「赤い空 銀の鱗」



* 第六章 真紅の空 *

“後悔? 後悔なんてしていない。ただ、寂しかっただけだ。”

 夢を見た。あの日の夢だ。

 どこか遠くの方から、ジリジリジリという音が聞こえてくる。僕は、半分眠ったままうっすらと目を開けた。カーテン越しの空は薄暗い。目覚し時計に目を凝らすと、針は五時少し前を指していた。なんだ、まだこんな時間なのか。僕はひとつ欠伸をすると、寝返りをうって布団を鼻の上まで引き上げた。ジリジリジリという音は、いつの間にか遠ざかっていた。
 うとうとと眠り始めていた僕を再び起こしたのは、窓の外から聞こえる人の叫び声だった。何を言っているのかまでは分からなかったが、ずいぶんと慌てているらしいことは感じ取れる。その頃にはもう、僕はしっかり目覚めていて、ベットの上に起き上がり、外の話し声に耳を澄ませていた。
「……の警報だよ……。早く……なきゃ……」
「私は向こうを……、あんたは……てくれ」
 そして、喧騒を切り裂くように、一際高い声が響き渡る。
「避難命令だ! 急げ! 地下ドームに逃げるんだ!」
 避難命令だって? あの地下ドームへ? 僕は転げるように窓際へ駆け寄り、勢いよくカーテンを引き開けた。

 誰かが玄関のドアをどんどんと力任せに叩いている。隣の寝室から、あわただしい足音が聞こえる。父と母だ。やがて、電話がけたたましく鳴り始める。両親の話し声、階段を駆け下りる足音。外の誰かは、まだドアを叩き続けている。父が電話に応対する声、カチャリと鍵が開く音。
「避難命令が出たんですよ。急いで準備をしてください」
「避難って……。一体、何があったんです?」
「私にも分かりません。とにかく、急いでください。私はこれから他の家にも知らせて回りますので……。それでは」
 バタン、とドアが閉まる。電話を切ったらしい父が、玄関に向かう足音。
「母さん、大変だ。今すぐここから逃げないと……」
「ええ、今、そう聞きました。でも、一体なぜ……?」
「説明しているだけの時間がないんだ。急がないと間に合わない。早く、早く淕を……!」
 階段を駆け上がる足音。そして、僕の部屋のドアが乱暴に開けられた。血相を変えた母が飛びんでくる。
「淕! 起きなさい! ここから逃げるのよ。早く着替えて! 早く!」
 ジリジリジリという音は、再び大きくなっていた。あれは、緊急事態を知らせる警報だったのだと、僕はやっと気付いた。

 荷物を詰める時間などなかった。警報は更に激しく鳴り響いていたし、なによりも、パニックに陥った頭では、何を持ち出せばいいかなどとても判断できなかった。着替えを済ませた僕は、応接間の鳥籠を抱え、急いで外へ出た。通りには、既に多くの人々が集まっていた。皆、一様に怯えた表情をしている。
「これで、全員揃いましたか?」
 橙色の腕章をつけた男の人が、僕たちを見渡すようにして言った。この辺りでは見かけたことのない顔だった。
「では、これから地下ドームへ避難します。期間はどの位になるか分かりませんが、皆さんがここを離れている間、この街は地下ドーム建設の責任者が守ります。どうぞ、ご安心ください」
 隣に立つ母が、小さく息を呑んだのが分かった。僕も、慌てて自分の家の方を振り返った。戸口には、紙の束を手にした父が立っていた。
「父さん……!」
 僕は父の元に駆け寄った。まさか、父はたった一人でここに残るつもりなのだろうか?
「父さん。父さんも一緒に行くんだよね? ね、そうだよね?」
 必死にすがりついた僕の頭を優しく撫で、父はゆっくりと首を横に振った。
「淕。父さんは、お前たちと一緒には行けないんだ。父さんはね、淕。この街を、守らないといけないんだよ。お前たちが、またここに戻ってこられるようにね」
 父は、手に持っていた紙束を僕に手渡した。それは、毎日朝食のテーブルに置かれていた父からの手紙だった。
「これを持っていきなさい。いつか、きっと役に立つから」
 そう言って、もう一度僕の頭を撫でた父は、急に姿勢を正し、腕章をした男の人に向かって鋭く指示を出した。
「さあ、そろそろ出発した方がいい。もうずいぶんと時間が経ってしまった。急がなければ」
「はい。では、出発します。学校のグラウンドに車が停めてありますので、まずはそちらに向かってください」
 僕と母は、人ごみに背中を押されるようにして、家の前を離れた。途中、何度も振り返ってみたが、父はずっと僕たちを見送っていた。僕は、渡された手紙をきつく握り締めた。歯を食いしばり、ともすれば溢れそうになる涙を堪えていた。今は、泣いている場合ではないのだ。それ位のことは、僕にも分かっていた。
「ちょっと、君……」
 僕を呼び止めたのは、例の腕章をした人だった。僕の抱えた鳥籠を、困ったように眺めている。
「悪いんだけど、地下ドームはペット禁止なんだ。だから、その鳥は連れていけないんだよ」
 僕は唇を噛んだ。それじゃあ、カリナはどうなってしまうんだろう?
「君は、総指揮官の息子さんだね。じゃあ、お父さんに頼んで、家に連れ帰ってもらおうか?」
「父さんは、あの家に残るの? 父さんがカリナの世話をしてくれるの?」
「いや……。そういうわけじゃないんだが……」
 僕は、鳥籠を地面に置いた。カリナ、お前は連れていけないんだって。それじゃあ、お前を空に帰してやろう。お前は賢いから、きっと一人でも上手くやっていけるよね。もし運が良かったら、またどこかで会えるかもしれない。僕は、扉の鍵を開け、カリナを外へ出した。さようなら、元気でね。空へ放つと、カリナは力強く飛び立った。そして、やがて見えなくなった。

