「赤い空 銀の鱗」



* 第十二章 去り行く人 *

“こうして取り残されていく。少しずつ、少しずつ。”

「はい。標本と虫眼鏡は行き渡りましたね。それじゃあ、観察を始めましょう。じっくりとよく見て、特徴をスケッチして下さい」
 机に置かれているのは、いくつかの石と、小さなビニール袋に詰められた、土の標本だ。透明な粒や黒い粒の含まれたもの、縞模様になったものや、まだら模様のもの。この先生の理科の授業だけは、僕も楽しいと思う。それは多分、こうしていつもいろいろな標本を見せてくれるからだろう。そういえば、どんな科目であれ分け隔てなくさぼり気味だった僕も、この先生の授業は、一度も欠席したことがない。しかしそれは、恐らく洵のおかげでもあるだろう。洵はこの理科の先生をとても慕っていた。いつもなら僕の隣の席に座っている彼女だが、理科の時間だけは、教卓のすぐ前、先生に一番近い場所に陣取って、熱心に話を聞いていた。いや、もしかしたら彼女は、授業の内容をすぐ側で聞きたいというよりもむしろ、母親の面影を宿した先生の少しでも近くにいたかっただけなのかもしれない。
 この前、洵を悠の部屋へ送り届けて以来、僕は彼女と会っていなかった。行こうと思えば、いつでも会いに行けたのだろうと思う。まさか司令官も、咎め立てたりはしないだろう。そうは思っても、僕の足は重かった。彼女に、どう言葉を掛けたら良いのかが分からない。どんな話題を選んで、どんな話をしたら良いのかが、分からない。僕の頭は、双子と会ったあの日から死んだように思考を止めてしまっていた。大好きな先生の授業も出てこないところを見ると、彼女もまた、未だ自分の出会った出来事を消化できずにいるのだろう。そんな状態の彼女に、こんな有様の僕が掛けられる言葉などない。ましてや、慰めたり励ましたりなどできるはずもない。

 ぽん、と肩を叩かれて、僕は我に返った。顔を上げると、先生が机の隣に立って僕の顔をのぞきこんでいた。顔色が良くないけど大丈夫? と訊ねる声がひどく気遣わしげで温かくて、僕は鼻の奥がつんと痛むのを感じた。洵の気持ちが、今ならよく分かる。先生は、僕の母親にはまるで似ていないけれど。
「……なんでもないです」
 慌てて先生の顔から目を逸らした。一体、どうしたと言うんだろう。ただ優しい声をかけられただけで、泣き出しそうになるなんて。まるで、小さい頃に戻ってしまったみたいだ。何度か瞬いて、先生には気付かれないよう、ひとつ深呼吸する。
「大丈夫です」
 先生の顔を見上げた時には、もう涙はどこかへ消えてしまっていた。昔とは違う。僕はもう、そう簡単に泣いたりはしない。
 先生は軽く頷くと、微笑んで僕の肩に手を載せてから、教卓に戻って行った。そう、もう大丈夫だ。大丈夫でなければいけないのだ。この授業が終わったら、洵に会いに行こうと、僕は心を決めていた。彼女はきっと、僕以上に心細い思いをしているに違いない。ただ言葉を交わすだけでもいい、それだけでも、なにがしかの救いにはなるはずだ。洵にとっても、僕にとっても。

「ところで、みんな。机の上に何種類かの土があるけれど、どれが私たちの街のものだか分かりますか?」
 黒板の前に立った先生は、少し伸び上がるようにしながら教室中を見渡した。僕たちの住んでいた街の地面は、一面の赤土に覆われていたという。からからに乾いた土で、植物を育てるにはあまり向いていない。今はアスファルトに覆われた道路に変わっているので、その名残は点々と残された未舗装の空き地に、わずかばかり見られるのみだ。
「みんな、どれだか分かるわよね。じゃあ、次の質問。どうして、私たちの街の地面は、こんな色をしているんでしょう?」
 ちらほらと手が挙がる様を、頬杖をついて眺めていた僕は、無人の席が案外と多いことに気付いた。以前から、こんなものだったろうか。確信はないが、こんな櫛の歯が抜け落ちたように空席が目立つようなことはなかったように思う。
 先生はしばらく考えた後、僕の斜め前に座っている女子生徒の名前を呼んだ。はい、と歯切れ良く返事をして、彼女が立ち上がる。
「昔、私たちの街からずっと離れた山で、大噴火が起こりました。その時に、風に乗って飛ばされてきた赤茶色の火山灰が降り積もったからです」
 僕たちが使う教科書にも、そのように説明されている。幼い頃、祖母から聞いた昔の物語にも、そんな話が出てきたような覚えがあった。よくできました、と先生はにっこり笑う。回答した生徒が再び着席するのを見届けて、先生は不意にすっと笑顔を消した。
「でも、ね」
 僕たちみんなの顔をゆっくりと見回す。ひどく硬い表情をしているように見えるのは、気のせいだろうか。
「教科書に書いてあることが、いつも正しいとは限らないのよ。あまりにも当たり前に存在するものほど、大いなる謎に包まれている」

