「赤い空 銀の鱗」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 第四章 古い時計 * “あの時から、僕は一体どれほど成長したんだろう。” さっきから、大時計の秒針が時を刻む音が気になって仕方がない。 恐らく、かなり古いものなのだろう。丁寧に手入れされているようだが、金属製の振り子や針の表面には錆びが浮かんでいるし、表面を覆うガラス板にも大きなひびが入っていた。側面にはいくつもの引っ掻ききずも見える。まるで、子どもが背比べをした跡のようだった。 まさに「おじいさんの時計」だ。きっと、どこかのお屋敷に置かれて、長い間家族を見守ってきたのだろう。「Grandfather Clock」……大きな振り子式の時計のことをそう呼ぶのだと教えてくれたのは、父さんだった。小さい頃に連れて行ってもらった湖の対岸にある博物館で、ここにあるのと同じような大時計を指差し、父は得意気に言ったものだ。これは時計のおじいさんだ。父さんが生まれた家にも、こんな立派な時計が置いてあったんだよ。反り返るように文字盤を見上げる僕を、父さんは笑いながら抱き上げ、淕もこの位大きくなれよ、と言ったのだった。 ……また父のことを思い出している。僕は小さくため息をついた。ここ数日というもの、父について考えることが多い。これは、僕がいささか臆病になっているか、少しばかり心細くなっている証拠だ。そんな時、僕は自分がまだまだ両親に頼りきっていることを痛感する。 今だってそうだ。難しい顔をした司令官について来るよう言われ、この部屋に通されてから、もう三十分近く経つ。中央に置かれたソファに座るよう促した後、司令官は何も言わずに部屋を出て行き、まだ戻ってこない。てっきりこっぴどく叱責されるものと身構えていた僕は、すっかり拍子抜けしてしまった。これから僕の身に何が起ころうとしているのか、まるで見当がつかないまま、僕はずっと向かい側に立つ大時計を睨みつけていたのだった。 それにしても、随分と豪華な部屋だ。内装自体は僕たちの個室と変わらないのだが、広さはもちろんのこと、配置されている家具もまるで違う。例の大時計だけでなく、壁面いっぱいに並べられた本棚や、最新型らしいコンピューターが置かれた書き物机も、多分相当な年代物なのだろう。司令官の個室なのだろうが、この建物の中にこんな空間があるとは夢にも思わなかった。ここには、僕たちが街に残してきたかつての生活がそのままの姿を留めている。そんな気がした。 本棚に並んだ本をもっとよく見ようとして少し身を乗り出した時、ドアの向こうから話し声が聞こえてきた。僕は、膝の上の拳を固く握り締めた。 ドアが開き、入ってきたのは僕と同じ位の年頃らしい二人の少年だった。しかも、お互いにそっくりの顔立ちをしている。背丈も、着ている物も一緒だ。僕は、ただ呆然と二人を眺めていた。全く、何が起こっているのか分からない。 不意に、よく似た少年の一人が首を傾げるようにしてくすくすと笑い出した。もう一人は、何だか困ったような顔をしているが、こちらもどうやら笑いを噛み殺しているらしい。 「……何だよ?」 思わず不機嫌な調子で問い返す。訳も分からず笑い者にされるのは不愉快だ。 「だって、君がそんなに驚いた顔するから……」 片方が言った途端、二人して弾けたように笑い出す。おまけにもう片方が、鳩が豆鉄砲喰らった顔って今の君みたいな顔だろうね、などと言う。ひとしきり笑った後、二人はどことなくきまり悪そうに僕を見た。 「いや、笑ったりしてごめん。……僕は、啓。で、こっちが哲だ。見ての通り、僕らは双子だよ」 よろしく、と言って啓と名乗った少年が片手を差し出す。続いて哲と紹介された方も同じ仕草をした。握手しながら、そうか、双子だったのか、と今更ながらに納得する。 「じゃあ、行こうか」 そう言うと、彼らは部屋を出て行こうとする。僕は面食らいながら訊き返した。 「行くって……、どこへ?」 ついて来れば分かるよ、と啓が答え、哲は意味ありげに片目をつぶってみせる。まだ混乱したまま、僕は二人について螺旋階段を下り始めた。 「へえ、じゃあ君が総指揮官の息子なのか」 僕が簡単に自己紹介すると、啓……よく見るとシャツの胸ポケットに小さくKと刺繍してある……は軽く目を見開いた。 「君のことは父さんからよく聞いたよ。総指揮官がいつも話してくれたらしい」 哲……こちらはTの刺繍がしてある……の言葉を受け、すぐさま啓が後を継いだ。 「父さんの話だと、君はどうも真面目な模範生ってタイプじゃないみたいだね」 まあ、僕らだって人のことは言えないけどさ。肩をすくめるようにしながら付け加える。 「だけど、君がお堅い優等生じゃなくて実のところほっとしたよ。これから一緒にやっていくのに、杓子定規な奴が相手じゃあ、面倒くさくてかなわないからな」 「本当だ。司令官だって何も教えてくれないしさ。いきなり呼び出して、『君たちの仲間を紹介しよう』だなんて、全く何事かと……」 「ちょっと……、ちょっと待ってくれ!」 僕は慌てて口を挟んだ。「これから」だの「仲間」だの、まるで話についていけない。 「司令官がどうして君たちと僕を会わせようとするんだ? 僕は、君たちのことなんて全然知らなかったのに。だいたい、君たちの父さんはどうして僕の父親を知ってるんだ?」 