「赤い空 銀の鱗」



* 第五章 磁石の針 *

“「知りたい」と望むことが、新たな痛みを生むこともある。”

 軽く肩を揺さぶられて、僕は目を覚ました。自分がどこにいるのか分からなくて、一瞬、迷子になったような感覚に陥った。消灯時間を過ぎているのか、辺りは真っ暗だ。目を凝らすと、すぐ近くに膝をついて屈みこんでいる人影が見えた。双子のどちらかが様子を見に戻ってきたのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
「どこにいったのかと思ったら……。まだここにいたのね」
「……悠?」
 悠は少し呆れたような笑顔を見せ、傍らに置いてあった包みを差し出した。
「夕ご飯、食べてないんでしょ? おにぎりを作ってきたわ。すっかり冷えちゃったけどね」
「……ありがとう」
 悠はひとつ頷くと、僕の膝に寄りかかるようにして眠っている女の子の方に目をやった。
「この子は、司令官が連れてきたんだよ。ここに来れば、両親に会えるって言って……」
 そう言った僕の声は、自分でも驚くほどに震えていた。泣き疲れた女の子の寝顔を見ていると、知らず知らずの内に怒りが込み上げてくる。両親に会えるだなんて……。そんな口実を使うべべきではなかったのだ。そんなことを言って、この子を更に悲しませていいはずがないのだ。
「こんな、小さな子が……」
 後は言葉にならなかった。僕は唇を噛みしめ、やり場のない憤りを押さえ込んだ。その時、悠が僕の肩に手を載せ、そしてそのまま抱き寄せた。
「大丈夫。いつか、何もかもきっと上手くいくわ。それまでは、淕、あなたがこの子のために悲しんで、怒ってあげなさい。あなたも言った通り、この子はまだ本当に小さいんだから……」
 そういえば、僕がもっと小さくて、もっと泣き虫だった頃、悠はよくこうやって慰めてくれたものだ。いつのまにか簡単には泣かなくなってからは、こんなふうに抱きしめられることもなくなっていた。照れくさかったけれど、とても懐かしい温もりだった。

 彼女の名前は「洵」といった。両親はともにコンピューター関係の技術者で、この建物が完成する直前の数ヶ月は忙しくてろくに家にも帰れず、洵は親戚の家に預けられていたらしい。工事が終了すると、彼女はいったん両親と暮らしていた家に戻ったが、その後すぐに出された例の避難命令のために、再び両親のもとを離れ、この建物に移ってきたのだと言う。司令官によってこちらに連れて来られるまでは、大人たちの暮らす避難所で、以前にも世話をしてくれた叔母夫婦と生活していたそうだ。
「でもね、あそこにいるのは嫌いなの」
 洵は軽く口を尖らせながら言った。僕たちは談話室のソファに座って、悠が淹れてくれた紅茶を飲みながら、お互いの身の上話を披露しているところだ。僕のカップにはレモンが、洵の分にはミルクと蜂蜜がたっぷり入れられている。もうすぐ、哲と啓もやって来るはずだ。彼らが揃ってから話を聞かせてもらうつもりだったのだが、本人が言うところの「赤ん坊たち」と大人たちばかりに囲まれて生活してきた彼女は、「対等な」話し相手を切望していたらしく、さっきからひっきりなしにしゃべり続けているのだった。なにはともあれ、とにかくは元気そうでなによりだ。

 あの日……洵が初めてこの建物にやって来た日は、悠が洵を自分の部屋で一晩預かってくれた。それ以来、洵は悠に、そしてなぜか僕にもすっかりなつき、一緒に授業にも出席するようになった。僕たちが勉強している間、洵は先生にもらった色鉛筆でノートになにやら書き込んでいる。時々覗いて見るが、僕にはさっぱり理解できない記号や絵が並んでいて、しかも僕が分からないと言うと、洵は決まって機嫌を悪くするので、もう何も口を挟まないことにしている。
「おばさんはね、すぐに洵のこと怒るんだよ。靴のひもがほどけてるとか、ぼんやりしながらご飯を食べてちゃだめだとか。でもね、洵はちょうちょ結びが上手くできないの。それに、ご飯の時はレダのことを考えてたんだもん。レダはちゃんとご飯食べたのかなあ、って。レダも一緒に連れて来たかったのに、おばさんが動物は駄目って言ったの。だからね、レダはお家で一人でお留守番してるんだよ」
 偉いでしょ、と洵は自分のことのように自慢げな笑顔を見せた。レダというのは、洵が飼っていた猫の名前だ。もともとは近所の公園を根城にしていた野良猫だったそうだが、何度か一緒に遊んでいる内に家までついてくるようになり、そのまま住み着いてしまったらしい。
「レダとはよく喧嘩したの。でね、レダはおっきな猫だから、いつも洵が負けるの」
 当時すでに立派な大人の猫だったというから、洵のような小さな女の子は格好のからかい相手だったのだろう。僕は久しぶりにカリナのことを思い出した。
 八歳になった誕生日、両親は僕を湖の向こうの百貨店に連れて行ってくれた。卓上型の大洋儀を買ってもらう約束だったのだ。大洋儀とは、いわば水のない水族館のミニチュアで、世界中の珍しい魚たちのホログラムが地球を模した球の中に現れる、というものだった。玩具売り場に向かう途中、僕はエスカレーター脇の薄暗い一郭にふと目をやった。そこには、一様にくたびれた羽をした鳥たちが狭苦しい籠に入れられて吊るされていた。その中の、最も目立たないところにカリナはいた。くすんだ水色の羽に、真っ赤な嘴がよく映える綺麗な鳥だった。僕は慌てて上りのエスカレーターを駆け下りた。もう、大洋儀のことなどすっかり忘れていた。カリナは今どうしているだろう。人間に慣れた鳥は、自力で生きていけるのだろうか。籠から放すなんて、残酷なことをしたのかもしれない。例えそれが、あの時の僕にできた最善の選択だったとしても。

