「あんたがたどこさ」



 * 隠れ坊の木 *

 ところで、旅のお方。あなたはどちらからおいでになったんで? はあ、肥後から、ですか。肥後の、どちらから? へえ、あの山の近くから。それは、それは……。
 ああ、根掘り葉掘りと、相済みませんな。どうか、お気を悪くなさいませんよう。実は私も、肥後の出でしてね。つい、懐かしくてですな。いや、懐かしいというか……。いえ、なんでもありません。
 私の父親は、あの山を猟場にする猟師でした。あすこには、狸が沢山住んでいたでしょう? 餓鬼の時分には私も、父親について猟の手伝いをしたもんです。まあ、手伝いったって年端もいかない子どもに何ができるわけでもありません。山の、ほんの入り口までついていくのがやっとでしたからな。むしろ、足手まといだったに違いない。ただ父親は、猟師としての己が姿を、私の目に焼き付けておきたかったんでしょうな。けれど、跡を継げと言われたことはありません。むしろ、自分とは違う道を歩めと、そう思っていた節がある。面と向かってそう言われたわけじゃありませんが、だからこそ、今こうして宿屋の親父なんぞやってるわけでね。しかし、忘れはしませんな。今でも小高い山なんか目にすると、ふっと火薬の匂いが鼻先を掠めたような気がしますな。もちろん、気のせいなんですがね。

 父親ですか? 父親は私が七つの歳に流行り病で……。その後、私は里を離れて奉公に出たんです。故郷には、それっきり戻ってはおりません。……いや、湿っぽい話になりましたな。二度とは帰らぬと決めた故里でも、この歳になるとなにやら未練の糸をつうっと引かれるようでね。いやいや、年寄りの戯言でございます。どうぞ、お聞き流し下さい。  ああ、すっかり茶も冷めてしまいましたな。今、淹れ直して参りましょうか。……時にお客人、藪から棒に何ですが、貴方は酒よりは甘味の方がお好きでしょう。どうです? はは、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていなさるな。このような商売を長年やっておりますとな、お客人の顔を見ただけである程度の好みは分かるようになるものですよ……と言いたいところですが、いやいや、そんな神通力なんぞ備わっちゃあおりません。実は女房が、今日は冷え込みそうだからと甘酒を仕込んでおりましてな。折角ですから、一杯いかがです? ……ああ、それは良かった。では、すぐご用意いたしましょう。

 ……さて、お待たせいたしましたな。寒い時にはこれが一番でございますよ。いやいや、礼など仰らんで下さい。これにかこつけて、爺の昔話にもうしばらく付き合っていただこうと、そういう魂胆ですからな、ははは。
 はあ、私は根っからの下戸でしてな。その代わりと言っては何ですが、甘いものには目が無い。特にこの、甘酒には格別の思い入れがありましてな。へえ、まだ山の近くにおった頃のことです。村外れの林の中に、小さな社がございましょう? あすこの前で年に一度、山の神に感謝を捧げる祭りがありましてな。ああ、やはり今はもう廃れてしまっておりますか。いや、それも仕方のないことでしょう。あの辺りで狸が獲れなくなって久しい。山の神の有難味も、薄れておりましょうや。……それで、はい、毎年枯れ葉が散り始める頃に、祭りがあったのでございます。祭りといっても、小村のそれですからな、ささやかなものです。村人が集まって、供え物をし、奉納の舞の後、皆で頭を垂れて、それでお仕舞いです。子どもにとっては嬉しくも可笑しくもない、ただただ神妙に畏まって正座した足指が冷えてかじかむのに、ひたすら耐えておったことを覚えております。あとはそう、甘酒です。祭りがひととおり無事に終わった後、村人皆に甘酒が配られるのが慣わしでしてな。私を含め、子どもらはそれだけを楽しみに、寒風を堪えておったわけです。そうですな、ちょうど、今位の季節ですな。祭りが済めば、山に冬がやって来る。冬が来れば、山の神も深い眠りに就くのだと、そう教えられておりました。春が来るまで、決して社の近くに行ってはいけない、山の神を起こしていけない、と。ですから、この時期の社の辺りは、箒で掃き清めたように森閑とするのです。他の季節ならば、格好の遊び場ですからね、子どもの姿が絶えることなどなかったんですが。