啓と哲は顔を見合わせた。どちらが説明しようか迷っているようだ。やがて、哲が口を開いた。 「まず二つ目の質問の答え。僕らの父さんはね、この建物の主任建築技師だったんだよ。つまり、君の父さんが書いた図面を、僕らの父さんが形にしたってわけ。一つ目の質問の答えは、君と僕らは今同じ境遇に置かれているから、だ。淕、君ならこの意味が分かるよね?」 哲は言葉を切り、僕の目を真っ直ぐに見た。啓もさっきまでとは一転して真剣な表情をしている。僕がゆっくりと頷くと、彼らは再び顔を見合わせ、安堵したように笑みを零した。 「ところで、僕らはこれからどこに行くんだ? 僕はまだそれを聞いてない」 「公会堂だよ。そこで、もう一人の『仲間』が待ってる。どうも、機械設備責任者の子どもらしいんだけど、僕らも詳しいことは知らないんだ。会ってみないと分からないな」 「空調だとか、コンピューター室の整備だとかを担当してた人らしいよ。……さあ、到着だ」 公会堂に続くドアを開け、僕たちは中を見渡した。がらんとした空間の片隅、壁の前に膝を抱えて座っている小さな人影が見えた。僕たちが近づくと、その人影はぱっと顔を上げた。薄桃色のワンピースを着て、きつく唇を噛みしめているその子は、まだほんの小さな女の子だった。 女の子は、奇妙に表情の無い顔で僕たちを見上げていた。四歳か五歳位だろうか、肩ぐらいの髪を、細い三つ編みにしてあった。やがて、哲がつと前に進み出て、彼女の前にしゃがみ込んだ。 こんにちは、と声を掛けられても、彼女は口を閉ざしたまま、ぴくりとも動かなかった。 「僕の名前は哲。向こうの、僕と同じ顔をしてるのが啓、隣が淕だ。僕らはね、君と友達になるために会いに来たんだ。司令官のことは知ってるよね? あの人に、君のことを教えてもらった。あと、君のお父さんやお母さんのこともね」 お父さん、お母さんという言葉に、女の子の目が大きく見開かれた。聞き取れないほど小さな声で、僕らに何かを言おうとしている。何、と哲が聞き返す。 「……パパとママはどこ?」 哲がはっと息を呑んだ。後姿がはっきりそれと分かるほど強張っている。女の子は身を乗り出し、懇願するように問いかける。 「パパとママはどこなの? 迎えに来てくれるって言ったのに。これからおうちに帰るの。パパとママと、みんなで。三人でおうちに帰るの」 僕たちが何も答えないのを見て、女の子はみるみる内に目に涙を溜めた。 「パパ……。ママ……。なんで来てくれないの……?」 途方に暮れる僕たちの前で、女の子は膝に顔を埋め、静かに泣き出した。 他には誰もいない公会堂の隅で、僕たちは女の子を中心に半円を描くようにして座っていた。 少し前までは時折しゃくり上げる声が聞こえていたが、今はそれすらない。泣き疲れて眠ってしまったのかもしれないが、かといってこのまま放っておくわけにもいかない。 隣に座る哲は沈痛な面持ちで女の子を眺めている。僕は、螺旋階段で聞いた彼の言葉を思い出していた。司令官が僕たちを会わせたのは、お互いの境遇が似通っているからだという。つまり、僕の父と同じように、彼らの父も行方知れずになっているのだろう。だとすれば、この女の子も親と離れ離れになってしまったのだろうか。本来なら、大人たちと同じ場所で生活しているはずの年頃だ。しかし、彼女の問いかけからすれば、この子は両親を一度に失ってしまったことになる。あの、血のように赤い空が脳裏に浮かび、僕はしばしの間、目を閉じた。 「……今何時だろう?」 唐突に啓が口を開いた。僕はポケットから腕時計を取り出し、黙って啓に手渡した。 「6時半か……。じゃあ、そろそろ……」 「……啓!」 哲が鋭く一喝した。なぜか怒ったような顔で啓を睨みつけている。啓は一瞬何か言い返そうとしたようだったが、結局何も言わなかった。軽く目を伏せ、ごめん、と呟く。 「どうかしたのか?」 哲の方に目を遣ると、彼はちらりと女の子の様子を伺った後、声をひそめて囁いた。 「今夜、僕らの母さんが当番で来ることになってるんだ。だから……」 「じゃあ、行ってきなよ」 するりと、そんな言葉が口をついて出た。ぽかんとしている双子に、僕は頷きかけて見せた。母親に会いたいという気持ちならば、僕にだって痛いほどよく分かる。 「ここは僕に任せてくれればいい。早く行きなよ。……きっと待ってるはずだよ」 誰が、とは言わなかったが、十分に伝わったはずだ。二人はなおも迷っているようだったが、やがてどちらからともなく立ち上がった。 「それじゃあ」 「ありがとう」 二人が公会堂から出て行った後、僕は女の子の隣に座り、壁に凭れかかった。いつもここに来るとそうするように、はるか遠い天井に目を凝らす。ふと、何かに引っ張られたような感じがした。見ると、眠っていると思っていた女の子が、僕の服を小さな手で握り締めている。 「……帰ってくるよね?」 ぽつんと、彼女が呟いた。真っ赤になった目には、まだ涙が浮かんでいる。 「パパもママも、きっと帰ってくるよね? 迎えに来てくれるよね?」 「……うん、そうだね」 女の子は、僕の膝にぎゅっとしがみついた。小刻みに体を震わせながら、小さくすすり泣いている。慰める言葉も見つからないまま、僕は天井に向けていた目を閉じた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |