「レディ・ダァリア」 ![]() ![]() ![]() ![]() 案の定、レディ・ダァリアの姿を認めたディオスは、あからさまに機嫌を悪くした。 僕が彼女を伴って喫茶店を訪れた時、彼は狭いカウンターの奥で、コーヒー豆を挽く作業に没頭していた。あんな苦いものは口に合わない、などと普段は毛嫌いしている癖に、豆を挽く時に立ち上る香りは好きなのだと言うから勝手なものだ。ドアベルの音に顔を上げた彼は、多分「やあ」とでも言おうとしたのだろう、軽く片手を上げかけたが、続けて現れた彼女に気付くと、中途半端な姿勢でぴたりと動きを止めた。見る間に表情が険しくなる。やはり、と内心うんざりした思いを押し隠し、既に人の集まり始めたテーブルの方へ彼女を促すと、咎めるような視線と向き合った。 「クロイ、君が呼んだんだな」 疑問ではなく断定だ。正しくは、僕が招待したわけではなく彼女からの申し出を了承しただけなのだが、そんな些細な相違を主張したところで、焼け石に水だということはよく分かっている。弁解は諦め、黙ることにした僕に向けられる彼の視線は余計に硬度を増したようで、もはや咎めるというより睨み付けると言った方が正しいかもしれない。思いがけない華やかな来客に、歓声の上がる店内を横目で見ながら、僕はカウンター越しに身を乗り出し、なんとか彼を宥めようと試みた。 「ねえ、ディオス。君が彼女と顔を合わせたくないことは僕も知ってるよ。でもね、他の人たちはみんな彼女を歓迎してる」 ほら、と片手を振って示して見せた僕の仕草を撥ね付けるようにそっぽを向き、分かってる、と彼は不服そうな小声で答えた。石蹴りをする子どものように爪先を床に打ちつけ、分かってるよ、と繰り返す。 「君の言う通り、彼女は歓迎すべき特別なお客だ。なぜなら」 いかにも不本意、といった風に、彼はそこで一旦言葉を切った。 「なぜなら、何だよ?」 「ああ。……見てご覧よ」 ディオスが指し示した先、古いオルガンが置かれた前で、ちょうど彼女が喫茶店の主に挨拶をしているところだった。この定期的に開かれる真夜中のお茶会の主催者でもある店主は、彼女が差し出した右手を恭しく両手で握り、額を押し付けんばかりに深く頭を垂れている。彼女が何事かにこやかに話しかけているが、感に堪えないといった面持ちでただただ頷くばかりだ。どうやら、言葉も出ないらしい。あの人は若い頃から彼女の熱烈な信奉者なんだよ、とカウンターに頬杖をついたディオスが説明する。 「まあ……僕ひとりが駄々を捏ねたところで始まらない、か」 観念したように呟くと、彼は突然丸めていた背をしゃんと伸ばした。胸を反らすようにしながら、笑いさざめく人々の元へ大股で歩み寄っていく。僕は慌てて後を追った。彼のことだ、きっと一矢報いずには気が済まないだろう。 僕たちを迎えた彼女は、スカートを軽くつまんで優雅に礼をして見せた。昼間と同じ格好に薄手のショールをふわりと纏い、ゆるく束ねた髪をコサージュで飾っている。 「今宵はお招きに与り光栄ですわ」 僕たちふたりの顔を等分に見比べ、完璧に整った笑顔を浮かべて見せる。どういたしまして、と応じるディオスの言葉は一切感情を殺した棒読みで、いかにも下手な台詞のようだったが、しかし彼女は彼の不機嫌さをむしろ面白がってさえいるようである。 「いいんですか? 女優がこんな時間にお茶なんて召し上がって。夜更かしは美容の大敵でしょう?」 「いいのよ。この街での私は女優なんかじゃないもの。そもそも、あなたがそう言ったんじゃなくって、ディオス?」 小鳥のようにあどけない仕草で小首を傾げる彼女に、ディオスは何か言い返そうとして、結局は口を噤んだ。口ばかり無駄に達者な彼が、返答に窮する場面など、そうそうは無い。僕も含め、周囲の人々が興味津々で成り行きを見守る中、ディオスはどうぞごゆっくり、とだけ言い残し、元の持ち場へ帰って行った。どうやら彼女の貫禄勝ちのようだ。捨て台詞にしか聞こえなかったな、と僕は苦笑交じりに考える。 午前三時のお茶会は、店主自らひとりひとりに手渡して回るコーヒーカップを、皆が無言で掲げる乾杯の儀式から幕を開ける。