「ラザニア」



 * 都会でキリンに会う方法 *

  バー・ラザニアの、夜は早い。
 「夜は早い」などという言い方は、あるいは正しくないのかもしれない。けれど、実感としてそう表現する他ないのだから、多少の文法的誤りは、どうか大目に見ていただきたい。なにせ、夕方と呼ぶにも気が早いような時刻から、既に店は開いているのだ。そして、これからネオン看板が本領を発揮する、という時間帯には既に全ての客が家路についている。この、店を出る時に客たちが見せる息の合い方といったら、全くもって見事なものだ。まるで誰かが合図でもしているかのようだが、そういうわけでもなく、これはひとえに経験と年の功が成せる業、らしい。新参者で、おまけに若輩者の僕などは、いつも一呼吸遅れる羽目になる。
 バー・ラザニアの、夜は早く、そして短い。こう言った方が、しっくり来るかもしれない。

 とにかく、風変わりな店なのである。客たちやマスターとすっかり顔見知りになってしまった今でさえ、掴み所のない不思議な場所なのであることに変わりはない。どこがどう風変わりなのか、何をもって不思議と呼ぶのか、言葉で説明するのは単純なようで難しい。だから、僕が初めてこの店を訪れた時のことを、話そうと思う。あれは去年の十一月、街を行く女子高生たちの首元に、色とりどりのマフラーがはためきだした頃のことだ。あの日、鈍色をした空の下で、僕は途方に暮れていた。

 浦島太郎の物語を思い浮かべていただきたい。龍宮城で面白可笑しく過ごして、帰ってきてみれば世界は自分ひとりを残して様変わりしてしまっている。龍宮城からの帰還を休暇明けの出勤に、一変した世界を目の前に広がる更地に置き換えれば、僕がその時置かれていた状況に、実にぴったり当てはまるというものだ。最も、僕の前には玉手箱など用意されていなかったけれど。
 簡単に言ってしまえば、僕は勤め先に夜逃げされてしまったのだ。建物社員もろとも、手品のように消え失せていた。思っていたよりも狭い会社跡の空き地には、サーカスの一座がテントを畳んで次の巡業地に移ってしまった後のような雰囲気が漂っていた。祭りの後をぽかんと見つめる僕は、さしずめ役立たずのレッテルを貼られて置き去りにされた道化師といった役どころだろうか。悪い冗談のようだが、笑うに笑えない。

 そんなわけで、僕は突如として失業中の身分となったわけである。幸いにもすぐさま生活に困るということはないものの、だからといって楽天的に構えているわけにもいかなかった。真っ直ぐ家に帰る気には到底なれなかったし、かといって就職情報誌を探しに本屋へ駆け込めるだけの行動力もない。結局僕は、群れからはぐれた回遊魚のように街をふらふらと歩き回った。ひたすら歩き続け、さすがに疲れ切って足が停まった頃、辺りにはいつの間にか濃い夕闇が立ち込めていた。何時間彷徨い続けていたのかも分からない。立ち止まってみると、自分がひどく空腹だということに思い至った。なにせ、朝家を出たきり昼食も取っていないのである。
 さてさて、どうしましょうねえ、と道化師らしくおどけた口調で小さく呟いて、何気なく視線を流したその先に、あの看板はあったのである。意匠といい色の剥げ加減といい、相当に年季の入ったその看板には、流麗な飾り文字で、一言こう記されていた。「ラザニア」と。
 早々に明りを灯したというよりも、昨晩から消し忘れているかのような風情のネオンが、その時の僕の目にはちょうどよい温かさに映った。

