「マーガレット」



 * ただ一輪の *

 ところどころペンキの剥げた白いドアには、ドライフラワーを束ねたリースが飾ってあった。濃いオレンジの向日葵を取り巻くように、白いかすみ草があしらわれている。この可憐な花が、彼女は昔から好きだった。
 エドモンド・バークレーは、ドアベルを鳴らそうと持ち上げた手を、一度空中で止めた。ひとつ溜息を吐き、腕を下ろす。気が重かった。十数年ぶりに、学生時代の友人に会いに来たのだから、もっと心踊っても良いようなものだが、これから彼女と話し合わねばならない事柄を思うと、素直に再会を喜ぶことはできなかった。腕時計に目をやると、針は午後一時少し手前を指していた。この時間なら、彼女はまだ昼食の後片付けをしているかもしれない。言い訳のようにそう考えて、エドモンドはドアに背を向けると、上着のポケットからひっぱりだした煙草に火を点けた。

 この家の主、ジェイク・サンフィールドは、エドモンドの親友だった。隣同士の家で生まれ育った幼馴染で、成人して独り立ちし、それぞれに家庭を持ってからも、お互いの行き来は途絶えることがなかった。しかし今から十年と少し前、サンフィールド夫妻が娘夫婦と同居するために引っ越して以来、連絡は疎遠になっていた。彼らの新しい住居は、エドモンドの住む町からは丸一日近い移動時間を必要とする遠方にあり、そうそう気軽に訪れることができなくなってしまったからである。次の週末には、いや今度の休暇こそ、と訪問の計画は延び延びになり、気付けば十年という歳月が流れ去っていた。そして、数ヶ月前のクリスマス。毎年欠かさず送り合っていたクリスマス・カードを追いかけるようにして届いた手紙は、ジェイク急逝の報せだった。

 未だに信じることができない。あのジェイクが死んだ。それも、新聞のトップ記事で扱われるような、劇的な最期を遂げたなどとは。こんな言い方は、故人に対して失礼なのかもしれない。しかし、真面目一辺倒で、誠実さと控え目さが最大の美徳だった友人を思い起こす度、センセーショナルな新聞記事に書かれた彼と実際の彼とはまるで別人であるかのような錯覚を、エドモンドは覚えるのだった。あるいは、別人だと考えることで、友の死を認めまいとしていたのかもしれない。けれども今、エドモンドはその友人の死を確固たる事実にするため、この家を訪れている。煙草も、根元まで吸い尽くしてしまった。いつまでも、こうして逡巡しているわけにもいくまい。
 白いドアに向き直ると、エドモンドは意を決してドアベルを掴んだ。家の奥から女性の声で返事があり、玄関に近づいてくる足音を聞きながら、エドモンドは何となくドアから視線を逸らし、庭に目をやっていた。茶色く枯れた草花が目立つ中、行き倒れたかのような姿で、古いテレビが転がっていた。

 ドアの前に立つエドモンドを認めると、彼女は一瞬大きく目を見開き、声にならない感嘆符を零すように唇を僅かに開くと、両手を差し伸べ、くしゃりと顔を歪めた。
「エド! エドモンドね?」
 彼女は、エドモンドの記憶の中にある姿からは、幾分年老いてやつれているように見えた。この前に会ってから過ぎた年月、そして伴侶を失った心痛が、彼女の顔や首筋、そして手に深い皺を刻み込んでいる。しかしそれでも、彼女は美しかった。
 彼女の名は、スカーレット・サンフィールド。かの小説のヒロインと同じ名前を持つ彼女は、しゃんと伸びた背筋と、よく通る澄んだ声が魅力的な女性だった。学生時代、彼女に憧れた若者は数知れない。誕生日には、とてもひとりでは抱えきれないほどのかすみ草の花束が、彼女の机の上や、家の玄関先に置かれていたものだった。かすみ草は、今も昔も変わらず、彼女が最も好む花である。おかげで、近隣の花屋では、彼女の誕生日が近づくと店中のかすみ草がきれいに売り切れてしまう、というまことしやかな噂まで流れるほどだった。

