「銅鑼」



 * 桜散り行く空に響け *

 名残の桜が、風に抗っていた。

「間に合って良かった、ねえ」
 語尾を跳ね上げながら、凛は思い切りよく伸びをする。つられて私も両手を空へと突き出した。並んだ四つの拳を、散り落ちる花弁がさらさらと撫でていく。
「今週末だなんて悠長なことを言ってたら、すっかり葉桜になってただろうね。抜け出してきて良かった」
 ほら、見逃した桜は美しい、って言うじゃない? そう言って凛は手近の枝に手を伸ばす。葉陰から零れる陽射しに透けて、彼女の指先はいつも以上に白い。
「それを言うなら、逃がした魚は大きい、でしょ。もう、凛はすぐそうやって勝手に言葉を作るんだから」
「いいじゃないの、表現は人それぞれ、よ」
 あっけらかんと笑ってみせて、凛は若い葉を一枚ちぎり取った。あ、と思わず私は小さく声を上げる。
「駄目だよ、凛。そんな可哀想なこと」
 けれども凛は、眉を寄せる私の言葉など聞こえなかったように、手の中の緑を眺めている。しばらくそうしていた後、彼女はふっと若葉を吹き飛ばした。はらはらと降る花弁に混じると、若葉の落ちる様は、いかにも重たげだった。
「葉桜だって、綺麗だけどねえ」
 でも、と彼女が呑み込んだその先を、私は自分の胸の内で呟いた。でもその頃にはもう、凛はここにいない。彼女の横顔から視線を逃した先、スニーカーの爪先を、薄桃色の花弁が軽やかに転がっていった。

「引越しの準備は、もう終わりそうなの?」
 尋ねた私に、凛は肯定とも否定ともつかない、曖昧な声を返しただけだった。私にしてみても、決して進んで話題にしたい事柄ではない。そんな台詞を口にしたのは、強がり以外の何ものでもないはずだった。その証拠に、自分から問い掛けておきながら、言葉を濁して答えない凛に、私は内心安堵している。

  「ねえ、唯。今年の新入生は、どのくらい入部してくれそう?」
 凛の唐突な話題変換に、すかさず私は便乗した。指折り数えながら、何人か下級生の名前を挙げる。
「彼女たちの後輩と、それから紗枝の中学校からも。今から熱心に勧誘してるみたい」
「紗枝の後輩か。じゃあ、パートはクラリネット?」
 首を横に振りながら、私は微かな笑みが込み上げてくるのを感じていた。
「ううん、コントラバス。できるだけ大きな楽器がやりたいんですって、そう言って入部したんだって」
 面白いでしょ、と続けた私に、凛は何故だか意味ありげな視線を送って寄越す。
「人のこと言えるの、唯? 銅鑼が叩きたいんですって、そう言って入部したのは、どこの誰だったかしら?」
 わざと意地悪く、凛は私の顔を覗き込む。一年生の春、初めての練習で顔を合わせた凛に入部の動機を聞かれ、慌てた私の口をついて出たのが、なぜかそんな理由だった。確かに、部活紹介の場で吹奏楽部が演奏した曲で使われた銅鑼に、いたく感動したのは事実だが、それだけのために入部を決意したわけではもちろんない。ただその時は、まっすぐこちらを見つめてくる凛の澄み切った瞳にどきまぎして、思わずとんでもないことを口走ってしまっただけなのだ。しかし、そんな事情など凛は知らない。だから、こうしてことあるごとに私をからかう。けれども、あの一言がなければ、こんな風に凛と親しくなることはできなかったかもしれない。そう思うと、自分の素っ頓狂な失言に、感謝したいような気分にもなる。

「……ねえ」
 今日の凛は、程よく色の落ちたグレーのジーンズに、細い縞柄のシャツを着て、昔の外国映画に出てくる新聞少年のような帽子を被っている。そんな出で立ちに似つかわしい、どこか悪戯っ子のような表情で、彼女はシャツの袖を肘辺りまでまくりあげた。
「銅鑼、叩かせてあげよっか?」
「……でも、開いてないでしょ、楽器庫」
「あたしを誰だと思ってるの? 現吹奏楽部部長よ? 部長権限で、銅鑼のひとつやふたつ、好きなだけ叩かせてあげるわよ。……春と銅鑼、なんてね」
「またそんなこと言って。坂戸先生が聞いたら怒るよ? あの人宮沢賢治ファンなんだから」
 窘める私の言葉など意に介さず、凛はもう駆け出そうとしている。彼女には似合わない思いつきの行動に、私は微かに目を瞠った。

 凛ほど名前と人柄とが気持ちよく寄り添ったひとを、私は他に知らない。美人で、頭の回転も速く、名の通りに凛とした彼女は、私にとって最高の友人であると共に、憧れの存在でもあった。もしもこの先、彼女とは別の「凛」に出会うことがあったら、私はきっと戸惑ってしまうだろう。この名を纏うのは、彼女でしかありえない。

 吹奏楽部の練習場と楽器庫は、グラウンドの隅に建てられている。巧い具合にプールの陰になっているので、職員室からは見えにくい。もちろん、凛はそこのところも充分承知しているはずだ。用意周到に持ってきた鍵を取り出し、堂々と中に入る。私も彼女の後について、慣れ親しんだ薄暗い室内に足を踏み入れる。凛が両手で鍵をお手玉する無造作な仕草を視界の隅で捕らえながら、私はふと疑問を覚えた。なぜ彼女は、自分で鍵を持っているのだろう。

