「レディ・ダァリア」



 無人の家というものは、どことは無しにうら寂しいものだ。気配だけで、住人の不在を伝えてくる。それが再び主を得ると、また途端に息を吹き返すのだから不思議だと思う。レディ・ダァリアの新しい住処となった、小さくはあるが豪奢な洋館を見上げ、僕はしばしそんな感慨に耽った。
 呼び鈴を鳴らそうとして、僕は躊躇った。この扉の向こうには、「彼女」がいる。高名な女優を前にして、一体どんな風に口を切れば良いものかとんと見当が付かないということに、今更ながら気付いたのだ。思わず助けを求めるように背後のディオスを見やるが、彼は素知らぬ顔でそっぽを向いている。多分、彼も緊張しているのだと思う。一見、遠慮とも物怖じとも縁がないようでいて、その実彼は案外と人見知りなのだ。
 仕方無しに意を決し、呼び鈴に手を伸ばしたのとほぼ同時に、鍵が回る重い金属音が家の内側から響いた。驚いた拍子に僕は数歩よろめいて後じさり、ディオスに半ばぶつかるようにして立ち止まる。慌てて謝罪の言葉を呟きながら頭だけを振り向かせた、その時だ。
 古い木材の軋みと共に、目眩を誘いそうな程濃厚な香りが鼻先を掠めた。僕とディオスは一瞬目を見合わせた後、その香りを辿り、そして揃って身を硬くした。そこには、「彼女」が立っていた。そしてその右手には、短剣が握られていたのだ。

 微動だにできない僕たちをしげしげと観察した後、彼女はやおら短剣を両手で空へと掲げ、よく通る声でなにやら不思議な響きの言葉を唱えた。仰向けていた顔を僕たちの方へ向け直した時、彼女の唇には淡い笑みが浮かんでいた。
「“私にはもはや、歌うことしか許されない”。悲劇の王女が、己の罪を懺悔する鎮魂歌よ。歌い終わった彼女は、その短剣で自ら命を絶つの」
 彼女はそう言うと、反り返った刃を細い指先でついとなぞった。呆気に取られたままの僕たちを、面白そうに眺めている。
「とにかく中に入ったらいかが? 確かに私は我侭な女優だったけれど、折角訪ねてくれたお客を門前払いするほど傲慢じゃあないわ。……ああ、言い忘れていたわ。これは舞台用の小道具よ。本物じゃないわ。だから、安心して」

 室内は薄暗かった。それでもディオスは、お目当てのピアノを目ざとく見つけたらしく、僕の腕を軽く叩いた。ほらあそこに、と嬉々として指差されても、薄闇に慣れない僕の目には、少しばかり闇の色が濃く映るだけでそこにあるものまでは見分けられない。照明の調子が悪いのよ、と前方から彼女の声が届く。
「何度電球を取り替えても駄目なの。まあ、もう化粧する必要もないし、それほど困りもしないけれど」
 好奇の目で辺りを見渡していたディオスは、やがて僅かに意地の悪い微笑を浮かべた。
「なるほどね。確かに、鏡がない」
 顔は僕の方へ向けられていたものの、聞こえよがしな彼の声は彼女にも届いたらしい。豊かに波打つ髪を翻すようにして、彼女が振り返る。作り物めいて長い睫毛に縁取られたアーモンド型の瞳に見据えられ、僕は途端に鼓動が早くなるのを感じた。光量の乏しい室内では判然としないが、幼い頃に映画館のポスターで見た彼女の瞳は、燃えるように鮮やかな色をしていた。その鮮烈な瞳が、今こちらを凝視しているのだ。しかしディオスは、舞い上がる僕を尻目に、憎らしいほど平然としている。
「……面白いですね」
「あら、なにが?」
「鏡を持たない女優なんて、トランプをなくした手品師のようなものじゃないですか? ……いや、あなたはもう、“元女優”だったんでしたっけね」
 初対面の挨拶にしては不躾すぎるディオスの発言にも、彼女はまるで動じなかった。軽く肩を竦めただけで、手近の小机に投げ出されていた煙草の箱を手に取る。
「ああ、そういえば、まだ名乗ってさえいませんでしたね。僕たちは……」
「ディオスとクロイ、でしょう? ねえ、あなたたち本当によく似てるわね。どちらがディオスでどちらがクロイなの?」
 機先を制されて、さすがのディオスもぽかんと口を開けた。しかし、すぐさま鋭い声音で聞き返す。
「どうして僕らのことを?」
「そりゃあ、知ってるわよ。あなたたちのことは、新参者の私でさえ耳にするくらい、この街中に知れ渡っているもの。彼らの存在は、この街における最大の悲劇だ……ってね」
 煙草を一本抜き取り、唇に挟む途中で、彼女は艶やかな瞳を細めた。まるで、獲物を見つけた猫のような目だ、と思う。
「そんな顔しなくても大丈夫よ。私だってこの町のルールくらい弁えてるわ」
 揺り椅子を引き寄せて腰を下ろすと、彼女は悠然と足を組んでマッチを擦る。しかし、中々火が点かないらしい。十本近くを無駄にした挙句、眉を顰めながら溜息を吐き、マッチの箱を放り出した。
「ねえ、あなた。まさか、マッチなんて持ってないわよね?」
 隣で、ディオスが深呼吸する気配が伝わる。やがて口を開いた彼の声は、いつもと同じ人を喰ったように軽快な調子を取り戻していた。
「残念ながらマッチは持ち合わせがありませんが。でも、ささやかな歓迎の印ならば、お持ちしましたよ」
「それは光栄だわ。もし煙草以上の暇つぶしを提供してくれたなら、コーヒーぐらいはご馳走するわよ?」
 芝居がかったやり取りも、この空間の中では何故か違和感がない。僕はひとり、異国の劇場に迷い込んだ迂闊な観光客のような居心地の悪さを味わっていた。クロイ、と促すようなディオスの声が聞こえなければ、いっそこのまま踵を返してしまおうかと思ったくらいだ。
「しばらくの間ピアノを拝借しますよ。クロイ、もうひとつ椅子を」



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