「赤い空 銀の鱗」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 第十一章 彷徨う魚 * “釣り合わない重さが、時々恐ろしくなる。” 二十階の談話室のドアには、「立ち入り禁止」と書かれた紙が貼り付けてあった。壊れた備品の修理や掃除が必要だというせいもあるが、騒動を起こした当事者が見つかるまでの間は罰として閉鎖する、という意味合いが強いようだ。もっとも、当人たちが正直に名乗り出る可能性は薄い。また、僕たちが部屋を出た後、相手方の生徒たちが大勢いた目撃者たちに堅く口止めしたらしく、周囲から真相が明らかになることも、なかった。 「多分、うやむやのままに終わるだろうね。談話室は閉められたままになるかもしれないけど、仕方がない」 僕だって本当のことを話すつもりはないし、と付け加えて、啓は軽く肩を竦めた。今回の件で、先生たちから一番に疑いをかけられたのは、彼だったらしい。顔の傷が目立ったせいで散々問い詰められたそうだが、何を聞かれても知らぬ存ぜぬで押し通し、最後には先生たちの方が音を上げたようだ。 「でも、正直に話したところで、先生たちが納得するとは思えない。理由が理由だから、信じてもらえるかどうか……」 「結局、何があったんだ? 洵の絵が、なにか……?」 ひとつ頷いて、啓は一言ひどく簡潔に答えた。 「魚だよ」 「魚? 洵の描いた、あの魚?」 「ああ。あの、銀色の魚だ。あれが、全ての元凶なんだよ」 「でも……、あれは洵が想像しただけじゃ……」 言いかけて、僕は口ごもった。そうじゃない。僕は、あれが単なる空想上の産物ではないことを、知っている。黙ってしまった僕を、啓は不思議そうに眺めている。 「どうかしたのか?」 「いや、なんでもない……。で、魚がどうしたんだ?」 「うん。ほら、洵と君を呼び止めた上級生がいただろ? 彼には、今年十歳になった妹がいるんだ。少し歳の離れた妹で、彼はその子を小さい頃からとても可愛がってた。その妹が、ある日突然いなくなったそうだ。部屋にもいない、授業にも出ていない。ドーム中を探し回っても、どこにもいなかった」 話の流れがつかめなくて、僕は首を傾げた。 「だけど、それと魚とがどう関係するんだ? まさか、魚が彼女を連れていったとでも?」 「そうだ」 僕は、ぽかんとして啓の顔をまじまじと見た。けれど、彼はしごく真面目な表情をしていて、とても冗談を言っているようには見えなかった。 「少なくとも、彼は、そう言った。あの魚が妹を連れ去ったんだ、ってね」 「魚が? でも、そんな……」 困惑し切った僕を見て、啓は少し困ったような笑みを浮かべた。 「僕も、とても信じられなかった。絵に描いた魚に、そんなことができるわけがない。だけど、彼はそう信じきってるんだよ。その上、彼の確信にはそれなりの根拠があるんだ。彼の妹は、毎日欠かさず日記をつけていた。彼女がいなくなってから、なにか手がかりはないかと思って彼はその日記を読んでみたらしい。そうしたら、そこに例の魚のことが書いてあった。それも、かなりの頻度でね。彼女が失踪する一週間ほど前からは、ほとんどその魚のことしか書いてなかったらしい。彼女はその頃、風邪をひいたといってずっと授業を休んでたらしいんだけどね、彼が見舞いに行っても、部屋はもぬけの殻、ってことがよくあったそうだ」 「その時、彼女は魚に会いに行っていた……」 「そういうことになるね。だけど、その魚が一体どこにいるのか、彼には分からなかった。日記にも、それは書いてなかったらしいね。で、そんな矢先に、洵の絵を見かけた」 「洵の銀色の魚……」 「うん。だから、彼は洵を呼び出した。彼女から、何か聞きだせると思ったんだろう」 「君は、どうしてあの場に居合わせたんだ?」 「たまたま、洵が僕らの教室に遊びに来てたんだよ。そこにあの上級生がやって来たんだ、仲間を引き連れてね。何だか穏やかじゃなかったから、僕も無理矢理ついて行ったんだ。最初は、本当にただ話を聞くだけのつもりだったみたいだけど、洵が何も知らなかったもんだから、向こうが逆上してあんなことになった」 啓の顔には、今もくっきりと痣が残っている。救急箱を取りに行った時、先生には階段から落ちて怪我をしたのだと言い訳しておいたのだが、これからしばらくの間はまだ、追求の手を逃れることはできないだろう。 「あれから、洵は……?」 「あの日は、悠が側についていてくれたみたいだ。その後は、実は僕も彼女に会ってないんだけど……。多分、司令官が預かっていてくれるはずだ。悠が、そう言ってたから」 「司令官が?」 この、ほとんど子どもばかりのドームの中で、洵のためには司令官のところにいるのが一番安全だと、悠は判断したのだろう。それは間違っていないと、僕も思う。けれど、僕は胸の奥に生まれた重いしこりを、無視することはできなかった。もとはと言えば、司令官が洵をここへ連れてきたのだ。