「レディ・ダァリア」



 僕が深海を手探りするような心地でピアノの前まで辿りつき、丸椅子を引き寄せて腰を下ろすか下ろさないかの内に、ひとつ目の和音が、長く閉ざされていた家の僅かに埃っぽい空気を振動させた。楽譜は僕の膝に乗せたままだが、彼はそもそもそんなものを必要としていない。例え目を瞑っていたって、彼の指には些かの迷いもないはずだ。だからむしろ、これは僕にとってのお守りのようなものなのである。積み重なる和音は、否応無く僕の緊張を掻き立てる。さっきとはまた別の理由で跳ね上がり始めた心臓を宥めるため、僕は目を閉じた。

 以前、ディオスはある演奏家の手になるこの曲のレコードを聞かせてくれたことがある。彼が一時、ピアノ自体を頑なに拒むようになったのは、それからしばらく経ってからのことだったから、あれはまだ僕たちがこの街で暮らすようになって間もない頃のことだったのだと思う。どんな演奏だったのかは、もう覚えていない。ディオスがあのレコードをかけたのはたった一度きりで、しかもその後、僕には手も触れさせないほど大切にしていたそれを、彼は廃品回収で惜しげも無く別の品物と交換してしまったのだ。何故、と尋ねることはできなかったし、ましてや止めることもできなかった。その時にはもう、僕も彼が抱えざるを得なくなった欠損に気付いていたからだ。
 ディオスが代わりに手に入れたのは、砂時計だった。だから、砂時計は嫌いだという彼の言葉も、あながち出任せだとばかりは限らないのかもしれない。

 旋律が次第に緩やかになる。それにつれて、叩きつけるように硬質だった音もやがて穏やかになっていく。もうすぐだ。僕は閉じていた目を開け、鍵盤の位置を確認する。ディオスの十本の指が十個の音を踏みしめるようにして停止し、そして右手が鍵盤から静かに離れた。左手の残響を確かめながら、僕は慎重に、右手の中指を「ラ」の鍵盤に下ろした。これが僕の役割、彼が今日この場所に僕を伴った理由なのだ。
 長く尾を引く「ラ」の音の余韻が完全に遠ざかるのを待ってから、僕はそっと鍵盤から指先を引き剥がした。思わず吐息が零れる。たった一音を弾いただけだというのに、この疲労感はなんだろう。彼の補助役として、同じような局面に挑む度、僕はいつも自分は決してピアニストにはなれないと確信する。もう一度溜息を吐いた僕の肩を、労わるように軽くぽんと叩いて、ディオスは颯爽と立ち上がる。ふたり揃って、彼は板に付いた仕草で、僕は幾分ぎこちなく礼をすると、彼女は椅子から立ち上がって拍手を送ってくれた。
「たったひとりの観客だから、拍手喝采とまでは行かないけれど。でも、素晴らしかったわ。ピアノの調律が狂ってるってことを勘定に入れてもね。月並みな感想かしら」
 光栄です、とディオスはこの場所に来て以来、初めて屈託なく嬉しそうな笑顔を見せた。
「でも確かに、調律だけはお願いしたいですね。折角の名器に失礼だ」
「覚えておくわ。……ところで、今のは何ていう曲? 初めて聞いたわ」
「そうでしょうね。あなたと違って、それほど有名な曲じゃない。題名は」
 そこまで言って、ディオスは心持人の悪い笑みを浮かべた。
「葬送、です」

 彼女は目を見張り、次に呆れ果てたように両手を持ち上げてみせる。
「……それは、あまり歓迎向きの曲だとは思えないんだけれど?」
「でしょうね。数ある中から最も相応しくないであろう題名を選んだんですから」
 僕の手から楽譜を取り上げると、彼はそれを恭しく彼女に手渡した。
「又の名を、旅愁、とも言う。あるいは回顧だとか追想だとか、感傷的な名も持っている。道化と呼んだお調子者もいれば、昔日と名付けた詩人もいる。要するに、決まった題名はないんですよ。だから、誰もが己の好きなように呼ぶことができる。まあ、僕個人の意見を言わせてもらうならば、この曲に一番似つかわしいのは……」
 そこで、珍しくディオスは言葉に詰まった。未だ強張った指先を解しつつ、ちらりと様子を伺うと、饒舌に振り上げた片手を額の辺りで停止させたまま、驚いたような戸惑ったような表情を浮かべている。
「どうかした?」
 いえ、と小さく呟き、彼は気を取り直すように軽く頭を振った。
「……とにかく。ひとつの曲から、誰しもが同じ印象や感情を受け取ることなんて、本来あり得ないはずなんだ。つまり、全ては聞く者の主観次第、ということです。……どうです? この街にぴったりの曲だとは思いませんか?」
 彼女は怪訝そうに小首を傾げた。当然だろう。ディオスには、持って回った表現を好むという些か面倒な癖がある。不審げな彼女に、満足そうな表情を浮かべた彼は、唐突に僕の名前を呼んだ。
「クロイ、さっきの音をもう一回弾いてくれないか」 
「……え?」
「いいから、早く」
言われるままに、僕はさっきよりはいくらか乱雑に「ラ」の音を響かせる。僕の中指が叩いた鍵盤が、一度沈み込んでまた跳ね上がるのを、彼は注意深く見守っていた。僕は知っている。彼は、そんな風にしか、この音を捉えることができないのだ。
「ありがとう、クロイ。……さて、今彼に弾いてもらったのは“ラ”の音です。そうですよね?」
「そうね。音楽には詳しくないけれど、それくらいは私にも分かるわ。でも、それが何だって言うの?」
「この“ラ”の音が、僕のロストピースだ」