 部長は、決して自分では楽器庫の鍵を持たず、最も信頼する部員に預けなくてはいけない。私たちの所属する吹奏楽部には、そんな奇妙なしきたりが存在する。いつ、誰が、何のために考え出したルールなのかは分からない。しかし、顧問の先生ですら知らないその習慣は、部員たちの間で脈々と受け継がれてきたのだった。今では「最も信頼する」という部分は抜け落ちてしまっているが、楽器庫で行われる部員たちだけの密やかな「就任式」では、新部長が新副部長に鍵を渡すことが慣わしとなっている。去年、二年生の秋に凛が部長に選ばれた時も、楽器庫の鍵は確かに副部長へと手渡されたはずだ。

「唯、ちょっと来て」
 楽器ケースが並べられた棚を眺めつつ何かを探しているらしい凛が、急に私を呼んだ。銅鑼ならば、更に奥の保管庫にある。彼女だって、それぐらいのことは知っているだろう。首を傾げつつ近寄った私に、凛は改まった面持ちで向き直った。
「手を出して」
 出し抜けに言われて、私は訳も分からぬまま、言われた通りに右手を差し出した。凛は厳かとでも言いたいほど真剣な表情で、握り締めていた何かを私の手のひらに乗せた。金属の冷たさと共に、ちゃりん、と微かな音がする。
「……鍵」
 手渡されたものの正体を見極めながら、私は思わず分かりきったことを呟いた。凛は私に、この鍵を預けようと言うのか。
「でも……、鍵は新しい副部長が……」
「あたしは、任期半ばで交代しないといけない部長だもの。今回は特例よ」
 それに、と凛は少し照れたように微笑んで見せた。
「原点回帰、でもあるのよ。あたしは、最も信頼する唯に、この鍵を持ってて欲しいの。託していきたいの」
 凛の言葉は、予期せぬ痛みとなって私の胸を貫いた。「託す」とはつまり、去り行く者が残る者へと何かを委ねていくということだ。凛が私に鍵を託す。つまり、凛は行ってしまう。凛は行ってしまうのだ。とっくに折り合いをつけていたはずの感情が、一気に堰を切った。

「……やだ、どうしたのよ、唯」
 手のひらに鍵を載せた姿勢のまま、前触れもなく泣き出してしまった私を見て、滅多に動揺しない凛が、珍しくうろたえた。だって、だって、と切れ切れに繰り返す私の声は、駄々をこねる子どものようだった。けれどもかえって、ずっとつかえていた言葉を伝えるには相応しい。私の本心など、全くもって子どものわがままと変わらないものなのだ。
「……行かないで……よ……凛……居なくなっちゃ……いやだ……よ……」
「いつだって会えるじゃないの。火星だとか、弥生時代だとかに行くわけじゃないんだから」
 そんなの、慰めになっていない。転校だなんて、違う高校だなんて、冥王星や氷河期よりも、もっと遠い。抗議しようとして顔を上げた私は、そこで思いがけず涙を浮かべた凛の瞳と出会って、驚いた拍子に一層泣き止むことができなくなった。
「もう、唯ってば。なんで泣くのよ?」
「だって……、だって凛が泣くから……」
「先に泣いたのはそっちでしょ? あたしのは、もらい泣き。唯のせい」
 怒ったような表情をして見せた凛は、しかし次の瞬間にはくしゃりと顔を歪めた。泣かないの、泣かないでったら。凛の声は次第に途切れがちになり、私たちは結局、お互いの肩に縋り付くようにして泣きじゃくった。

「こんなに泣いたのなんて、幼稚園の時以来よ。びっくりした」
 赤くなった目を手の甲でこすりながら、凛は半ば呆れたように頭を横に振っている。ようやく嗚咽の収まった私は、鼻声でなんとか憎まれ口を返す。
「あたしのおかげでしょ?」
「はいはい。……でも確かに、ちょっとすっきりしたかな。……ありがとね、唯」
 柔かい彼女の口調に、引っ込んだ涙が再び溢れそうになったけれども、もう泣くんじゃないよ、と凛に先手を打たれ、私は黙ったまま何度も頷いた。

「……合言葉みたいだよね」
 凛がぽつりと呟いた。きょとんと見返した私に、彼女は方程式が解けた時のように晴れやかな微笑みを浮かべて見せた。
「春と銅鑼。あたしと唯の、合言葉」
「合言葉……。春と銅鑼……」
 繰り返す私の顔にも、知らず知らず笑みが浮かぶのが分かった。合言葉。小さな子どもの秘密めいたその響きが、今はなんと頼もしげに聞こえることか。
 来年の今頃、私たちは別々の場所で、別々の桜が散り行く様を惜しんでいるだろう。寂しさは消えない。いくら涙を零しても、溶けて流れてはくれない。けれども、と私は思う。

 名残の春、私たちが見上げる空には、同じ銅鑼の音が響くはずだ。



←イミテーションゴールド  ラザニア→             創作品へ  入り口へ