彼女は、ここではなく、大人たちのもとにいるべきだったのに。 「……どうかしたのか?」 僕は恐らく、露骨に顔をしかめていたのだろう。啓が、さっきと同じ問いを繰り返した。 「なんでもないよ」 「だけど、淕……」 「なんでもないんだ。だから……」 訊かないでくれ。言外に告げて、僕は口を閉ざした。黙って頷いた啓は、突然がらりと口調を変えた。 「そうだ、洵に会いに行こうか? 別に病気じゃないんだし、止められはしないと思うんだけど」 「うん。話ぐらいは、できるかな」 「多分ね。……あのさ、淕。洵は、本当になにも知らないんだと思う?」 「だって、彼女がそう言ったんだろう?」 「ああ。でも、あの魚について一番よく知っているのは、やっぱり洵だと思うんだよ」 「そうなのかもしれない。……啓、君はどう思う? あの魚は、本当に存在するんだろうか?」 「……分からないよ。僕は、会ったことがないから。だけど……」 啓は、目を伏せた。唇を引き結んだ横顔が、ひどく険しい。 「哲は……、あいつなら、見たことがあるかもしれない」 「哲が? 君にそう言ったのか?」 「いや……。ただ、そんな気がするんだ」 僕に見えないものなら、あいつには、見えるような気がする。ほとんど聞き取れないほど小さくそう呟いて、啓は伏し目がちに微笑した。 「もし、気になるんなら、君からあいつに訊いてみればいい。無駄足になるかもしれないけど」 「うん。訊いてみるよ。……だけど、啓。君も一緒に行こう」 え、と一言発したまま、啓は絶句した。曖昧に視線を逸らし、早口で続ける。 「僕は、行けない。僕が行けば、あいつはきっと何も話さない」 「……啓」 僕は、たしなめるように続けた。 「あの時、洵と君のことを知らせに来たのは、哲なんだ。彼が教えてくれなければ、僕はなにも気付かずにいた」 「哲、が?」 「ああ。……啓。哲が君のことを許さないなんて、そんなことはない。絶対に。だから、一緒に行こう。それに、彼がもし何かを知っているなら、巻き込まれて怪我までした君が、一番に聞く権利がある。違うかい?」 瞬きすら忘れたように、身を強張らせていた啓が、やっと表情を緩めた。分かったよ、と諦めたような笑みを浮かべる。 「……分かった。行くよ。僕も、行くから」 ドアを開けた哲は、ドアノブに手をかけたまま、しばらく何も言わなかった。啓の痣に目を留め、軽く眉を寄せたようだったが、次の瞬間にはもとの無表情に戻ってしまった。 「ちょっと、訊きたいことがあるんだ。……この間のことで。入っても、いいかな?」 ややあって、哲は無言で頷いた。勉強机の椅子に座った哲に向かい合うようにして、僕はベッドに腰掛けた。最後に入ってきた啓は、閉めたドアに凭れるようにして立った。 「洵は、元気にしてる?」 「うん、多分ね。今は、司令官のところにいるらしい。……あの時、君が来てくれて良かったよ」 ゆっくりと、哲は首を横に振った。 「……悠に、聞いたんだ。洵と……洵が、なにか面倒なことに巻き込まれてるみたいだって。自分では収拾できないから、手を貸してやってくれないか、って」 悠。また、彼女だ。暗澹とした思いを頭を振って追い払い、僕は悠のことをとりあえず脇へ押しやった。そうだ、本題に入らないといけない。さっき聞いたばかりの話を頭の中で整理しながら、僕は哲に向かって説明を始めた。その間ずっと、啓は軽く組んだ足元に視線を落とし、僕たちの方を見ようとはしなかった。 「あの、洵の魚が……」 僕が話し終えると、哲はぼんやりとそう呟いた。 「うん。でも、本当に洵が描いたあの魚が関係しているのかは、分からない」 どこか上の空で、哲は頷いた。さほど驚いたような様子は見せていない。それが逆に、不思議だった。やはり、啓の推測通り、哲はあの魚に出会ったことがあるのだろうか。 「……淕。君は、その魚を見たことがあるのかい?」 肯定しようとして、僕は思わず言葉に詰まった。見た、と言ってしまえば良かったのだ。隠し立てするようなことではない。けれど、なぜか僕は本当のことを話せなかった。 「いいや。あれは……、洵が考え出したんじゃないのか?」 「……そうじゃない」 啓が弾かれたように顔を上げたのが、視界の隅に映った。 「あの魚は、実在するんだ。僕たちの、すぐ側にね」 そう言った哲の声には、微かな熱がこもっていた。 「コンピューターの中に、あの魚は住んでいる。そして、望んだ者の前にだけ、姿を現すんだ。蜘蛛の巣のように張り巡らされた、複雑な水路を辿って。あの魚の泳ぐ海は、情報と記憶でできている。だから、あの魚は、全てを知っている。僕たちの過去も未来も、全部。僕たちが何を求めているか、それさえも、あの魚には分かってしまうんだ」 「……馬鹿馬鹿しい」 それまで黙っていた啓が、冷めた声を投げる。哲を見る目も、同じように冷え切っていた。 「魚なんて存在しない。そんなもの、いやしないんだ。ただの幻だよ」 哲は、大きく首を横に振り、諭すように語りかけた。 