「遅くなってごめん」
 入ってきたのは、双子の片方だった。やあ、と声をかけてはみたが、どちらだか区別がつかない。彼は僕の迷いを察したのか、トレーナーの袖口を僕の方に向けた。そこにはアルファベットのTの形をしたボタンが留め付けてある。
「念のために言っておくけど。このトレーナーにはTの印がある。そうだよね?」
 なぜか取ってつけたように真面目くさって、彼は言う。僕は彼の意図がつかめないまま、曖昧に頷いた。
「つまり、これは哲の持ち物だ。だけど、だからといって持ち物と持ち主が必ずしも一致するとは限らない」
 そこまで聞いて、僕はため息をついた。彼が何を言おうとしているのか、やっと分かった。
「要するに、君は哲じゃなくて啓なんだね?」
 その通り、と言って啓はにやりと笑った。
「双子に目印をつけることの意義は二つある。ひとつは、誰でも簡単に見分けがつけられること。もうひとつは、目印を取り替えてしまえば逆に誰にも見分けがつかなくなること。面白いもんだろう?」
「なるほどね」
 僕はもう一度ため息をついた。全く、はた迷惑ないたずらだ。
「で、君のふりをした哲はどうしたんだ?」
 啓は肩をすくめた。さあね、と言って軽く首を横に振る。
「今日は来られないってさ。全く、時々あいつの考えてることが分からなくなる時があるよ」
「喧嘩でもしたのか?」
「別に。双子だからって、いつも考え方が同じとは限らないってことが分かっただけさ」
 ひどく素っ気ない口調だ。それきり、啓は哲のことを口にしなかった。僕も、それ以上は追及するつもりはなかった。本人が話したくないのなら、無理に聞き出す必要はない。それに、今日の主役は洵なのだ。
 彼女の話を聞いていると、いろいろなことを鮮やかに思い出す。両親のことや、三人揃って過ごした日々のこと。ほんの数年前のことなのに、遠い遠い昔のような気がするから不思議だ。
「洵はね、大事な大事な宝物を持ってるの。おばさんにも内緒にしてた宝物なの。でもね、お兄ちゃんたちには見せてあげるね」
 洵は、ブラウスの襟口に両手を差し入れて、なにかを慎重に取り出した。ことん、と小さな音を立ててテーブルに置かれたそれは、方位磁石をかたどったペンダントだった。
「ママがね、こっちに来る前にくれたの。ママたちはまだしばらく家に居るから、その間一人で寂しくないようにって。……この針が向いている方に、ママたちは居るからねって」

 午後三時を少し過ぎた頃、悠が洵の様子を見にやって来た。さすがにしゃべり疲れたらしい彼女は、うつらうつらしながらもしっかりとペンダントを握り締め、悠に連れられて部屋に戻っていった。僕たちはまだしばらく談話室に残り、さっきまで洵の「宝物」が置いてあったテーブルの上を見るとも無く眺めていた。
「……形見の品、か」
 啓がぽつりと呟く。その言葉の不吉さに、僕は身震いした。僕自身も、洵のペンダントを目にした時、同じ言葉を思い浮かべたのだ。しかし、洵の前で言うことは決してできなかった。決して。それは、啓だって同じだったのだろう。
「……淕」
 唐突に、啓は顔を上げた。
「君や僕や哲は、もう一度父さんに会えるんだろうか。洵は、両親に会えるんだろうか」
 その目には、なにか切迫したものが浮かんでいる。
「僕たちの父さんや、洵の両親は、本当に……、本当に、生きているんだろうか」
「……君は、どう思うんだ?」
 卑怯だとは思いつつ、僕は逆に訊き返した。今は、今の僕には、答えられないと思ったのだ。啓は、力無く微笑しつつ、小さく首を横に振った。
「分からない。僕にも、分からないんだ。だけど、知りたいとは思ってる。例え、望まない結果だとしても。何も知らされないのはもう嫌なんだ。それが、大人たちの思いやりだとしても、そんなものは必要ない、何の役にも立たないんだ。どっちつかずの可能性なんて、あるのか無いのか分からない望みなんて欲しくない。そんなものにいつまでもすがっていられるほど、僕らはもう、子どもじゃない。子どもじゃあ、ないんだよ……」
 これは、僕の苛立ち、僕の焦りだ。僕はそう思った。僕らは、誰の護りもなく生きていけるほど大人ではない。しかし、優しいだけの希望を無邪気に信じられるほど幼くはないのだ。

 僕はいつだったか悠に言われた言葉を思い出した。母さんは、僕が理屈っぽくなったと心配していたという。あの時は、さほど深く考えなかったけれど、今になってその真意が見えたような気がする。そうだね、母さん。僕は心の中で呟いた。ここで暮らす内に、僕は確かに理屈っぽくなったよ。いろんなことを考えすぎて、いろんなことを疑うようになってきている。
 ねえ、母さん。もし僕が、父さんが生きていることを素直に信じられないとしたら、母さんは怒るだろうか。それとも、悲しむだろうか。



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