 教室内がしんと静まり返った。戸惑ったような沈黙が流れる。
「例えば……、あなたたちは、古代の湖について、どのくらい知っているかしら。面積だとか、水量だとか、そんなことじゃないわ。いつからあそこにあるのか、生き物は住んでいるのか。あなたたちは、知っているかしら。いえ、知ろうと思ったことがあったかしら」
 先生は生徒たちひとりひとりの顔を確かめるように視線を移し、最終的には僕に目を据えた。
「でも、私はみんなに本当のことを教えてあげることができない。それは、みんなが自分で見つけるべきものだと、先生は思ってるわ」
 痛いくらい真っ直ぐ向けられた目に、視線を逸らすこともできず、僕は次の言葉を待った。
「先生たちにできるのは、みんなにヒントをあげることだけ。そこから先は、みんなが自分で考えて。それが……」
 僕から視線を外し、一言一言を区切るように、先生は教室中に語りかけた。
「それが、私の出す、最後の宿題」
 今日の授業は、これでおしまい。そう言うなり、先生は教室を出て行ってしまった。

 司令官の部屋を訪ねるのは、これが二回目だった。この前に来た時は、ずっと俯いていたので分からなかったが、この部屋のドアは重々しい輝きを持った木製のものだった。ひどく重厚な造りで、僕のような子どもひとりなど簡単に跳ね返してしまいそうに見える。一歩下がって高圧的なドアを軽く睨み据えてから、僕はできるだけ毅然と背筋を伸ばしてノックした。中から低い声で返事があったのを聞き届けてから、思い切ってノブを回す。
 僕の姿を見て、書き物机の前に座っていた司令官は、軽く目を細めた。驚いているようにも、あるいは不審がっているようにも見える。何か質問される前に、僕は先手を打って口を開いた。
「洵に会いに来たんです。彼女と話したいことがあって」
 一息に告げた声は、情けないことにわずか上擦っていた。ただ座っているだけでも、司令官には圧倒的な威圧感がある。仁王立ちに近い姿勢で司令官を見据える僕は、きっと喧嘩でも売ろうかという表情をしていただろう。そんな僕を見て、司令官は更に目を細めた。もしかして、面白がっているのだろうか。そう思うと、無性に腹が立ってきた。僕の質問に対してなかなか返答がないのも癪に障る。緊張は、いつしか腹立ちに変わっていた。
「洵はここにいるんですか? それともいないんですか?」
 噛み付かんばかりの勢いを宥めるように、司令官は右手のひらを僕の方に向けた。
「彼女は確かに私の部屋で預かっている。けれども、今ここにはいない。ほんの少し前だが、悠君が訪ねてきて、彼女と一緒にどこかへ行ったようだ。恐らく、夕食を受け取りに行ったんだと思うが」
 僕は、以前も見たことがある古い置時計で時間を確かめて、小さく溜息を吐いた。入れ違いだったか。出鼻をくじかれたようで、一気に肩の力が抜けた。
「そう、ですね。……失礼しました。また、会いに来ます」

 退室しようとした僕の背に、司令官が声を掛けてきた。
「洵君なら、元気にしているよ。まあ、体調は、ということだが。悠君が、良く面倒を見てくれている」
 僕は再び司令官に向き直った。体調は、か。やはり洵にとって、この間の一件は堪えたのだろう。
「それから、君もよく知っている理科の先生も、頻繁に様子を見に来てくれているよ」
「……洵は、先生によくなついてますから」
「ああ、そのようだ。それに……、彼女は洵君が巻き込まれた騒動に関して、責任を感じているらしい」
「責任、ですか」
「そうだ。自分が、洵君の絵を貼り出したりなどしなければ、こんなことにはならなかった、と」
「それじゃあ……」
 言いかけて、僕は言葉を呑み込んだ。司令官は、どこまで事情を知っているのか。それを推し量れない限り、僕の口から余計な情報を洩らすわけにはいかない。
「確かに、この一件の発端は、彼女にある。しかし……遅かれ早かれ、起こるべき出来事ではあったんだろうな」
 独白のように付け加えて、司令官は暫し口を噤んだ。どこか、暗い色を浮かべた目を、机の表面に落としている。
「……起こる、べき?」
 慎重に聞き返すと、司令官ははっとなったように一度僕の顔をまじまじと見つめた。まるで、僕がここにいることを、今不意に思い出したかのような仕草だった。
「いや、なんでもない。……ともかく、先の事件は、彼女が引き起こしたと言っても過言ではないのだ。だから」
 そこで、何故か司令官は言い淀んだ。それはほんの一瞬だったが、確かに躊躇うような色がその目に浮かんだのを、僕は見逃さなかった。一度咳払いしてから、司令官はきっぱりと宣言した。
「彼女には、このドームを去ってもらう」

 予想もしなかった言葉に、僕は狼狽した。なぜ、どうしてそんな結論に繋がるのだ。うろたえた僕は、理由を問い質すタイミングを逃したまま、言葉を失った。
「洵君には可哀想だと思うが、だが仕方があるまい。彼女の言葉通り、責任を取って貰わなければならない」
「何の……」
 やっと搾り出した声は、自分でも可笑しいくらいに震えていた。怒りのせいか、それとも得体の知れない不安のせいか。
「……何の責任です」
「これからに対する、だよ。これから起こりうる事態についての責任だ」
「そんな抽象的な言い方じゃあ分からない。一体何が起こるって言うんですか? 一体僕たちに何が……」
「君たちに知らせる必要はない」
 切って捨てるような、冷ややかな口調だった。気圧された僕は、それ以上問い詰めることもできず、再び切り返すべき言葉を見失った。黙り込んだ僕を、司令官は欠片も温かみを感じさせない目で見やった。
「これ以上、君に話すべきことはない。自室に戻りなさい」
 未だ呆然としたまま、僕はのろのろと一礼し、言われるままに司令官の部屋を後にした。それ以外に、僕の取るべき行動などなかった。

 気付けば、教室に戻ってきていた。当然のことながら、僕の他に生徒の姿はない。ちょうどいい。今は、誰にも会いたくなかった。きっと僕は、これ以上ないほど間抜けな表情をしていることだろうから。
 自分の席に座り、正面を見上げると、教壇の上には先生の使っていたファイルがまだ残されていた。まるで、置き土産のようだった。黒板の文字も消されていない。ただ当直が消し忘れたか、それとも正体は分からぬまま何かを感じ取ったのか。なんであれ、消え残った文字は、僕にとって有り難い存在だった。丸みを帯びた柔らかな字体を眺めていると、少しばかり心が落ち着くような気がする。
 きっと明日の朝になれば、この文字も消されてしまうだろう。次の理科の授業で、僕たちは新しい先生と向かい合うことになる。最初は不満も出るかもしれない。洵や、そして僕と同じように、あの先生を慕っていた生徒は多かったから。けれども、すぐに皆慣れてしまうはずだ。そんな風にして、小さな変化は水が地面に染み込むように、吸収され許容される。ささやかな疑念など、大海の表面を揺らすそよ風のようなものだ。何事もなかったかのように、跡形もなく消え失せてしまう。けれど、と僕は思う。けれど、僕は忘れない。決して忘れはしない。それは、洵も同じだろう。
 机に肘をつき、僕は両手のひらに顔を埋めた。先生が伝えることのできなかった、僕たち自身が見つけなければならないもの。それは、僕が追い求めようとしているものと、さほどかけ離れてはいないはずだ。だからこそ先生は、ともすれば立ち止まり、途方に暮れて足を竦ませる僕の背中を押そうとしてくれたのだろうか。

 無意識の内に、僕は駄々をこねるように首を左右に振っていた。重すぎるのだ。僕はただ、自分の知りたいことを、自分の納得がいくように、追求しようと思ったまでなのだ。誰かのやり残した仕事まで引き受けられるほど、僕は器用ではない。そんな余裕など持ち合わせていない。僕に押し付けないでくれ、という苛立ちと、託されたものは引き受けねばなるまいという使命感とが、せめぎあって火花を散らす。勝手なものだ、と自分でも思う。子どもは知らなくていいと言われれば、大人が思うほど幼くはないと反発し、手に余るような大仕事を任されそうになると、まだ無理なんだと逃げたくなる。どちらも本当だ。どちらかを選べと言われても、そんなもの、簡単に決められるものか。
 最近は、こんなことばかりだ。僕は、気の抜けたような苦笑を浮かべた。僕の頭の中は掻き乱されてばかりで、いつしかそれが常態になりつつある。部屋に戻ろう、と思った。今日はここまでだ。きちんと食事をして、よく眠って、また明日から動けばいい。まずは、洵に会いに行くのだ。とりあえずの行動指針が決まっただけでも、一歩前進だと考えよう。

 自室に戻る途中、丁度帰ってきたらしい悠と出くわした。ドアのノブに手をかけたまま、彼女は僕の顔をひどく悲しげに見つめ、声を出さずに何事か唇を動かした。
 それが、「ごめんなさい」という声にならない謝罪だったのだと気付いたのは、彼女が部屋の中に姿を消してしまった後だった。



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