 薄っぺらく見えた扉は、外見に反してひどく重い。肩で押すようにしてやっと開けると、ころころとくぐもった音が頭上で鳴った。なんの音だろう、と見上げようとした矢先、店内から大声で呼びかけられた。
「やあ、ジローラモ! ジローラモじゃないか!」
 僕は慌てて扉の前から退いた。てっきり、後ろから新しい客が入ってきたのだと思ったのである。しかし、振り向いてみてもそこには誰もいない。
「ジローラモ! ジローラモだろう? ほら、なにをそんな呆けた顔をしている?」
 大げさな身振りで立ち上がったのは、洒落たベレー帽をかぶった老人だった。もう一度背後を確かめてみるが、やはり人影はない。ということは、呼びかけられているのは僕なのか? 戸惑っている内に、ぱっと見画家風の格好をした老人は大股で近付いてくると、僕の両肩を力強くばんばんと叩いた。
「久しぶりだなあ。この前会ったのは、お前たち家族がまだイタリアに住んでいた頃だったなあ?」
 イタリア、と言う言葉を聞いて、僕は思わず老人の顔をまじまじと凝視してしまった。実を言うと……などともったいぶるほどのことでもないが、僕の祖母はイタリア出身の女性だったのである。しかし孫の僕自身はというと、南ヨーロッパの風貌などどこへやら、黙っていれば先祖代々生粋の東洋人といった外見なのだ。だから、見た目からのみ僕とイタリアの関連性を見抜くことは難しいだろう。ということはやはり、この老人と僕とはいつかどこかで関わりを持ったということなのか。
 などと考えを巡らせている間も、老人は快調に軽快に喋り続けている。機関銃どころか、掃討射撃を三倍速で繰り広げるくらいの勢いである。口を挟む隙はおろか、相槌を打つ暇さえない。困惑を通り越してもはや混乱している僕を尻目に、老人は立ち話もなんだからまあ座ろうじゃないかと勝手に取り決めている。立ち話も何も、彼が一方的に捲し上げていただけなのだが、しかしもちろん、そんな反論などできようはずもなかった。

 ベレー帽の老人に招かれた奥のテーブルには、既に彼と同年輩らしき客たちが数人座っていた。お邪魔します、と小声で挨拶すると、皆妙に人懐っこい笑顔で迎え入れてくれた。この店はコーヒーが美味いんだよ、などと言いながら、僕の分の注文までてきぱきと手配する。しかし、ここはバーではなかったのか。
 やがて運ばれてきたコーヒーは、僕の口には少々酸味が強かったものの、香り高い逸品だった。一口二口啜る内に、絡まった糸玉のようだった頭の中も、するすると解れていくような気がする。僕はようやくそこで、朝から出会った幾つもの衝撃を、大きな溜息に変えて吐き出した。
「そういえば」
 僕の向かいに座っていた、客が、ふと思い出したといった風に口を開いた。これから明日の天気の話でも始めようかという、さり気ない切り出し方だった。
「この間、渋谷でキリンに会った」

 キリン、である。辛うじて驚きの声を上げることは免れたが、僕は恐らくあからさまに呆気に取られた顔をしていたのだろう。件の客の目に、一瞬ちらりと笑みの影が横切った……ような気がした。それにしても、なぜ皆こんなにも落ち着いているのだ。くどいようだが、ことはキリンなのである。キリンだというのに、どうして平気な顔でコーヒーなど飲んでいられるのだろう。
「で、そのキリンは渋谷なんぞで何をしていたんだ?」
「人を待っているんだと言っていたな。もうずい分長い間待ち続けているそうだ」
「ほう。なにか、約束でもあったのか」
 らしいな、と答えた客は、そこでなぜかしばし考え込むような素振りを見せた。
「……ある冬の朝のことだったらしい。件のキリンが高田馬場辺りを散歩していると、道端に若い女性がうずくまっている。おやお嬢さんどうなさいましたかとキリンが声を掛けてみれば、彼女はうっかり転んだ拍子に財布を溝に落としてしまったらしいんだよ。これから、大切な用事で人と会うために新宿まで行かなければいけないのに、電車賃がない。今から家まで戻っていたのでは、時間に遅れてしまう。どうしたものかと考えあぐねていたところに、たまたまキリンが通りかかった。事情を聞いたキリンは、それなら私が新宿まで送りましょうと申し出た。親切な性格だったんだな。キリンは彼女を背中に乗せ、走りに走った。キリンというのは、実はなかなか足が速いんだ。なにせ、あの足の長さだからな。あれよあれよという間に、もしかしたら電車よりも早く、目的地の新宿に着くことができた。そして女性は心から感謝して、いつか必ずこのお礼をさせて下さいと、キリンに約束の日と待ち合わせ場所を書きつけた紙を渡して去っていったそうだ」
 ドラマチックな話だな、と僕の隣に座った客が鹿爪らしい顔で感想を述べた。話し手の客も、至極真面目な顔で頷く。
「しかし、その女性はなぜいつまでたってもやって来ない? 約束の日があったんだろう?」
「ああ。私も不思議に思って、キリンが大事に持っていた書きつけを見せてもらったんだがな。……いや、どれだけ待っても来ないはずだ」
「なんだ? 何が書いてあった?」
「その紙にはな、“二月三十日に、渋谷でお会いしましょう”と、そう記してあったんだよ。二月三十日だなんて、来るはずがないだろう。ただ勘違いしただけなのか故意になのか、その女性の胸の内など他人が推測したところで詮無いことだが、しかしそれにしたってな。いっそのこと、キリンに本当のことを教えてやろうかとも思ったんだが……」
「教えなかったのか?」
「教えられなかったんだ。あのキリンはな、今でもかの女性を無邪気に待ち続けているんだ。いつか会える、きっと会えると信じてな。あんたも、一度渋谷に行って、キリンに会ってみれば分かる。その女性はきっと来ませんよなんて、言えなくなるだろうさ」
 語り手の客が口を閉じると、テーブルに沈黙が落ちた。皆、今聞いた話を静かに咀嚼しているようだ。僕も、黙って渋谷に立つキリンを想像して……。
 ……いや、違うのだ。しんみりしている場合ではない。そもそも、東京の街中にキリンなどいるはずがないのだ。こんな話は、今でっちあげた法螺に違いない。それなのになぜ僕は真剣に拝聴し、あまつさえキリンに同情などしているのだ。しかし、僕の脳裏には、立ち尽くす都会のキリンの姿が焼き付けられてしまっていた。背の高いキリンは、雑踏の中でも恐ろしく目立つことだろう。渋谷の人ごみの中、ぽつねんと立つキリン。来るはずのない彼女を待って、時々あの長い睫毛の目を瞬かせているキリン。そんな風景を思い浮かべている内になんだか悲しいような気分になった僕は、コーヒーカップに視線を落とし、意味もなく手の中でくるくると回した。
「……さて」
 隣の席の客が立ち上がる気配で、僕は顔を上げた。見ると、隣席だけでなく僕を除いた全ての客が一斉に席を立っている。あれよあれよと支度を整え……そして帰ってしまった。腕時計を確かめてみるが、時刻はまだ午後八時を回ったばかり、閉店時間というにはいささか早すぎるだろう。しかし、この店には飛び込みの客には思いもよらないようなルールが存在するのかもしれない。
 僕も帰ろうか。そう思ってテーブルの上に伝票を探したが、どこにも見当たらなかった。
「勘定なら、さっきもらったからいいよ」
 声は、どうやらカウンターの奥から聞こえてくるようだった。恐る恐る近付いてみると、マスターらしき人影が、薄暗がりの中でグラスを磨いている。スタンドカラーの白いシャツに、ゆったりした黒のV字カーディガン、整ってはいるが年齢を判断しがたい顔立ちだ。それだけでなく、やや高めの柔かい声音からは性別すら判然としない。
「さっきって、あの……」
「ほら、あのキリンのじいさん。あの人が払って行った」
 そこまで言って、マスターは心なしか口元を綻ばせた。
「……初めて来たお客を煙に巻いたお詫びに、ってね」
「それじゃあやっぱり、あの話は全部嘘なんですか?」
「そうだよ。東京は動物園じゃないんだからね。渋谷にキリンがいたり、新宿にアルマジロがいたりしたら困る。あんただって、信じたわけじゃないだろう?」
 僕は首を縦に振ろうとしたが、思い直して軽く傾げるだけに留めた。マスターはそんな僕を見て、面白そうに目を細める。
「あの……このまま払ってもらっておいても、良いものなんでしょうか?」
 マスターに聞いてみたところで仕方がないが、しかし今日会ったばかりの人に奢ってもらったのでは、なんだか収まりが悪い。するとマスターは、気にしないでいいんだよ、と片手をひらひらと振ってみせた。
「普段はお互い年寄り同士ばかりだからね。あんたみたいな若い人が、自分たちのくだらない話を真剣に聞いてくれたっていう御礼の意味もあるんだろうさ。まあ、それでもまだ気になるって言うんなら」
 細めたままの目に、僅か悪戯めいた色が浮かんだ。
「また、おいで」

 店を出る時、ふと思い出して確かめてみると、ドアに取り付けてあるのはよくある金属製のベルではなく土鈴だった。なにからなにまで、一筋縄ではいかない。
 夜空には、カレーパンのような形をした月が浮かんでいた。当然、月はあんなこんがりした色をしていないけれど、それはきっとこれから揚げるところだからだろう。今頃、月の兎たちは餅つきを一旦休業してカレーの仕込みにおおわらわ、といったところか。……だめだ、すっかり影響されている。
 なんだか世界にまるごと騙されているような、けれど決して悪くない気分だった。