 ……おや、何をそれほど驚いていらっしゃるのです? へえ、社の辺りは、私ら子どもにとって慣れ親しんだ場所でした。鞠つきに鬼ごっこに……かくれんぼに。暗くなるまで駆け回っていたものですよ。……はあ、今は、違うのでございますか。子どもらは近付かない、親が近付けさせないと。はて、面妖な。しかしあすこは、山の神が御懐で守って下さる場所、掟さえ守れば、決して恐ろしいことは……へ? 化け物、でございますか。はあ隠れ坊、隠れ坊の木、でございますか。はて、私が子どもの時分には、そのようなものはおりませなんだが。はい、社のご神木、ですか。それはまさか……、まさか年経た楠の木じゃあございませんか? 幹の真ん中に大きなうろのある、ちょうど子どもひとり隠れるに良いような。……やはり、やはりそうですか。ああ、なんてことだ……。
 いえ、大丈夫です。それで、それでその化け物は一体どんな悪さをするんで? 隠れ坊、と言うからには、お坊様の怪でございましょうか? はあ、修行の半ばで息絶えたお坊様が、もう己の悟りは開けたかと問うのでございますか。へえ、うろの中から声が。「もういいか、もういいか」と、声が。そして、どうなるのです? ……声を聞いてしまったものは、耳を塞いで一散に逃げねばならぬ、と。三日三晩、清めの塩と水以外は口にせず、それからは二度と社に行ってはならぬ、と。……ああ、それではまだ誰も、答えてやってはいないのですね。もう良いのだと、ただその一言も……。なんと、なんと、哀れな……。

 ……お客人。袖振り合うも、と申しますが、ここでこうして同郷の方にめぐり合ったも何かの縁でございましょう。その縁に免じて、あともう暫し、私の思い出話に耳を貸してはいただけませんか。いや、思い出だなどと懐かしんでは、あの子に申し訳が立たぬでしょう。私のせいであの子は、人の世から引き剥がされただけでなく、浄土にも行けず彷徨う宿命を負ってしまったのですから。
 はい。隠れ坊の正体は、私の幼馴染なのでございます。

 その子どもは、きち、と呼ばれておりました。本当の名は吉次と言ったか、はたまた吉三とでも言ったか。遊び仲間の内では呼び名さえあれば不便はなかったもので、もう覚えてはおりません。その頃四つになるか五つになるかという年頃の、しかしほんのよちよち歩きにしか見えないくらい小作りで線の細い子でした。えらく無口で、何を尋ねられてもただにこにことあどけなく笑っておりましたっけねえ。
 きちは、母親とふたりで暮らしておりました。といっても、古くからの住人というわけではなく、ある嵐の夜に社の前で親子ともども倒れていたところを、長老に助けられたのだということでした。子どもの方は粥を何杯か腹に納めると見違えるほど元気になりましたが、母親は衰弱が酷く、このまま旅を続けたのではいずれ本物の行き倒れになってしまうと大人たちが心配し、数月前に人死にが出て空家になっていたところへ、住まわせることになったそうです。親子がどこから来たのか、この村に辿り着く前はどうやって暮らしていたのか、知る者はおりませんでした。誰一人として、深く問い詰めようとは思わなかったのです。ただ、まだ若い母親の身なりからして、どこぞの遊里から逃れてきたのだろうと、大人たちは噂し合っておりましたようです。