 ロストピース、とディオスが口にした途端、レディ・ダァリアの顔から全ての表情が仮面を剥ぐようにして零れ落ちた。息を呑んだ彼女に、ディオスは笑いながら軽く首を横に振ってみせる。
「そんな深刻な顔をしていただかなくても結構ですよ。僕は、単に事実を述べただけだ。それに僕の失った音は、必要とあらばこのクロイが補ってくれる。さっきみたいね。悲観すべきことなんて、何もない」
 確かに不便なことは認めますけどね、と彼は軽く肩を竦めた。
「何はともあれ、僕の耳は件の音を聞き取ることができないし、僕の指はかの音を奏でることができない。だから、さっきあなたが耳にしたこの曲と、僕が聞いていたこの曲とは全く異なっているというわけです。けれど、それは何も不思議なことじゃない。この街では、特にね。ここでは誰もが皆、欠けたピースを抱え、自分と他人とは違う世界を見ているのだということを、日々自覚しながら生きている。そうでしょう? ……さて、お近づきの印はこの程度で十分だ。僕たちはそろそろ失礼しますよ。ご機嫌よう、レディ」
 勝手に暇を告げた彼は、そのままさっさと歩み去る。その上、重いドアを派手な音を立てて引き開け、振り返りもせずに出て行ってしまった。全く、奔放にも程がある。せめて僕だけでもまともな挨拶をと彼女に向き直ってみたものの、言うべきことなど実は何も無いのだった。
「……コーヒーもお出しできなかったわ。御免なさいね」
「いえ、あの……彼はコーヒーが苦手で」
 意味の無いことを口走った僕に、それでも彼女はにっこりと微笑んでくれた。
「良かったら、また遊びにいらして。いつでも歓迎するわ。……そうそう、それまでにはピアノの調律も済ませておくからって、彼に伝えて」
 ありがとうございます、と辛うじて言葉にし、僕は深々と、友人の非礼を詫びる思いも込めて、頭を垂れた。

 玄関先まで彼女に見送られながら、僕はふとひとつの疑問を思い出した。
「あの……さっき、こんな風に仰いましたよね。僕たちは、この街最大の悲劇だって。あれは、どういう意味なんですか?」
 彼女は、何故か僅かに怯んだような表情を見せた。しかしそれはほんの一瞬で、僕に訝しむ隙さえ与えない内に消え失せた。
「……あなたは、自分のロストピースを知っているの?」
 逆に問い返されて、僕は戸惑いつつも首を横に振った。そう、と僕の返答を咀嚼するように呟いた後、彼女は不意に思わず見とれるほど艶やかな笑みを浮かべた。
「私のロストピースもまだ見つかっていないのよ。私たちは同士ってわけだわ。どうぞよろしく、クロイ」

 とうに帰ってしまったものだと思っていたディオスは、玄関扉前の階段に、仏頂面で座り込んでいた。僕が駆け寄ると、無言のまま先に立って歩き出す。何かが彼の機嫌を損ねたらしいことは分かったが、けれどもその理由には見当がつかなかった。もともと、彼の気分は猫の目よりも気紛れだ。結局、僕たちの家に帰り着くまで、彼は一言も口を聞かなかった。
 上着のポケットから取り出した鍵を錠前に差し込んだディオスは、数時間前と同じような調子で、あ、と小さく声を上げた。
「今度はなんだい?」
「……ボタンがない」
 彼の手元を覗き込むと、確かに上着の袖口に留め付けられていた薔薇を象ったボタンが見当たらない。
「どこかで落としたのかい?」
「いや、気付かなかった」
 困惑したように見返してくる彼に、それは不思議だなと軽く答える。実際のところ僕は、彼の当惑などほとんど気にしていなかったのだ。突然降って湧いた謎が、彼の不機嫌を一時的にせよ脇へ追いやったのを見て、僕はここぞとばかりに彼女からの言伝を披露することにした。
「レディ・ダァリアから君に伝言だ。ピアノの調節は済ませておくから、また遊びにいらっしゃい、だってさ」
 その時彼が見せた反応は、僕にとって少々意外なものだった。かの楽器に、肉親に対するそれと遜色ないほどの愛情を注いでいる彼のことだ、彼女の申し出は朗報に違いない。しかしディオスは、眉間に皺を寄せて小さく鼻を鳴らした切り、何の感想も返さない。
「どうしたんだい? またあのピアノが弾けるんだ、君はもっと喜ぶかと思った」
 それは大歓迎さ、と相変わらず顰め面のまま、彼は渋々といった風に認めた。
「でも……、彼女にはあまり会いたくないな」
 どうして、と弾かれたような僕の反駁は、そんなことよりさ、と即座に覆い被せるような彼の質問に掻き消された。
「彼女は、君に何も言わなかったろうね? 例えば……ロストピースについて」
 これはさっきの彼女と同じ手口だ。僕はすっかり臍を曲げて口を噤んだ。そこには、彼が彼女に対して見せた棘への抗議も含まれていたのかもしれない。しかしディオスは、僕の沈黙を肯定と受け止めたらしい。
「そうか。それなら、いいんだ」
 あからさまに安堵したような彼の様子に、僕は今更ながらに事実を伝えることなどできなくなった。そればかりか、ディオスは新たな疑問を跳ね除けるかのように背中を向けてしまう。
「鏡にボタンにパズルのピース、か。この街には、失くし物が多すぎるな」
 聞き慣れたはずの彼の口癖が、この時は何故か悲哀を帯びて響いた。



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