 土鈴の控えめな微笑のような音を聞きながらドアを開ける。相も変わらずグラスを磨き続けているマスターに軽く頭を下げて挨拶すると、僕はいつも通り一番奥のテーブルへと向かった。既に見慣れた顔ぶれが揃っているが、並んだカップに注がれたコーヒーの減り方を見る限り、今日の集会はまだ始まって間もないようだ。
「やあ、ロレンツォ」
「……お邪魔します」
 もうイタリア人名で呼ばれることにも慣れた。それが、恐らくこの店における……というよりもこのテーブルにおける僕の役割なのだろう。

 本日の俎上に乗っているのは、どうやら「メリーさんの羊」らしい。大学教授風ループタイの老人と、ご隠居風和装の老人とが、テーブルに紙と鉛筆まで持ち出して、身振り手振りを交えつつ自説を披露している。
 ループタイの客曰く、メリーというのは実は「メーリ」が転化したものであり、漢字では「明吏」と書くのだという。かの童謡の起源はあまり知られていないが実は中国で、元となったのは「明吏惜白羊弾琴」なる漢詩である。可愛がっていた白い子羊を狼に食われてしまった聡明なる官吏が、その悲しみを朗々と歌い上げた哀切極まる鎮魂歌なのである……そうだ。無邪気な子どもの愛唱歌と見なされているのは大きな間違いで、その証拠は歌詞を口ずさんでみれば一目瞭然である。誰もが「メーリさんの羊」と歌うのであって、「メリーさんの羊」と歌う者などいないではないか。
 試しに自分で歌ってみればよく分かるはずだ、という締めの台詞を受け、僕から見れば祖父くらいの年代に当たるご老体たちが、口をそろえて「メーリさんの羊……」と合唱している光景は、奇妙も奇怪も通り越して、いっそ微笑ましい。挙句の果てには、僕をも巻き込んで輪唱まで始まってしまった。しかし、メリーさんの羊の輪唱などこれまで聞いたこともない。

 ひとしきり歌声が流れた後、珍しくテーブルに長い沈黙が満ちた。一つ目の話題が片付いて、ちょっと小休止、といったところなのだろう。僕は、こっそりと客たちの様子を伺った。皆、黙ってコーヒーを口に運んでいる。これは、良い機会かもしれない。
「ところで」
 僕はテーブルの上に片手をつき、半ば身を浮かすようにして客たちの顔を見回した。初めて自ら口火を切った僕に、何事かとテーブル中の視線が集まる。良い兆候だ。僕は一度気取られないように深呼吸してから、ずっと温めていた疑問を投げかけた。
「どうして、このバーの名前はラザニアなんですか?」
 客たちが、お互いに顔を見合わせる。誰が真っ先に口を開くのか、間合いを計っているかのようだ。どうも、嫌な予感がする。
「それはだね」
 大学教授風の客が、学生を前に講義を始めるかのような調子で話し出した。その、聞き慣れたいかにももっともらしい口調に、僕は途端に身構える。しかし、続く言葉は意表を衝いたものだった。
「君が、この店を卒業する時に教えよう」
「卒業?」
「そうだよ。君が、暇を持て余してここに来なくてもいいようになったら、だ」
 それはつまり、僕が今置かれている先の見えない失業生活に、なにかしらの決着がついた時、という意味なのだろうか。
「そういうことなら、まだもうしばらく時間がかかりそうです」
 僕が笑って答えると、客たちは口々に、いや若者には限りなく広がる未来が待っているのだとか、好機というものは思いがけなくやってくるのだとか、いつになく親身な台詞を並べた挙句、最終的には僕の幸運を願って高らかに乾杯の音頭まで取ってくれた。僕も、少々気恥ずかしいながらもその輪に加わった。有り難いような、申し訳ないような気分になりながら。
 しかし、その日は思いがけないほどあっさりと訪れたのだった。