 母親は、体が弱っていたせいもあるのでしょうが、殆ど家から外へ出ず、村人たちと係わり合いになることもあまりありませんでした。ただ息子には、精々村の子どもたちと仲良く遊べと言い聞かせていたようで、そう時の経たぬ内にきちはすっかりわたしたちの遊びの輪に加わるようになっておりました。きちは、先にも申しました通り口の重い子で、「きち」という自分の名前と、あとふとことみことを除けば殆ど口を聞くこともなかったのですが、ただえらく手先の器用な子で、どこからか障子紙の残りを貰ってきてなにやら折紙をしたり、木の実を拾ってきて独楽をこしらえたりしていました。今思えば、母親に構ってもらえない間、そうしていつもひとりで遊んでおったのでしょうな。
 きちは、自分で工夫した玩具を、私たち村の子どもにも惜しげなく分けてくれたものです。そんなことも手伝ってか、きちはいつの間にやら年長の子どもたちの間で皆の小さな弟のようにして可愛がられるようになりました。しかし、私にはそれが……気に喰わなかったのですな。

 それまで、仲間内ではこの私が一番の年少者で、なにかと世話を焼いてもらっておりました。そこにきちがやって来たことで、途端に皆の目が自分から離れてしまったと、そう感じていたのでしょう。子どもの、埒も無い嫉妬心です。上辺だけでは私も、皆と同じように幼いきちを慈しむ素振りをしておりました。しかし、腹の内ではふつふつと、面白くない想いが沸き上がり、氾濫した泥水のように渦を巻き始めていたのです。無理に押しこめた鬱屈は、捌け口を得るや否や途端に堰を切って暴れ出すものです。そしてその切っ掛けとなるまたとない機会が、私に訪れた。訪れてしまったのです。それは、先程もお話した祭りの前日のことでした。

 小さな祭りとはいえ、村にとっては年に一度の重大事です。大人たちはもちろんのこと、ある程度年嵩の子どもたちも皆総出で、祭りの数日前より準備に借り出されるのが、毎年の常でした。しかし、私やきちのような年少者には手伝えるような仕事もそうはありません。前日ともなれば、男たちは社に捧げるための獲物を仕留めるその年最後の猟に、女子どもは供物となる木の実や山野草を探すために、朝早くから山に入るのが慣わしでした。いくら猟師たちの先導があるとはいえ、子どもにとって山が危険な場所であることに変わりはありません。どこに深く落ち込む亀裂があるか、いつ恐ろしい獣が姿を現すか分からない、お前たちのような幼子を連れていくわけには行かぬ……と大人たちは言ったものですが、本当のところはまだ山歩きの鍛錬も受け始めていない私たちが足元をうろうろしたのでは邪魔になるからでしょう。体よく留守番を言い付けられた私ときちは、足腰の弱った年寄りや身重であったり赤ん坊を抱えた母親を除けばほぼ二人きりで、静まり返った村に残ることになったのでした。そして私は気付いたのです。今日この日こそが、己の内に抱え込んだ蟠りを晴らす好機であると。

 言い訳がましいことを承知で言うならば、初めはほんの悪戯心だったのです。確かな悪意というよりも、ただきちに一泡吹かせてやりたいがための、子どもじみた企てでした。日が傾き始める頃、きちを伴った私は、居残りの村人たちに気付かれぬよう、こっそりと社へ向かいました。祭りの準備が行われる数日の間、社に近付くことは固く禁じられておったのです。誰かに見つかれば、咎められ家へ帰されるに決まっておりました。この村に来て日の浅いきちでしたが、村のしきたりならばある程度聞き知っております。不安がるあの子を私は、社へ行ってはならぬのは山に入ることを許された大人たちのみであって、お前や自分のような半人前など山の神は眼中にない、とでも言って説き伏せたのだったでしょうか。その上に私は、道すがら、かねてより温めていたある企みを、きちに告げたのです。
 日頃、猟だの内職だのに忙しい大人たちを煩わせぬよう、私たちは一日の大半を子ども同士で過ごしておりました。年長の子どもたちは、面倒見よく私たちを構ってはくれましたが、こと遊びに夢中になり始めると、まだ駆け足も遅く力も弱い年少者は、勢い邪険に扱われることも多かったのです。いわばみそっかす、一人前の仲間としては、認められておりませんでした。そんな己を歯痒く思うことにかけては、きちも私と変わりはなかったでしょう。そこに私は、目を付けたのです。お前は体が小さいからきっとかくれんぼが得手なはずだと、まず私はそう言いました。いつもすぐ見つかってしまうのは巧い隠れ方を知らないだけで、ちょっとこつを覚えさえすればすぐに誰にも負けないようになれるだろう、と。今日は年嵩の遊び仲間たちが祭りの準備に追われているからちょうど良い、ふたりでこっそり練習して皆を見返してやろうじゃないかと、そう唆したのです。きちは私の言葉をまるで疑わず、嬉しそうについてきました。へえ、本当に素直で、稚けない子でしたよ……。

 林の中ほどまで進んだところで、私は足を止めました。この辺りからならば、もう社の姿を臨むことができます。その側には、まるで厳格な手が覆いかぶさるようにして、巨木が立ち並んでおりました。私はその内の一本、大きなうろのある楠を指差し、きちにあの中に隠れてじっとしているようにと言いつけたのです。鬼に見つからないためには、そこに人がいると悟られないよう気配を殺すことが大切だ、そのためには息すら慎重に吸うように、と年上ぶった講釈を垂れる私の言葉を、きちは神妙に聞いておりました。更に私が、自分はしばらくこの場所を離れるが、迎えに来るまで動かないように、と言い足すと、きちは途端に心配げな顔になったものです。袖を掴んで引き留めようとするきちに、私はそれでは練習にならないのだと首を横に振りました。そう、もうお分かりでしょうが、私の企てとは、きちを日の暮れた社の林に一人きりで置き去りにし、心細い思いをさせることだったのです。さあ行け、と軽く背を押すと、あの子は時折こちらを振り返りつつも社に近付いていきました。そして、うろの中に膝を抱えてうずくまり、両手で顔を覆う様を、私はじっと眺めていたのです。その間、私は一歩たりとも社に歩み寄ろうとはせず、根が生えたように両足を踏ん張って腕を組んでいました。まだ幼かったとはいえ、この村で生まれ育った私には、やはり禁忌を犯すことが恐ろしかったのです。やがて、うろの中に身を屈めたきちの細い両肩が、ぶるりとひとつ震えました。もういいかい、と消え入るような声も聞こえます。そこまで見届けて、私はくるりと社に背を向けました。もういいかい、と先ほどよりもくっきりしたきちの声が呼びかけてきましたが、しかし私には答えてやる気など毛頭なかったのでした。もういいかい、もういいかいと、何度も何度も繰り返す声を首の辺りで受けながら、私は後も見ず一目散に駆け去りました。
 家に辿り着く頃には、もうとっぷり日は沈み、夕餉の支度が出来上がっておりました。まだ父は山から帰ってきておりませんでしたが、私は一足先に飯を済ませ、布団を延べるのもそこそこに眠り込んでしまったのです。腹が膨れたと同時に、心の方も何やら得体の知れぬもので一杯に充たされているようでした。それがしてやったりという満足感だったと言えば……どれほど残酷な子どもだとお思いになるでしょうか。
 慌しい気配に眠りを破られたのは、夜半も深くなってからのことでした。

 私が身を起こすと、表では只ならぬ騒ぎが持ち上がっておりました。急いたような足音、呼び交わす大声、そして赤々とした松明の灯りが、右から左から駆け抜けていく様を、目を擦りながら障子戸越しに見遣り、まるで火事でも起こったかのようだ、と思ったことを覚えております。やがて勢い良く家の戸が引き開けられたかと思うと、そこには仁王立ちになった父の姿がありました。私が目を覚ましていることに気付いた父は、大股で近付いてくるなり、きちをどこかで見掛けなかったか、と尋ねたのです。
 薄情にも昼間の出来事をけろりと忘れていた私は、外の騒ぎときちとが結びついているとは夢にも思わず、ぽかんと父の顔を見上げるばかりでした。そして次の瞬間に思い浮かんだのは……今思い返すだに己の非情さを思い知らされるのですが……きちが自分の仕業を言いつけたのではなかろうか、ということだったのです。何と答えようか逡巡する私の様子を、父はまだ寝惚けているのだと解釈したようでした。祖母に茶碗一杯の水を持ってこさせるとそれを私に飲ませ、布団の上にきちんと正座をさせた上で、おもむろに事の次第を話し始めたのです。きちが、まだ戻らないという。村人たちが総出で探し回っているというのに、どこにも姿が見えないというのです。

