「レディ・ダァリア」 ![]() ![]() ![]() ![]() 銀幕の彼女は、砂漠に生まれた悲劇の王女だった。 絶えざる戦争と侵略に脅かされ、王女と彼女の民は己が国を追われる身となる。いつ終わるとも知れぬ放浪の末、やっとの思いで帰還を果たした彼らを待ち受けていたのは、完膚なきまでに破壊され尽くした祖国の姿だった。 ある満月の夜に王女は、かつて王宮の建っていた場所を目指す。瓦礫ばかりが残る中、そこだけ瑞々しい草花が生い茂る一郭で、彼女は一輪の花を見つける。夜露に濡れる花弁を前に跪いた王女は、かつて己が犯した罪をその花に告白するのだ。自分はかつて、心奪われた男の命とこの国の行く末とを秤にかけたのだと。その時己が下した結論が、故郷を滅ぼしたのだと。そして、それほどまでにして愛した人も、もはやこの世の者ではないのだと。 彼女は歌い、踊る。奪われた歳月と、喪った祖国と、失われた命の全てに捧げる鎮魂歌だ。そしてそれは、決して消えぬ悔恨と傷とを抉る、正に血を吐くような絶唱でもある。歌い終え、踊り終えた彼女は、父王の形見である短剣で、自ら命を絶つ。『レディ・ダァリア』、かの女優の代名詞ともなった歌劇は、こうして結末を迎えるのだ。 映画館を出る頃には、西の空一面に目の覚めるような夕焼けが広がっているだろう。一歩外に出た僕は、暗がりに馴染んでしまった目を眩しさに瞬きながら呟くのだ。何度見ても彼女は綺麗だな。君もそう思うだろう? 隣を歩く友人に同意を求めれば、彼はきっといつもと変わらぬわざと皮肉気な口調で応じるに違いない。そりゃあそうさ、死者は歳を取らないからね。それはもう、僕たちにとって感想の交換というよりもむしろ挨拶のような遣り取りなのだ。異国の言葉で繰り広げられる台詞の数々を、意味は正確に理解できないまでも諳んじることが出来るほど、僕たちは繰り返し彼女に会いに行っていたのだから。 彼女がこの街で過ごした、瞬きするほどに短い時間は、あるいは幕間劇のようなものだったのかもしれないと、僕は思うことがある。そうだとしたら僕の役回りは間違いなく道化だろうね、と言って友人は笑う。伴奏者兼、道化だ。そしてふと真面目な顔になり、ところで君の役割はなんだったんだろうね、と問いかける。僕は首を横に振り、分からないよ、と答える。あれが悲劇だったのか喜劇だったのか、それさえも僕には分からないのだ。 でもきっと、初めの台詞はこうだ。僕自身が口にしたのだから、間違いがない。「彼女の家には、鏡がないらしい」……。 彼女の家には、鏡がないらしい。僕がそう言い終わったのと、机の上でティーカップがひっくり返ったのはほぼ同時だった。 あ、と小さく声を上げ、ディオスは広げていた楽譜を慌てて手に取る。しかし時既に遅く、ほんの数十分前に彼が持って帰ってきたばかりの新譜には、淡い色のしみが見る間に広がっていた。ああ、と今度は長く息を漏らし、彼は布巾を探して台所に立った。何事にもそつのない彼だが、時折こんなそそっかしい一面を見せることがある。 彼が戻ってくるのを待って、僕はもう一度口を開いた。 「彼女の家には、鏡がないそうなんだ」 「彼女って?」 「だからさ、さっき説明したじゃないか。昨日この町に来た新しい住人だよ。レディ・ダァリア、有名な女優だ」 「有名な女優だった、だろう? どんな華麗な過去があるにせよ、ここじゃあみんな同じ穴の狢さ」 ティーポットの蓋を開けたディオスは、なんだ空か、と呟いた。何か言いたげにこちらを見遣る彼に、僕は首を振って見せる。 「茶葉が切れてるんだよ。さっきので最後だ」 ふうん、と器用に片眉だけを吊り上げてみせ、彼は奇妙なものでも見たように首を傾げた。 「珍しいね。君がお茶の用意を欠かすなんてさ」 「うっかりしてたんだよ。今度ちゃんと買っておくから。……それより、さ」 ティーポットを押しのけ、僕は軽く身を乗り出した。 「どうして、彼女の家には鏡がないんだと思う?」 ディオスは、この街での僕の同居人だ。年は僕と同じで、おまけに背格好も似通っているらしく、ここへ来たばかりの頃にはお互いによく取り違えられたものである。けれども、彼と僕の間には、それほど頻繁に人違いをされるほどの共通項など見当たらない。少なくとも、僕はそう思う。彼は僕の持っていない才能……聡明な頭脳だとか、並外れたピアノの腕前だとか、矢鱈な饒舌さだとか、を履き古した運動靴の如き自然さで身に纏っているのだ。僕にある資質で、彼に備わっていないものといえば、美味しいお茶の淹れ方くらいのものだろう。 実際、彼は僕が何度手順を伝授しようとしても、一向に覚えようとしないのだ。お湯を沸かす、茶器を温める、茶葉を量る、熱湯を注いで砂時計で丁寧に時間を計る、というただそれだけの過程は、五線譜や演奏記号に比べれば単純明快であるはずなのだが、彼はまるで超人的な装飾音符に出会ったかのように途方に暮れた顔を見せるのだ。僕は砂時計が嫌いなんだよ、などともっともらしく理由を付けたりもする。けれども実のところ彼は、僕の数少ない役割を尊重しようとしてくれているだけなのかもしれない。 洞察力に優れた我が友人ならば、この街に新しく降って沸いた小さな謎に、思わず膝を打つような解答を導き出してくれるかもしれない。少なからず期待していた僕に返された彼の答えは、しかし肩透かしを喰うほど呆気なく、かつ素っ気ないものだった。 「……割れたんだろう?」 それだけの言葉を、これ以上ないほど面倒くさそうに投げ出すと、彼は濡れた楽譜のページを慎重に開く作業に取り掛かった。耳を貸すどころか、こちらを見ようともしない。僕は、椅子から身を浮かせるようにして、更に言い募る。 「だけど、割れたにせよどうして新しいものを用意しなかったんだ? 新しい住人が決まったら、住み心地を整えて歓迎するのがこの街のしきたりじゃないか。この家の時だってそうだ。 君のために、わざわざピアノまで調達してくれたろう?」 「そして君のためには大舞踏会のお客でも招待できそうなティーセット一式、だったね。おかげで当分お茶の用意には困らずに済んだけれど、コーヒー豆だけは余計だったな。あんな苦いものは、僕の口に合わない」 いつものことながらディオスの言葉には淀みが無い。けれども、それはいわば彼がよく見せる架空の鍵盤を指先でなぞる無意識の仕草とさして変わらないのだ。彼の頭脳は確かに優秀だが、しかしそれを充分に補って吝嗇だ、と僕は酷く意地の悪いことを考える。そんな思いは、言葉に出さずとも聡い彼には伝わったのだろう。訝しげに眉を寄せて一度顔を上げたが、すぐまた興味を無くしたように楽譜へ視線を戻す。全く、彼の意識を新譜から逸らすには、世界が滅亡したってまだ足らないだろう。僕の不機嫌程度では、到底太刀打ちできるものではない。そういえば、さっきディオスが話題にしていたコーヒー豆は、処分してしまうことも出来ずに戸棚の奥にしまい込んだままだ。これからしばらくは、彼が何と言おうと三時にはコーヒーを淹れよう。お茶の時間だけは、絶対不可侵なる僕の領分だ。文句など言わせない。密かな決意を胸に、僕は後片付けのため席を立とうとした。 「あのピアノ……」 白昼夢の寝言のように曖昧な呟きが耳に入って、僕は浮かせかけた腰をもう一度椅子に戻した。 「ピアノがどうかしたのか?」 僕の問いには直接答えず、ディオスは何か思い出そうとするように右の拳を唇に当てて俯いた。 「その元女優が住んでる家は、時計屋の斜向かいだって言ったっけ?」 「そう。薬局の隣だよ」 「じゃあ、本屋の三軒隣か。そうか……」 膝小僧の辺りに目を凝らすようにして、しばし考え込んだ彼は、やがて無言のまま立ち上がり、奥の部屋に引っ込んだ。数分後に再び姿を現した時、ディオスは彼が言うところの「一張羅」、出鱈目な模様と色が飛び散った、なんとも派手な上着を片手に提げていた。もう片方の手には、変色した古い楽譜を持っている。 「さあ、行くよ」 「行く……って、どこへ?」 「決まってるだろう? 麗しのレディの元へ、ご挨拶に伺うんだよ」 そう言うと彼は、楽譜を持った方の手を胸元に当て、わざとらしく気取ったお辞儀をして見せた。その芝居がかった仕草に、僕は溜息を吐く。 「出かけるんなら、ついでにレダさんのところへ寄ってきてくれないか? 目覚まし時計の修理を頼んでいたんだ」 「なに他人事みたいに言ってるんだ。君にも来てもらわなくちゃ困るんだよ、クロイ」 彼が大げさに両腕を広げて見せた時、手にしていた楽譜の表紙がこちらを向き、僕は思わず身構える。あの曲を弾くつもりなら、確かに僕もついていく必要がある。 「彼女が住むことになったあの家にはね、年代物のグランドピアノが置いてあるんだ。あれは一級品だよ。誰も弾かないまま放っておくなんて、勿体ない限りだ」 ディオスは、椅子の背にまるで音階でも辿るかのように指先を走らせた。 「高名な女優をこの街へお迎えするんだ、それ相応のもてなしをしなくちゃあね。そういうわけだから、クロイ、君の出番というわけだ」 僕は黙って頷いた。微かに笑った彼は、楽譜を無造作に僕へ投げ渡すと、一足先に冷えた外気の中へ意気揚々と出て行った。 ![]() ![]() ![]() ![]() 進む→ 創作品へ 入り口へ |