 本当に、久しぶりね。うっすらと涙ぐみながら、スカーレットはエドモンドの顔を懐かしそうに目を細めながら見つめた。
「元気にしてたの? もう、かれこれ十年以上も会っていないから……、ああ、こんなところで立ち話も何だわね。どうぞ、中に入って。いろいろと……散らかったままだけれど」
「いや、スカーレット」
 身を翻しかけた彼女を、エドモンドは引きとめた。まずは、自分が今日ここにやって来た理由を、説明しておかねばなるまい。そうしないのは、彼女に対する一種の裏切りであるような気さえした。
「今日は、君と話し合いたいことがあって来たんだ。その、もう聞いているとは思うんだが……、記念碑のことだ」
 記念碑、という言葉をエドモンドが口にした途端、スカーレットの顔が一気に強張った。その急激な表情の変化に、エドモンドはいっそこれ以上何も話さず帰ってしまいたい衝動に駆られた。
「この件について、君がどんな風に望んでいるのかは、私も知っている。知った上で、もう一度我々の話を聞いてもらいたいと思っているんだ。だから……」
「……聞きたくないわ」
 小さな、けれども断固とした声で、スカーレットはエドモンドの言葉を遮った。まるで彼を避けようとするかのように、顔を背けて後ずさる。
「その話はもう、聞きたくないの。聞きたくないのよ」
 涙まじりの掠れた声で繰り返しながら、彼女はエドモンドの方を見ないまま、ドアを閉めてしまった。躊躇うような一瞬の間を置いて、かたりと鍵がかかる音がする。その音が、どんな言葉よりも如実に拒絶を表していた。

 数日後、自宅の書斎で、エドモンドはスクラップブックを捲っていた。ここ数ヶ月にわたる新聞記事をまとめたものだ。見出しには「平凡な男が自らを犠牲に町を救う」だの、「老人が見せた最後の勇気」だのと言った月並みな文章が並ぶ。これらは全て、亡くなったジェイクが関わることになった、ある事件の顛末を追ったものだった。
 その日、ジェイクたち家族が暮らす町の役場に、一本の電話がかかってきた。時刻は午後四時半、一日の仕事もあと半時ばかりで終わる、という穏やかな夕方の出来事である。電話の主は、わざと押し殺したような低い声で話す男性だったという。彼は妙に平坦な口調で「この町の教会に爆弾をしかけた。あと二十分ほどで爆発する」とだけ告げ、電話を切った。職員たちは慌てた。二十分では、警察の援護を待っている余裕もない。そんな、蜂の巣をつついたような騒ぎの只中に、ちょうど飛び込んできたのが、ジェイクだった。
 春に植える作物の支給票を貰うため、役場に赴いたジェイクは、青ざめた職員から事の次第を聞き、自分がなんとかしようと請け負ったのだ。そしてその言葉通り、彼は役場まで乗りつけた古いトラックで教会に行き、入り口に無造作に放り出された爆弾らしきものを発見する。そしてジェイクは、教会近くの雑貨店から電話をかけた。なに、心配することはない。これは単なる悪ふざけだよ。念のためにこれからどこか人家のないところまで行ってこいつを捨ててくる。いや、別にあんたたちに動いてもらうようなことじゃないよ。もう仕事も終わりだろ。夕食が冷めない内に帰りな。そう言って、ジェイクは豪快に笑ったのだという。何故か、彼はひどく楽しげだったと、電話を受けた職員は後に語っている。
 それから数分後、町を抜けて数キロ進んだハイウェイ上で、トラックの荷台に載せていた爆弾が爆発する。その轟音は、町の人々の耳にも届いたという。もしも、ジェイクの行動があと少し遅れていたならば、町全体を巻き込む大惨事となっていたに違いない。こうして、ひとりの善良なる男の命と引き換えに町の平和は守られ、彼はいつしか「英雄」と呼ばれるようになった。

 後の捜査で、ジェイクの人生を奪った犯人は、あっさりと捕まることになる。他のどこでもなく、あの町を標的に選んだ理由について彼は、「通りすがりに見た若い母親と赤ん坊があまりに幸せそうで、腹が立った。幸福な人間を不幸にすることができれば、場所などどこでも良かった」と告白したという。馬鹿馬鹿しい。最新の記事までを読み終えて、エドモンドは苛立たしげに首を大きく横に振った。馬鹿げた事件だ。お粗末な動機だ。そんなもののために、ジェイクは死んだのだ。だからこそエドモンドは、今自分に課せられた仕事を全力を込めて全うしようとしている。ジェイクのいを称えるため、彼が亡くなったハイウェイ沿いに記念碑を立てる。それが、エドモンドたちの計画だった。人々はこぞって賛意を表した。寄付金も順調に集まっている。だがしかし、ひとつ大きな壁があった。未亡人であるスカーレットが、強硬に反対しているのだ。
 先日の訪問は、彼女の真意を確かめた上で、自分たちの熱意を伝え、了承を貰うためのものだった。けれども、彼女の意志は揺るがない。説得するどころか、話し合うことすらできず、エドモンドは彼女の家を後にした。一体、何が彼女にそこまで頑なな態度を取らせているのだろう。分からない。エドモンドには、どうしても分からなかった。
 長い時間細かい文字を見続けたせいで、目が鈍く痛み出している。書き物机の抽出しから煙草を取り出そうとしたところで、郵便配達員が乗る自転車のベルが聞こえた。エドモンドは大儀そうに立ち上がり、玄関へと向かう。ポストの中には一通の手紙が横たわっていた。差出人は、スカーレット・サンフィールド。エドモンドは小さく息を呑み、慌てて書斎へと引き返した。