 私は、文字通り震え上がりました。自分の他愛ない悪戯が、よもやこんな災厄を呼び起こすことになろうとは、思いも寄らなかったのです。全身から血の気が引き、指先が痺れ出すのが分かりました。己の頭が急に岩塊のように重くなり、そのくせ正座をした足元は真綿のように頼りなく、目の前が消えかけた蝋燭の明かりの如く明滅し始めました。私の顔色は傍から見ても尋常ではなかったのでしょう、父が気遣わしげに、おいどうしたと強く肩を揺すぶるのですが、その声さえ水の中のように遠く感じられます。その時でした。開け放ったままの引き戸から、長く尾を引くような風音が聞こえてきたのです。むせび泣くような、子ども心にも胸かきむしられるような音色です。そして良く聞けばそれは、風などではなかったのでした。きちや、きちや、と子の名を呼ぶ、血を吐かんばかりの母の叫びだったのです。そのことに気付いた途端、私の体の内奥から、悔悟とも悲嘆ともつかぬ想いが涙となって溢れ出しました。唐突に泣きじゃくり始めた私を、父はただおろおろと見守るばかりでした。そんな父に、私は嗚咽で切れ切れになった声で、それでも必死に訴えたのです。きちは社にいる、ご神木のうろの中に隠れている、だから迎えに行ってやってくれ、と。
 父が、幼い息子の懇願をどのように他の大人たちへ伝えたのかは分かりません。しかし村人たちが私の言葉を蔑ろにせず、古い掟を破ってまでして社の林へ踏み入ったことは確かです。明け方近く空も白み始める頃、疲労と困惑が色濃く滲んだ面持ちで帰ってきた父を、私は寝床の上に正座したままの格好で出迎えました。その父の顔を見て私は、もう取り返しの付かぬことが起こってしまったのだと悟ったのです。
 うろの中は、蛻の殻でした。きちは、まるで木に飲み込まれでもしたかのように、ぷっつりと姿を消してしまったのです。

 その後のことは、実はよく覚えておりません。きちが掻き消すようにいなくなってしまったその日、私は突然高い熱を出して寝付いてしまいました。今思えばあれはきっと、罪悪感が身体の芯まで苛んだが故のことだったのでしょう。後で聞いた話によると、熱にうなされた私はしきりと、もういいよ、もういいよとうわ言を言っていたそうです。ようやく起き出すことができるようになったのは、一月も経ってからのことです。他出が許されたのは更に二月半も過ぎた頃、きちの母親の葬儀が行われた日でした。
 細い項がたおやかで儚げな美しいひとでしたが、見る影もなく窶れ果て、しまいにはご神木の根元から一歩も離れなくなってしまったと聞いています。最期は何も飲まず食わず、息子の身に付けていた着物をぎりぎりと噛み締めたまま、痩せ細って息絶えたそうでございます。なんとも痛ましい……いえ、私にはそんな風に哀れむことすら許されないのです。私が、この私が、あの母親からかけがえのない宝を奪ってしまったのですから。
 私が村を離れたのは、それから一年と少し経った頃のことです。相次いで肉親が他界し、身寄りの無くなった私は、村長の遠い伝手を頼りに奉公へ出されることになりました。案内人に手を引かれ、最後に故郷の山を振り向いた時に私は、もう二度とここには戻れまい、いや戻るまいと、幼心に誓ったのでございます。
 ……ですからね、旅のお方。あのご神木から呼びかける声は、恐ろしい化け物の謎掛けなんぞじゃあないんですよ。物の怪扱いなどされたのでは……、あの子があまりにも不憫でございましょう。あの子には、今も昔も、何の罪もないのですから。
 私の昔語りは、これにて終いでございます。