 グラウンドには、まるで護送車のようにものものしい車が数台停まっていた。その脇に、全身黒い服を着たいかめしい顔つきの男の人が仁王立ちしていた。
 男の人は、自分が今回の避難命令の「司令官」だと名乗った。事態は一刻を争う、自分の指示に従って、速やかに行動して欲しい、と。
「それから……。この車に乗った後は、絶対に外を見ないでいただきたい。どこにどんな危険が待ち構えているか分からない以上、軽率な行動は厳に謹んでもらいたいのです」
 外を見るな、だって? なんだか妙な注意だ。首を傾げていると、不意に後ろから聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。
「淕! ちゃんと迷子にならずに来られたのね」
 斜向かいに住む悠だった。悠は僕より四つ年上で、いつも僕を小さな赤ん坊のように扱う。
「悠は今まで何してたのさ。通りでは見かけなかったけど」
「私は、もうずっと前にここに着いたのよ。誰かさんがなかなか来ないから、心配して待っててあげたの。感謝なさい」
 何か言い返そうと口を開いた途端、警報が一際高らかに響いた。出発の合図だった。

 車の窓には、分厚いカーテンが引かれていた。天井のライトだけでは、車内全体を照らすだけの光量はなく、僕たちは薄暗い中でじっと押し黙っていた。同じ車に乗り合わせた悠も、さっきから一言も話していない。ちらりと横顔を伺うと、どこか張り詰めた表情が浮かんでいた。
 今どこを走っているのか、僕にはまるで分からなかった。時折、右に曲がったり左に曲がったりを繰り返しているが、それは目的地を目指すためというよりも、僕たちの方向感覚を麻痺させるためのように思えた。その時、そんな僕の疑念を見透かしたかのように、運転手がもうすぐですよ、と告げた。一瞬で、車内に安堵の空気が流れる。悠も、ほっと小さく息をついた。
 車が停止すると、即座にドアが開いた。外にに立っていたのは、先程の「司令官」だった。
「これより、地下ドームの入り口に向かいます。ここで、ひとつ注意があります。……何があっても、絶対に、後ろを振り返らないこと。いいですね」
 司令官は、最後に僕の顔を見た。そのように、思えた。
「必ず守ってください。では」
 明らかに、僕に向けられた言葉だった。何だって、そんなことを言われなければいけないんだ。僕の中にかすかな反抗心が芽生えた。よし、こうなったら何が何でも約束を破ってやる。
 僕はわざとのろのろと歩き、一同の一番後ろにつけた。悠は、僕の母と話すのに夢中で、僕が一人列を離れたことにも気付いていないようだった。前と十分に距離をとったことを確認して、僕は立ち止まった。わずかな躊躇いと、恐れ、そして罪悪感が急に僕の心をよぎる。やっぱり、やめておこうか。もしかしたら、何か怖い目に会うのかもしれない。ほら、どこかにこんな話があったじゃないか。後ろを振り返った途端、塩の柱になってしまった人々の話が。でも、もう後には引けなかった。僕は意を決して、ぐるりと体を回転させた。
 ……何も起こらなかった。それどころか、何も見えなかった。呆気に取られた僕は、更にあちこちを見渡してみた。

 そして、僕は見つけた。司令官があれほどまでに「見るな」と警告したものを。それは、ついさっき後にしてきた僕たちの街だった。湖との位置関係で、そうと分かったのだ。東の空が、起きぬけの太陽に照らされ、白く光っていた。そして、その淡い光の中で、僕たちの街の空だけが、異様な光景を呈していた。色だ。色が違う。赤いのだ。朝焼けとは違う、まるで……まるで血のような赤……。僕たちの街を、燃えるように真っ赤な空が覆い尽くそうとしていた。
 僕は、自分の体が小刻みに震え出すのを感じた。赤い空は、今や街全体を毒々しい色で染め上げていた。そして、街の輪郭がぼやけていく。まるで、砂山の上に立てた棒のように、風に舞う灰のように、崩れていく、溶けていく、消えていく……。

「……ちゃん! 淕兄ちゃんってば!」
 目を開けると、すぐそばに洵の顔があった。大きく伸びをして、その途端に自分が教室にいることに気付いた。そうだ、確か社会の時間の最中に眠ってしまったのだ。
「……授業は?」
「とっくに終わったわ。先生が、よく寝てるから起こすなって言ったから、今まで待っててあげたの」
 感謝なさい、と付け加えられそうな気がして、僕は苦笑した。すると、洵はぷくっと頬を膨らませた。
「何がおかしいの? もうすぐ晩御飯の時間だから、起こしてあげたのに」
「ごめん。ありがとう、洵」
 素直に謝ると、洵はすぐに機嫌を直したらしく、僕の顔を見上げてにっと笑った。
「じゃ、今度は淕兄ちゃんが待っててね。もう少しで描き終わるから」
 洵は、いつものように色鉛筆で絵を描いている。今日は、黒くて四角い縁取りの中に、何か銀色のものが描かれていた。
「それ、魚?」
「うん。お魚だよ」
「でも、どうしてそんな額縁の中に入ってるんだい?」
 そう言うと、洵は呆れたように肩をすくめた。
「違うわ。淕兄ちゃんってば、なんにも知らないのね。これはね、このドームの中に住んでるお魚なの。時々、洵にも会いに来てくれるんだよ」
 ふうん、と言ったきり、僕はもうその話題には触れなかった。きっと、これは洵が想像した生き物なのだろう。ドームのどこかに住む、洵だけに見える魚だ。

 あの日の夢を見たのは、ずいぶんと久しぶりだった。ここに避難してきてすぐの頃には、毎晩のようにうなされたものだ。風景も、人々の台詞も、寸分違わず同じだった。そして最後、真っ赤に染まった空を目にした途端に悲鳴を上げて飛び起きる、その繰り返しだった。
 いつも、目を覚ますと悠が側にいた。震えの止まらない僕を、大丈夫、大丈夫よといって宥めてくれたものだ。どんな夢を見たの、と何度も聞かれた。その度に、僕は口を閉ざして首を横に振った。話すわけにはいかなかったのだ。僕は、見てはならないものを見てしまった。それを、誰かと共有することなど、到底できなかった。
 あれから二年。いつの間にか、僕はあの夢を見なくなっていた。時々、思い出すことはあっても、生々しい恐怖を感じることはなくなっていた。僕は、あの光景を忘れ初めていたのだ。それなのに、なぜ今頃になってあの夢を見てしまったんだろう。
「できた。ね、淕兄ちゃん、見て」
 洵が弾んだ声を上げた。差し出された絵をじっくりと見てみたが、さっきとどこが変わったのか分からなかった。でも、そんなことを言えば、きっと洵は怒るに違いない。
「うん、上手に描けてる」
 でしょう? そう言って洵は嬉しそうな笑顔になった。
「今度、哲兄ちゃんと啓兄ちゃんにも見せてあげるんだ。あ、その前に悠姉ちゃんにも見てもらわなきゃ」
 楽しそうに指折り数えている洵を見て、僕は思わず微笑んだ。この子には、僕の持っているような恐ろしい記憶はない。禍々しい悪夢に怯えることもない。そのことが、なぜかとても嬉しかった。
      


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