「親愛なるエドモンド
 先日は、ろくにあなたのお話も聞かず、追い帰すようなことをしてしまってごめんさい。あなたが帰ってしまってから、私は後悔したのです。あなたならきっと、私の胸にわだかまっている想いを、下らないと笑ったりせずに聞いて下さったことでしょう。けれども私には、その想いを面と向かってあなたに説明できるだけの気持ちの整理が、まだついていないのです。だからこうして、手紙に託すことにします。

 ジェイクは、いくつになっても無邪気な少年のような人でした。あなたも覚えているでしょう? 彼はテレビや映画のヒーローものが大好きで、正義の味方が悪漢をばたばたとなぎ倒す度に、子どものような歓声をあげていましたっけ。そんな彼の姿を、在りし日の笑顔を思い出すのが辛くて、私は家にあったテレビを捨ててしまおうとしました。けれどもその反面、好きだったドラマの続きを見るために、ひょっこり彼が帰ってきそうな気もするのです。あなたもご覧になったでしょう。処分するつもりだったテレビは、今も我が家の庭に転がったままなのです。

 何故、彼があんな無謀な真似をしたのか、私は自分なりにその理由を考えてみようとしました。何事にも慎重で思慮深かった彼が、どうしてあんな無鉄砲な行動を起こしたのか。何日も何日も、夜も眠れぬぐらいに考えて、そして私はあることに思い至ったのです。彼は、ヒーローになりたかったのではないでしょうか。自らの身を盾に、か弱き者たちを守るヒーローとして、人生の幕を下ろそうとしたのではないでしょうか。だとすれば、ああ、彼は最後の最後まで、無垢な夢を追い続けていたのだと、そう言えるのかもしれません。いえ、むしろ私はそう思いたいのです。そう思うことで、彼の死が彼自身にとっても無駄ではなかったのだと、自分に言い聞かせたいのです。

 ここまで読んで、あなたはきっとこう思うでしょうね。ジェイクはヒーローとして命を落とした。ならば何故、彼の名をいつまでも語り継ぐための記念碑を、残そうとしないのかと。このことについて、私はジェイクに謝らなければなりません。私が記念碑を受け入れられないのは、ジェイクのためを思ってという理由からなどではなく、ただただ、私自身の感情の問題なのです。

 私は夫を失い、娘たちは父を失い、孫たちは祖父を失いました。例え、そのおかげでどれだけたくさんの命が救われようとも、どれだけ多くの人々に感謝され、尊敬されようとも、大切なひとを亡くした家族にとって、それはただの死でしかないのです。「ただの死」などという言い方は、あるいはジェイクの死を不当に貶めているように聞こえるかもしれません。けれども、決してそうではないのです。私たち残された家族にとってジェイクの死は、輝かしい英雄の最期などではありません。ジェイク・サンフィールドというひとりの男を、失われるべきではなかったその命を、暴力的に奪われた。ただ、それだけなのです。
 私は、彼に英雄などになって欲しくはありません。英雄として崇められることで、彼の死がまるで、町を救うという奇跡のため、予め用意されていたかのように語り継がれていくのではないかと思うと、たまらなくなるのです。
 こんな風に思うのは、夫を失った年老いた妻の、愚かな感傷なのかもしれません。いえ、きっとそうなのでしょう。それでも私は、望まずにはいられないのです。英雄として称えるのではなく、ただの死として悼んで欲しい。記念碑などではなく、一輪のマーガレットを手向けて欲しい。私の願いは、ただそれだけなのです。
 最後になりましたが、お礼を一言。久方ぶりに懐かしいあなたが会いに来て下さったこと、心より感謝しています。
                                   スカーレット・サンフィールド」

 エドモンドが再びスカーレットの家を訪れたのは、彼女の手紙が届いて二週間後のことだった。リースの飾られた白いドアの前に立つ彼の心は、この前とは打って変わって晴れやかだ。彼の胸には、かすみ草の花束が抱えられている。そして、上着の胸ポケットには白いマーガレットが一輪、挿してあった。そうだったな、ジェイク。彼は、心の中で今は亡き友人へと語り掛ける。彼女の手紙で思い出したよ。お前はマーガレットで花占いをするのが好きだった。昔はよくそれを種にからかったもんだったな。全く……、全く、いくつになっても純粋なやつだったよ。
 スカーレットは、どんな表情で自分を迎えてくれるだろうか。けれどもきっと、このマーガレットの花だけは、喜んでくれるに違いない。エドモンドは静かにひとり微笑んで、ドアベルを鳴らした。



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