 マスターは、僕の姿を認めると驚いたように眉を上げた。いつも、店で繰り広げられる突拍子もない話の数々を涼しい顔で聞き流しているこの人にしては、珍しい表情だ。
「どうしたんだい、こんな時間に」
 こんな時間、とはいってもまだ夜の九時過ぎなのだが、しかし例によって店の中に人影はない。
「マスターこそ、こんな時間まで店に残ってたんですか?」
「ああ、今日はじいさんたちが揃って休みだから。普通の客でも来ないかと思って待ってたんだけど、駄目だったねえ」
 小さく首を横に振るものの、けれどさして残念そうでもなく飄々としている。
「で、どうしたんだい?」
 もう一度問われて、僕はぴしりと背筋を伸ばした。
「お別れを、言いに来ました」
 我ながら芝居がかった台詞に、マスターは不意を衝かれたように目を丸くした後、ふっと笑みを浮かべた。
「おめでとう……と言っていいんだろうね」
「ありがとうございます。新しい職場は隣の隣の県にあるんです。これから荷物をまとめて、来週には引っ越さないと。だから、ここに来るのは今日が……」
 最後になると思います、と続けようとしたが、上手く声にならなかった。こんな妙ちきりんな店は他に知らないと内心呆れていたのに、いつも煙に巻かれてばかりで少なからず腹を立てたことだってあったというのに、どうしてだろう、この場所が日常からぽろりと零れ落ちてしまうというそのことが、僕の言葉を詰まらせている。
「まあ、座ったらどうだい」
 言われて、高いスツールに腰を下ろす。カウンターに座るのはこれが初めてだった。正面奥の壁に作り付けられた棚には、形もラベルも様々な洋酒の瓶が並んでいて、そこだけ見ていると、まるで本物のバーに来たような気分だった。
 いや、間違いなくここは本物のバーなんだよな。そう思い返して、僕はなんだか可笑しくなった。
「十日に一度くらいね、誰も顔を見せない日があるんだ。全く、どこでどう示し合わせてるんだか」
「双六の一回休みみたいなもんですか」
 面白いこと言うね、とマスターは目を細めた。
「まあ、そんなところなんだろうね。勝手気ままに口からでまかせばかり並べてるように見えるけど、法螺を吹き続けるのはなかなかどうして真剣勝負らしい。だから時にはこうやって、休戦する日が必要なんだとさ。……ああ、そうだ」
 何か思い出したように、マスターはグラスをカウンターの上に置いた。
「ここの名前の由来を、説明しておかないといけないんだったね」

「ラザニアってのはね……」
 ほら、そっちの壁を見てご覧よ、とマスターはいつも僕たちが座る隣のテーブル辺りを指し示した。
「そこだけ、他の部分と色が違うだろ」
 立ち上がって壁に近付き、確かめてみる。確かに、一メートル四方ほどの壁面だけ、壁紙が貼られておらず、ざらざらした岩盤が剥き出しになっている。どこかの地層を、そのまま掘り起こして持ってきたようだ。よくよく眺めていると、白と赤と黄土色が何層も重なっていることが分かる。これは、もしかして……。カウンターの方を振り返ると、マスターはにっと笑って頷いた。
「そうだよ。ラザニアに良く似てるだろう? 実はね、この店はほんの数年前までイタリア料理店だったんだ。その時のオーナーが、店に置く椅子やらテーブルやらを海外に仕入れにいった時、どこかの骨董品店の隅にほっぽり出されている地層標本を見つけて買い取ったらしい。いくら変わったものだからって、そんな嵩張るものを苦労して持ち帰るなんざ、物好きにも程があると思うけどね。そしてその物好きなオーナーは、苦労の成果を自分の店の壁に埋め込んで、ついでに名前にした。それを、店名ごと譲り受けたってわけだ。今はご覧の通りイタリア料理店でもなければ、ラザニアがメニューにあるわけでもないけどね」
 新しく店名を考えるのも面倒だったしねえ、とマスターはいい加減なことを言う。
「さて、謎解きはこれでおしまいだ。まあ、大した謎でもないけどね。法螺じゃないってところだけが、取り得だな」
 僕は頷くと、カウンターの前まで戻った。暇乞いの言葉を探し、しばし黙り込む。
「……ラザニアっていうのは」
「なんだい?」
「ラザニアっていうのは、実はお菓子の名前なんです」
「へえ?」
「薄いスポンジとカスタードクリーム、そしてイチゴピューレを交互に挟んで焼き上げるんです。祖母の得意料理でした」
 出来うる限り真面目な表情をしてみせると、それは知らなかったな、とマスターも澄ました顔で答える。
「じゃあ、いつかまたあんたがここに来ることがあったら、ご馳走するよ」
「ええ、楽しみにしてます。……それじゃあ、また、いつか」
「ああ、また、おいで」

 ドアに背を預けて見上げると、空にはいつかと同じように、カレーパンに似た形の月が張り付いていた。けれど、雲の裾が掛かって虫食いのように少し欠けている。誰かがつまみ食いしたのかもしれない。
 冷えてきた両手をポケットに突っ込んで、僕は歩き出す。一歩踏み出した時、ネオン看板の灯りが消えた。



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