 風が、強くなって参りましたようです。長らく足止めをいたしましたが、もしまだ先の長い道行でしたら、そろそろご出立なされるのが宜しいでしょう。直に、空模様も崩れてきましょうや。
 ……ああ、風が。また、あの風が……。いえ、なんでもございません。年寄りの独り言でございます。
 ……はい? 今、なんと仰いましたか? いや、私の昔話は先に申し上げた通りで全てにございます。他には何も、何も包み隠してなど……。
 ああ、また風が。あの風がまた……。

 お客人。お客人にも聞こえましょうか。今も私の耳には、あの時の声が染み付いて消えぬのです。きちや、きちやと息子を呼ぶ声が、風が吹く度聞こえてくるのです。いつまで黙り通すつもりか、いつまで欺き通すつもりかと、私を責め苛むのです。
 これまでの生涯、私は一度たりとて先の話を他人に告げたことはありませんでした。誰かに話せば、その分、私の胸に圧し掛かる後悔は軽くなったことでしょう。けれども、そのような許しが己に与えられて良いとは、到底思えなかったのでございます。この罪は一生償うことすらできぬ罪、我が命が絶えるまで背負い続けねばならぬ重荷なのです。
 しかしあの風は、私を問い詰めても来るのです。何故だ、何故あのようなことを成したのか、と。何故、と問われるならば……私にもまだお話しなければならぬことがあるのでございます。

 幼い日の私は、父と母の三人で暮らしておりました。しかし、あの親子が村に現れる数月前、私の母は喉の病をこじらせ、ほんの数日寝付いただけで呆気なく逝ってしまったのです。猟師を生業とする父ひとりでは、幼子の面倒などとても見切れず、私たちは数軒離れた家で父の兄夫婦と暮らしていた祖母の下へ身を寄せることになったのでした。はい、そうなのです。きちとその母親が落ち着いた空家とは我が生家、そのきっかけとなった死人とは我が母のことでございます。
 祖母が惜しみなく注いでくれた愛情にも関わらず、私は母の死を上手く呑み下すことができませんでした。だからこそ、折に触れかつての我が家を訪ねては、そこで営まれている新たな親子の暮らしを伺っていたのです。そこには、私からは永遠に取り上げられてしまった柔らかく温かな時間が、まだ流れていました。子をあやす母が、母に甘える子が、ほんの数月前の我が母と私の姿が、そこには変わらずに在ったのです。私はそれが羨ましく、そして妬ましかった。己が二度と触れることのできない母の、優しく美しい母の傍らに居ることのできるきちが、憎らしかった。そして私はいつしか、あの子が私から母親を奪ったのだとさえ思うようになったのです。
 そんなはずはないと、頭では分かっておりました。しかしその頃の私は、ただひたすらに母恋しの一念に囚われていた。そしてその慕情がやがて、私をあのような愚行に走らせてしまったのです。
 一体この世に、子を想わぬ母がいるでしょうか。母を想わぬ子がいるでしょうか。それだのに私は、己の思慕を募らせたがために、自分と同じように引き裂かれた母子を生み出してしまった。自分の味わった身をもがれるような痛みを、心を切り刻まれるような悲しみを、あの母親に、そしてあの子にも、齎してしまったのです。全ては、哀しくも愚かな子どもの過ちでございました。例え悔悟の深さに胸を潰されようとも、悲嘆の重さに背骨を砕かれようとも、私はこの咎を後生大事に抱えて生きる覚悟にございます。
 私にお話できることは、これで全てです。

 お客人。最後にひとつ、爺の頼みを聞いては下さいませんか。もし、あのご神木からもういいかと呼びかける声が聞こえたならば……、どうか一言答えてやって欲しいのでございます。ただその一言のみを、あの子は待ち詫びているのです。こんなにも長い間、たったひとりで待ち焦がれているのです。ですから……。
 ……ああ、そうですな。あの言葉は、私が返してやるのでなければ意味を成さぬのやもしれません。もういいかとあの子が呼び続けているのは、間違いなくこの私なのですから。
 もういいよ、とただ一言。それだけを伝えるのに、随分と長くかかってしまったものです。

 ……確かに。
 お客人の、仰る通りやもしれませんなあ。

 


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