「りんごあめ」



 * 夕紅夢 *

 豆腐を買いに行く道すがら、風鈴売りに出会った。もう彼岸を過ぎたというのに、随分と季節外れな商いだ。
 年季の入った鍋をひとつ手に持って、涼しいというよりも冷たい風に首を竦めつつ歩く。今夜は、豆腐の味噌汁を作ろうと思っていた。味噌汁の具にするなら、木綿豆腐が良い。それを、包丁は使わずに、手で適当な大きさに崩して入れる。見てくれは良くないが、美味ければそれで良い。豆腐屋に厚揚げが置いてあれば、それも一緒に買って来よう。

 風鈴売りは、手ぬぐいを被った頭を俯かせるようにして、車を引いている。夏の暑い頃ならば、涼味溢れる風鈴の音色も、赤蜻蛉が舞い飛ぶようなこの季節では、寒々しく聞こえるに違いない。風鈴に限らず、季節ものというのは、その旬を過ぎてしまうと、途端になにやら侘しくみえるものである。だから、まだ名残惜しいぐらいの頃に、粋が野暮にならない内に、潔く片付けてやるのが、季節感を堪能させてくれた物ものへの礼儀というものなのだ。
 そんなことを考えつつ、風鈴売りとすれ違おうとしたその時、何かしらの違和感に気付いた。いや、違和感というよりも、欠落感か。何か、そこに当然あるべきものが、欠けている。

 何だろうか、としばし首を傾げ、はたと思い至った。思わず、足まで止めてしまった。そう、音だ。あの、夕暮れ時に聞くと少々物寂しくなるようなあの音が、聞こえない。
 慌てて振り向くと、風鈴売りも同じように足を止めて、こちらを伺っていた。目が合うと、にいっと笑った。愛想がいい、と言うには、なにやら含むところが多そうな笑みである。

「兄さん、ここで会ったのも何かの縁だ。あんたもおひとつどうです? いや、実はね、今日を今年最後の商いにしようと思ってね、こうして馴染みの道を回ってるところなんでさあ」
 言われるまま、男の引く車に近づいてみた。見た目は、ごく普通の風鈴売りである。別段、変わったところもない。ただ、無音なのを除いては。思い切って、訊ねてみることにした。
「親爺さん、この風鈴は、鳴らないのかい?」
 すると、男は大げさに目を剥いてみせた。
「こりゃあ、可笑しなことを言いなさる。よっくご覧くだせえ。これが、風鈴に見えますかい?」
 他の何に見えるというのだ。そう答えると、男は大仰に首を横に振った。
「違いまさあ。ほら、もっとよく近づいてみりゃあ分かる。これは……」
 男が言葉を切ると同時に、近づけた鼻先に、ふわりと甘い香りが漂った。
「……りんごあめでさあ」
 確かに、その懐かしい香りはりんごあめのものだった。しかし、どこか変だ。中身のりんごが無くなっていて、皮の赤さに染まった飴だけが、綺麗に丸い形を残してぶら下がっている。
「親爺さん、りんごはどうしたんだい?」
「りんご? りんごなんてもう用済みだ」
「でも、りんごあめはりんごを食べるもんなんじゃあないのかい?」
「とんでもねえ。兄さん、あんた何か思い違いしてるみたいだねえ」
 どういうことだろう。驚いて黙っていると、男は勝手に説明を始めた。
「りんごあめってのはね、こうやって、どれだけきれいに飴だけを残せるかってのが重要なんでさあ。りんごなんてもんは、ただの型だ」
 どうやら、今まで頭に描いていたりんごあめとは、まるで別物らしい。そんな心の内を見透かすように、風鈴売り……いや、りんごあめ売りは、吊るしていたりんごあめをひとつ外し、ほんの僅か残った夕陽の明りに透かした。
「きれいなもんでしょう? 形といい色といい、このりんごあめは上物だ。それにねえ、使い勝手だって滅法いいもんだ。ただ眺めてたっていいし、中に電灯のひとつもしこめばランプにもなる。まあ、風鈴に仕立てたって構やしねえ。どう使うかなんざ、お客さんの勝手だあね」
 どうです、おひとつ。その言葉に釣られるように、気付けば財布を取り出していた。なによりも、夕陽を浴びて艶やかに光るりんごあめが、この上なく美しいものに見えたからだ。
「毎度あり」
 つり銭を渡しつつ、りんごあめ売りは、今気付いたという風に鍋に目をやった。
「豆腐ですかい?」
「ああ」
「そりゃあいい。こんな暑い夕べは、冷奴に限る。……それじゃあ、これで」

 りんごあめを片手にぶら下げて、豆腐屋で絹ごし豆腐とがんもどきを買った。冷奴にするなら、絹ごしが一番だ。冷奴に、きんと冷やした素麺、それだけを食べ終えると……くしゃみが出た。急に寒くなってきた。開け放っていた窓を締め切ったところで、はっと思い出した。今日は、味噌汁にするつもりで豆腐屋に行ったのではなかったか。むしろ、湯豆腐の方が似合うくらいの肌寒さなのだ。それを、どうして冷奴など……。
 そうか、あの親爺だ。あの親爺が、「こんな暑い夕べに……」などと言うから、ついこっちもその気になって……。いや、でもおかしい。さっきまで、確かにうだるような暑さだったのだ。親爺に唆されたくらいで、気温まで変わるはずがない。
 まさか、と取り敢えず窓際に吊るしたりんごあめに目をやる。心許無い裸電球に照らされたそれは、紛れも無く、風鈴だった。
 これは一杯喰わされたか。そう思うと、なぜだか腹の底から笑いが込み上げてきた。りんごあめとは、なかなか洒落ているじゃあないか。
 くつくつと一人笑いながら、風鈴をひとつ鳴らしてみた。りん、という音色とともに、ほのかに甘やかな香りが立ち上ったような気がした。



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