いつもと同じように恐る恐るといった風情で一口飲んで、ディオスは美味しい、と呟いた。耳聡く聞きつけた店主が、大げさに驚いた素振りで声を掛ける。 「どうした、やっとこの味が分かるようになったか? それとも、風邪でもひいてるのかい?」 ディオスは、思わず零れた失言を取り繕おうとでもするように、憮然として早口になる。 「……別に。最近、クロイがコーヒーばかり淹れるもんだから、慣れただけだよ」 「そうかい? でも、うちのコーヒーが美味いと思えるようになったら一人前だ。口だけでなく、味覚の方もな」 クロイに感謝するんだな、と付け加えつつ、店主がディオスの髪を幼い子どもにするようにくしゃくしゃと掻き回すと、店内にどっと笑い声が巻き起こった。ディオスは心外そうに何事か反論しかけるも、すぐ諦めたようにカップを口元へ運んだ。彼が言いかけたことを途中で引っ込めるのは、今日これで二度目だ。珍しいこともあるものだと思い、ひょっとするとレディ・ダァリアの存在が幾らかでも彼を掻き乱しているのかもしれないと、僕は勘繰ってみる。 さざなみが遠ざかるようにして再び店内に静けさが戻ってくるのと入れ違いに、雨音が聞こえてきた。夕方にラジオで聞いた天気予報では、雨が降るなどとは一言も言っていなかったはずだ。僕はふと思いついて、わざと意地悪くディオスに向かって嘆いて見せた。 「ほら、君が珍しいことを言うから雨まで降ってきたじゃないか」 僕のせいにするなよ、とディオスは今度こそ本気で怒ったような顔になり、音高く椅子を蹴り上げるようにして立ち去ってしまった。彼の背中を見送りつつ、冗談が過ぎたかもしれない、と僕は途端に後悔する。やれやれ、と溜息を吐いた店主は、軽く僕の肩を叩くとオルガンの方へ歩み去って行った。 「おい、ディオス。そろそろピアニストの出番じゃないのかい?」 声を掛ける店主の語尾をかき消すように、乱雑な和音が店内に響き渡る。テンポも強弱もまるで無視した、彼らしくもない無造作な演奏だ。どうやら、僕は相当に彼を立腹させてしまったらしい。他のお客たちがコーヒーカップを片手にオルガンの周りへ集い始めるのをよそに、僕は少し離れた席に腰を下ろし、尖った音色に耳を澄ませた。 ディオスと生活を共にし、そしてその演奏に日々耳を傾ける内、僕は次第にピアノの音から彼の感情を読み取ることができるようになっていった。いや、能弁なディオスは自身の胸の内ですら言葉巧みに誤魔化してしまうから、彼の心情を推し量るには、むしろ面と向かって顔色を伺うよりも確実な方法かもしれないと思う。ピアノは正直だ。苛立ちや不安や恐れやその他諸々の、彼がひた隠しにしようとする心の揺れさえ、鍵盤は嘘を吐かず奏でてしまう。 真夜中のお茶会ではいつものことだが、お客たちはお酒が入っているわけでもないのに皆至極陽気で朗らかだ。オルガンの伴奏に合わせて、誰もが思い思いに多少調子っぱずれな歌声を張り上げ、手を打ち鳴らしている。僕は静かに席を立つと、他の人々には気付かれないよう、二階へと続く階段へ向かった。店内に満ち溢れる楽しげな空気に合わせて、オルガンからも浮き立つように軽快なメロディが流れている。取り囲む人々の間には、笑い声が絶えない。階段の中程で一度足を止め、振り返ってみたけれども、ディオスの表情を確かめることはできなかった。 明かりも灯されていない二階は、階下の賑わいが嘘のように森閑としている。この喫茶店の、道を挟んだ向かい側にある日干しレンガのように白茶けた外壁の建物が、この街唯一の映画館だ。晴れた日の午後には、一様に高揚した面持ちで帰途に着く人々をバルコニーの席から眺めながら、彼らが鑑賞したであろう映画のあらすじを勝手に想像しては披露し合うのが、僕とディオスにとっては娯楽のひとつになっていた。 囁くような雨音に誘われて、ガラス戸から外に出た僕は、そこで思いがけない先客と遭遇した。まるで祈りでも捧げるかのように両掌を組み合わせて目を伏せ、レディ・ダァリアがそこに佇んでいた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |