「レディ・ダァリア」 ![]() ![]() ![]() ![]() この街には、失くし物が多すぎる。ディオスが事ある毎に繰り返すその台詞は、発せられる時と場合によって、微妙に趣を異にする。ある時には微量の自嘲を込めて、別の時にはやり場のない怒りを託して、また、ごく稀には誤魔化しきれない悲しみを秘めて。それは、彼が得意とする芝居がかった独白のようでいて、その実、核心を言い当ててもいる。 この街の人々は、誰一人の例外もなく、「失くし物」を抱えて日々を送っているのだ。そして、その失せ物は、零れ落ちたジグソーパズルのピースに見立てて、「ロストピース」と呼び習わされている。 ロストピースに纏わる疑問点は、大まかに言えば三つある。まず一つ目、ロストピースとは一体何か、ということ。 その答えを簡潔に表すならば、それは「記憶の欠損」である、ということになるだろう。この失くし物の厄介さは、探すあてもなければ、他の何かで埋め合わせることも、取り替えることもできないところにある。落としたボタンを付け替えるようなわけにはいかないのだ。 二つ目、ロストピースは何故に生まれるのか、ということ。 この質問に対しては、饒舌すぎる僕の友人をもってしても「分からない」と答える他ないだろう。ロストピースの出現には、前触れも法則性も見当たらないのだ。例えて言うならばそれは、突然道の真ん中で出くわした落とし穴に似ている。巧妙に隠されているため、いざ遭遇しなければその存在にすら気付かない。そして、一度囚われてしまえばもう二度と逃れることはできないのだ。この街には、様々な年齢、職業、人生経験を持つ人々が暮らしている。おかげで、僕たち住民は元の生活とほぼ変わりない日々を享受することができる。ロストピースの無差別性がもたらした、皮肉な恩恵だ。もっとも、まだ「子ども」の部類に属するらしい僕やディオスは、提供できる特別な技術など持っていないから、住人たちの手伝いをしながら毎日を送っている。万年筆を持てなくなった作家に頼まれて口述筆記をしたり、ボタン付けができなくなった仕立て屋の手助けをしたり、細々と忙しいのである。 記憶の一部を失うことによって、それまでの生活に支障を来す恐れが生じたロストピース保持者たちを保護するための避難所として、この街は生まれた。しかし、「避難所」という言葉の持つ一時的な意味合い、いずれ帰ることができるという希望は、残念ながらこの場所には存在しない。この街を縛るルールは二つある。一つは、他の住人のロストピースに必要以上の干渉をしないこと、そしてもう一つは、最後にして最大の疑問と分かち難く結びついている。この街を出ることができるのは、失ったピースを再び埋めることが叶った場合に限られる。ロストピースを取り戻すにはどうすれば良いのか、この難問に答えられる者が誰一人として見つからない現状では、それは不可能とほぼ同義だ。 無いはずのものが、現にあるものよりも存在感を持つ。ここは、そんな奇妙な場所でもある。ロストピースこそが、この街がこの街たる証であり、僕たちを外の世界から庇護する母鳥の翼であり、更には決して逃げ出せないように縛り付ける見えない鎖でもあるのだ。 ディオスに言わせれば、この街は「隔離所」なのだという。口の悪い友を窘めつつ、僕も内心では彼の意見が的外れではないことを認めないわけにはいかない。 レディ・ダァリアとの再会は、僕にとっては思いがけない場所で訪れることになった。食料品店で焼き菓子の品定めをしていたところを、背後から軽く肩を叩かれて振り向いた僕は、そこに彼女の姿を見つけて少なからず驚いた。きっと、ぽかんと口を開けた間抜けな顔を、僕はしていたのだろう。彼女は長い睫毛を瞬かせ、次の瞬間一気に破顔した。 「ごめんなさい、急に笑ったりして。でも、あなたがあんまりびっくりした顔をするものだから」 目尻に浮かんだ涙を、しなやかな指先で拭うと、彼女は打って変わって悪戯っぽい微笑で僕を見つめた。 「あなたには悪いことをしたけれど、こんなに笑ったのなんて久しぶりだわ。ねえ、何にそれほど驚いたの? 私が幽霊にでも見えたかしら?」 事情を説明しようとして、僕は何となく躊躇った。彼女の登場に不意を衝かれた理由は簡単である。レディ・ダァリアのような大女優が、自ら買い物籠を手に食料品店を闊歩している姿を、僕は全く想像していなかったのだ。しかしそれは、僕の一方的な、かつ独断に満ちた思い込みに過ぎない。おまけに、「元女優」という友人の言葉が脳裏を掠めたせいもあって、僕は結局曖昧に口ごもることしかできなかった。幸い、彼女はそれ以上追及を重ねることもなく、むしろ僕の提げた買い物袋の中身に興味を惹かれた様子で、しげしげと覗き込むのだった。 「大層な買い物ね。ええと……あなたは、どちらだったかしら?」 クロイです、と答えると、彼女は申し訳なさそうに形の良い眉尻を下げた。 「私はどうも人の名前を覚えるのが苦手なようだわ。……それで、クロイ、こんなにたくさんのお菓子をどうするつもりなの? あなたたち二人分にしては、ちょっと多すぎるんじゃない?」 彼女の言う通り、僕が手にした帆布製の袋には、おおよそ二十人分はあるかという量のクッキーやビスケットの箱が詰め込まれている。他にもこれから、ジャムやサンドイッチ用のパン、果物やミルクも揃えなければならない。要するに、お茶会の準備なのだ。 僕がそう告げると、彼女は軽く目を見開き、まあ、と楽しげに呟いた。 「今夜、映画館前の喫茶店でお茶会があるんですよ。僕は、材料の買出しを頼まれているんです」 そうだったの、と頷いた彼女は、一瞬思案するように黙った後、胸の前で祈りを捧げる時のように両手を組み合わせた。 「ねえ、もし良かったら、私も招待していただけない? 構わないかしら?」 「ええ、もちろん。みんな歓迎します。開始は午前三時から、大抵そのまま夜明けまで続きますから、仮眠を取っておかれることをお勧めしますよ」 「午前三時? 午後じゃなくて?」 「ええ、午前三時。真夜中です。もちろん、ただの酔狂じゃありません。ちゃんとした理由があるんですが、今僕の口から説明することはできないんです」 神妙な面持ちで耳を傾けていた彼女は、ふと気遣わしげに眉根を寄せた。 「ひとつ、心配なことがあるの。お茶会には、あなたのお友達も来るのでしょう? 私が行けば、彼は嫌がるんじゃないかしら?」 再度目を丸くした僕に、彼女はこの前と同じ猫のような笑みを浮かべて見せた。 「ねえ、私はあなたたちの倍以上生きているのよ? 誰が自分を嫌っているかくらい、すぐに見抜けるわ。それで、クロイ、あなたはどう思う? 彼は私の出席を許してくれるかしら?」 僕は努めて軽く、大丈夫ですよ、と請合ってみせた。お茶会開始時間の二十分前に迎えに行くよう約束を交わし、これから帰ってシャツにアイロンをかけるのだという彼女を見送る。生まれて初めてのアイロンかけなのよ、とどこか嬉しそうなその後姿が野菜売り場の方へ消えた途端、僕は思わず知らず溜息を付いていた。彼女の懸念は僕の不安でもある。彼女を連れていけば、ディオスは間違いなくつむじを曲げるだろう。全く、目に浮かぶようだ。果物売り場を目指して歩きつつ、僕は胸の奥に小石のような気懸かりが、しこりとなって浮かぶのを感じていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |