」 すっかり忘れてたよ。そう言って、哲は少し肩をすくめるような仕草をした。 「うるさい先生だからさ、どうしても明日までには仕上げないといけないんだ。だから、今日は遠慮しておくよ」 ごめんね。洵の側にかがみこみ、彼女の頭を撫でると、哲は僕に向かって軽く片手をあげ、僕たちとは反対の方へ向かって廊下を歩み去っていった。僕の隣に立っていた啓には、一瞥もくれない。ちらりと啓の横顔を伺うと、彼は談話室に入ってきた時と同じ、険しい表情を浮かべていた。ふと、僕の視線に気付いたように、啓がこちらを向いた。目が合うと、彼はふっと淡い笑みを浮かべ、どこか諦めたように小さく首を横に振った。 箱から出したトランプから二枚のジョーカーを抜き取り、よく切った後で、裏を向けて床に並べる。僕たちの部屋に備え付けられた勉強机は、教室にある机より少々大きい程度なので、五十二枚のカードを並べるにはいかにも狭すぎる。だから僕たちはいつも、床にカードを広げることにしているのだった。トランプを並べるのは、その前のゲームで最下位だった人の役目、というのが、僕たちの決めたルールだ。そして、この面倒な作業を引き受けることになるのは、大抵の場合、僕なのだった。洵と啓がちょうど同じくらいの腕前で、その次が悠、僕と哲とはいい勝負で、二人そろった時にはそれなりに熾烈な最下位争いを繰り広げることができるのだが、今日はどう考えても僕ひとりの負けが重なるのは必至だ。それに、哲が僕たちのゲームに加わることはほとんどない。洵が遊び相手を探しに来る時には、彼女の最大のライバルである啓を先に誘ってくる場合が多く、そうなれば、哲は必ず何かしらの理由をつけて自室に戻ってしまうのだった。そう、ちょうど、さっきのように。 「ねえ。啓兄ちゃんと哲兄ちゃん、どうして喧嘩してるの?」 洵の問いかけに、僕は思わずカードを配る手を止めた。ちらりと見やった啓は、膝の上で拳を握り締めている。 「……別に、喧嘩してるわけじゃないよ」 そう言った啓の声は、軽く震えていた。 「じゃあ、どうして全然お話しないの? どうしていつも、哲兄ちゃんは洵たちと一緒に遊んでくれないの?」 邪気なく尋ねる洵の目から逃れるように、啓は止まってしまった僕の手から残りのカードを受け取り、慎重に並べ始めた。そうしながら、継ぐべき言葉を探しているようだった。 「哲は……、ほら、宿題があるって言ってただろう? だから、僕らと遊べないんだよ。哲は、僕や啓と違って結構真面目だからね。喧嘩なんてしてないさ。啓、そうだろ?」 「啓兄ちゃん、ほんと?」 「……ああ」 なんとか、微笑らしきものを浮かべながら、啓は洵の方に頷いて見せた。 「そうだよ。淕の、言う通りだ。だから洵、心配しなくていいよ。……さあ、準備が出来た。洵、君の番だよ」 きらきらと目を輝かせながら、洵は一枚目のカードを選び始めた。双子の喧嘩の件は、とりあえず彼女の頭の中から出て行ってくれたようだ。啓の方を見遣ると、彼は一瞬泣き出しそうに顔を歪め、ごめん、と唇を動かした。 おやすみなさい、と手を振る洵たちをドアの前で見送り、僕は欠伸をしながら部屋の中に戻った。時計を見ると、就寝時間を一時間以上過ぎている。普段なら、まだ眠くならない時間だが、何時間もゲームに没頭していたせいか、目の奥がズンと鈍く痛む。今日はもう、寝てしまおう。のろのろとベットに這い上がった僕は、寝転んだまま、机の上のスタンドを消そうとした。伸ばした腕が、スタンド以外の何かに当たる。ドサリ、という音と共に、教科書やらノートやらが床に散らばった。どうやら、机の上にあった鞄を払い落としてしまったらしい。うんざりしながら、僕はベットから起き上がり、床に散乱した鞄とその中身を拾い上げた。筆箱の蓋は開き、ファイルにしまってあったプリントも全て飛び出してしまっている。その中の一枚を見て、僕は小さく舌打ちした。宿題、だ。しかも、悪いことにコンピューター端末を使わなければ片付けられない。どうしようかとしばし考え、結局僕は筆箱とそのプリントを手に部屋を出た。 このドームに避難する時、僕たちが街に残しておかざるを得なかったものの一つに、本がある。僕たちが通っていた学校の敷地内には、百万冊近い蔵書を誇る図書館が建っていた。子どもたちは入ることを禁止されていた地下の書庫の中には、歴史的にも計り知れない価値を持つ資料も数多く保存されていたらしいが、膨大な量の本をこのドームに持ち込むわけにはいかず、全ては図書館の中に置き去りにされたままだ。しかし、そのデータだけはコンピューターの中に取り込まれ、ドーム内にある端末から閲覧できるようになっている。一体、いつの間にそんな作業が行われたのかは見当もつかないが、恐らくはドーム建設と同じ頃に進められていたのだろう。 こんな時間だというのに、コンピューター室には数人の利用者が残っていた。大方、僕と同じように、寝る前になって宿題をやり忘れていたことに気付いた連中だろう。もしかしたら、哲の「宿題があるから」という言葉も、あながち単なる口実だったわけではないのかもしれない。 今回の課題は、端末を通じて世界の湖に関する資料を探し、本の題名を書き出すこと。それほど面倒なテーマで無かったのは幸いだった。なにせ、眠くて仕方がないのだ。コンピューターが起動するのを待つ間にも、瞼が重くなってくるのが分かる。 僕には解読できないアルファベットがせわしなく打ち出される黒い画面の隅を、何かが横切ったような気がした。銀色の、硬質な光を放つ何か。どこかで見たことがあるものなのだが、ぼんやりと霞のかかった頭では、それが何だったか認識することができない。まあ、いい。大したことじゃないだろう。その内に思い出すさ。キーボードの上に両手を置き、僕は何度目かの欠伸をした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |