「メロドラマ」



 * 月は、消えない *

 ハイヒールを履いた日は、できるだけ靴音を高く立てて歩く。顎を上げて、胸を逸らし、地球を蹴り付けるようにして、歩く。ハイヒールという靴は、華奢で華麗な癖に、どこか好戦的な履物だと思う。だから、なるべく高飛車な音を響かせて、大人の女の顔をして、歩くのだ。

 カツカツと、細いヒールの底が規則正しく石畳を叩く音が心地よい。この街は、ごみごみと通路が入り組んでいる上に坂道ばかりで、決して住みやすい場所とは言えないが、石畳が多いことだけは、取り得として認めてもいいと思う。
 秒針のように正確に、硬い足音を刻みながら、空を見上げる。まだ、月は消えない。
 赤いハイヒールと完璧なマニキュアって、大人の女性の象徴だと思うんです。
 初めてふたりで食事をした時のことだ。小さなスプーンに載せた角砂糖を、コーヒーに少しずつ沈めながら、彼はそう言った。どんな話の流れから、そんな話題になったのかは、もう覚えていない。
「……陳腐ね」
 私は、そう答えたのだ。私の小説に出てくる女性主人公たちがいつもそうするように、ほんの少しだけ唇に笑みを浮かべて。彼は、照れたように目を伏せた。少年のような仕草だと思って、なんて月並みな感想だろうと心の中で笑った。けれど実際、五歳も年下の男なんて、しかも大学院生だなんて、私から見ればほんの少年に過ぎない。
「ずいぶん、手厳しいんですね」
「あら、そんなつもりはないわ。ただ、正直なだけ」
「正直、ですか」
「そうよ。私は、嘘を吐くのが嫌いなの」
 彼はそこで私を正面から見つめ、面白そうに目を細めた。
「じゃあ、どうして小説家になんてなったんです?」
 コーヒーカップを持ち上げながら、どこか楽しげな口調で、彼は続けた。
「小説家なんて、この世で最も嘘吐きな仕事でしょう?」
 どきり、とした。彼の言葉に、というよりもむしろ、その瞳に。無邪気なふりをしつつ、計算づくで鋭い刃を突きつけてくるような、そんな瞳に射竦められて、そして気付けば次に会うための約束をしていた。翌日には、開店と同時にデパートへ駆け込んで、赤いハイヒールを買っていた。
 陳腐なのは、私の方だった。

 高いヒールに慣れるまでに、数ヶ月かかった。靴擦れやまめを無数に作りつつ、それでも颯爽と見える歩き方を練習し続けて、やっと納得がいったのが、昨日のことだった。いつしか随分と細かい傷の増えた赤いハイヒールを、丁寧に磨き上げていた昨夜の私は、なんて幸せで、同時になんていじらしかったんだろう。
 喧嘩でも売るように、石畳にヒールを打ち下ろしながら、私は唇を噛み締める。どうして、と聞けば良かったんだろうか。私のどこがいけなかったの、と縋り付けば良かったんだろうか。駄目だ、そんなことはできない。ただ私は、彼が喫茶店の椅子から立ち上がるよりも早く、伝票をつかんでその場を立ち去った。それが、精一杯だった。

 月は、まだ消えない。歩き始めてから、もう何時間経ったのだろうか。空はほんのりと白み始めているが、あの砂糖菓子のような月が消えるまで、立ち止まるわけにはいかない。消え残る月。彼は、そんな存在だった。夜に冷たくも凛とした光を放つ月ではなく、明るい昼間にぼんやりと姿を見せ、いつまでも消えない月。もう会わないのだと分かっていても、残像のように心に焼き付いて、消せない。
 睨み付けるように空を見上げていたせいか、足元に穿たれた深い窪みに気付くのが遅れた。あっと思った時には、足を取られ、その場に膝を付いていた。怪我らしい怪我はなかったけれど、繊細なヒールは、ぽっきりと折れてしまっている。拾い上げると、思っていたよりも傷だらけになっていることが分かった。こんなにも、私は真剣だったのだ。陳腐な努力に陳腐な情熱を傾けるほど、真剣だったのだ。
 やっと、涙が込み上げてきた。情けなくしゃくりあげながら、私はこのことを小説にしよう、と決意していた。思い切り陳腐で、思い切り月並みで、思い切り一途なラヴ・ストーリー。
 そして、その物語の中で、私は彼にちゃんとさよならを言うのだ。きっと彼は気付いてくれるだろう。そんな風にしか、別れを告げることのできない私の不器用さも、きっと見抜いていただろうから。

 立ち上がった私は、片方残ったヒールを折り取ってしまった。もう当分、ハイヒールは履かない。履く必要もなくなってしまったから。ぐすぐすと鼻を鳴らしつつ顔を上げると、そこにはもう、まっさらな朝の空が広がっていた。
 月はもう、見えない。



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