「違う。魚は、このドームの中で確かに生きているんだ。啓、お前にだって見えるはずだ。心から望めば、きっと……」 「幻だよ。僕は、そんなまやかしなんて欲しくはない」 拒絶するように、啓は顔を背けた。哲は椅子から立ち上がり、啓の方へ一歩近づいた。 「幻なんかじゃない。思い出したいもの、再会したいと願う人、あの魚の力を借りれば、そんな何もかもに出会うことができる。一度失ったものも、取り戻すことができる。……いや、あの魚の住む世界では、そういったものはまだ、失われていないんだ。なくしてしまったものが全部、もとあった姿のままに残っている。あの世界では、僕らはまだ、何も失ってはいない。何も、損なわれてはいないんだ。何も……!」 「いい加減にしろ!」 激しい声音で一喝し、啓は哲を睨みつけた。 「そうやって、いつまでも目を逸らしているつもりか? 知りたくないことから目を背けて、聞きたくないことに耳を塞いで、いつまでも記憶の殻に閉じこもって、そうやって、生きていくのか、この先ずっと?」 押し殺した声が震えている。怒りだけではない、何かもっと複雑な感情が、啓の目には浮かんでいた。 「……僕を、哀れんでるのか? 思い出と向き合うことでしか、今を生きられない。お前は、そんな風に思ってるのか?」 凍りついたように立ち尽くしていた哲が、静かに問いかける。不自然なまでに穏やかな声に、僕は背筋がぞくりとするのを感じた。駄目だ。このままでは、壊れてしまう。早く、早く止めなければ。そうしなければ、もう戻れないところまで、亀裂が広がってしまう。しかし、僕の喉からは掠れたような音が漏れるばかりで、何一つ言葉にすることができなかった。その間にも、啓の口からは針のような言葉が吐き出され続けている。 「ああ、そうだよ。お前は、逃げようとしている。認めたくない事実に背を向けて、逃げ出そうとしてるんだよ」 「事実? じゃあ、お前の言う事実とはなんだ? どうして、お前の方が正しいと分かる? ……僕は、現実から逃げているつもりはない。僕の見ているものこそ、真実だ」 「幻だ。そんなもの、幻だ。失うことの痛みを受け止められない人間が作りだしたまやかしなんだ。そんなものに縋ってどうする? なくしてしまったものは、もう戻ってこない。壊れてしまったものは、もう元通りにはできないんだ。どんなに願っても、帰ってはこないんだよ……!」 「違う! 僕らは何も失ってはいない。何もまだ、壊れてなんかいない! どうして信じられない? どうして信じようとしないんだよ!」 振り下ろされた哲の拳が机の表面を叩き、不吉なほど大きな音を立てた。跳ねるように立ち上がった僕は、反射的に哲の片腕を掴んだ。違う、違うんだ。僕だって、僕らだって君と同じものを信じたいと思ってる。けれど、僕の思いは声にならなかった。同じ? 本当に同じなのか? ひたりと押し寄せた疑問に、僕の言葉は飲み込まれてしまう。 哲が、ふとこちらを向いた。怯えた子どものような目をしている。咄嗟に僕は、視線を逸らしてしまった。逸らしてしまったのだ。即座に後悔したが、もう、遅い。 哲は、乱暴に僕の手を振り払った。一度、何かに耐えるように唇を噛んだ後、啓を、続いて僕を厳しい目で見据えた。 「お前は……いや、君たちは、自ら望んで何もかもをぶち壊そうとしているように見える。自分が手にしているもの、後生大事に守ってきたものさえ、放り出してしまおうとしているようにね。けれど、その後に何が残る? 本当に何もかも失った後、自分ひとりで立っていられるほどの強さを、君たちは持っているのか? それほど、君たちは大人なのか?」 落ち着き払った口調が、耳に痛い。もう駄目だ。もう、取り返しはつかない。何も答えない僕らにどこか蔑むような一瞥を投げ、哲は部屋の出口へ向かった。ドアの前に立つ啓を、何も言わずに押しのける。 外へ出た哲は、背中を向けたまま、一度立ち止まった。 「……僕には、君たちの方がずっと哀れに思えるよ」 取り残された僕は、どうすることもできず、ただ呆然としていた。何を言えばいいのか、何を考えたらいいのか、まるで分からなかった。 「……淕」 僕は、のろのろと視線を彷徨わせた。再びドアに寄りかかるようにして立った啓は、蒼白の面をしていた。ドアに片手をついて、ようやく体を支えているようだ。そうだ。彼の受けた衝撃は、僕のそれとは比べ物にならないほど、大きいに違いない。 けれど、僕が何か言うよりも早く、啓は半ば消え入りそうな声で続けた。 「ごめん……。洵には、君だけで会いに行ってくれ。僕はとても……、そんな気にはなれない……」 語尾はほとんど聞き取れなかった。バタン、と音を立ててドアが閉まる。今度こそ、本当にひとり残された僕は、もう立っていられなくなって、その場に崩れ落ちた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |