「突然変異」



 * 彼女の魚たち *

「人食い魚、だって?」
 聞き返した声は、ラウンジ中の視線が一瞬こちらに集まった程、素っ頓狂に裏返っていた。声が大きいぞ、と向かいの席に座った同僚が眉を顰める。しかし、元はと言えば彼が持ち込んだ話題なのだ。
「人食い魚、だと?」
 再度、今度は音量を落として確かめると、彼は渋々といった風に頷いた。自分から切り出した話だというのに、あまり気の進まない様子で説明を加える。
「ああ、人食い魚だ。読んで字の如く人を食らう魚だ。平和な街に突如現れた謎の怪物だ。安っぽいホラーみたいな話だけどな、残念ながらこいつは現実だ。いや、むしろ今時こんな映画なんて作ったら、観客から石投げられちまう」
「人食い魚、なあ」
 何度も繰り返すなよ、と同僚は泣き笑いを堪えているような、奇妙な表情を浮かべた。恐らく、私も似たような顔をしていただろう。
「……で、具体的にはどこで見つかったんだって?」
 ふたりしていつまでも困惑していたって始まらない。とりあえず話を進めようと質問した私に、同僚は気だるい声で答えた。
「住宅街の真中にある、公園の噴水だ。水浴びしていた犬が襲われた。飼い主のご婦人から通報があってな、見に行ってみたところ、ああら不思議人食い魚様の御出まし……ってなわけだ。どうだ、心躍る話だろう?」
 同僚の口調はかなり投げ遣りだ。苦笑しつつ、私は話の続きを促す。
「人食い魚って言っても、見た目は可愛いもんだよ。グッピーっているだろ。ほら、あの尾びれがひらひらしたやつ。あんな感じなんだな。でも、性格はかなり凶暴らしい。見に行った若いのが、半信半疑で指を突っ込んでみたら、たちまち噛み付かれたって言ってたよ。噴水の中にいたのは10匹程度だったらしいからな、まあ食い殺される程の数じゃなかったが、群で襲われたら、こりゃあそれなりに怖いぜ」
「しかし、なんでまたそんな魚が街なかに?」
 それをこれから調べるんだよ、と同僚は大儀そうに首を左右に振りながら言った。
「今の時点で分かってるのは、ヤツが熱帯原産のナントカって魚の変異種らしいこと、熱帯魚が住宅街の噴水で自然繁殖するはずはないから、飼い切れなくなった誰かが放したんだろうってこと、その程度だ。それで、だ」
 同僚は、そこでぐいっと身を乗り出した。
「こんな出来の悪い都市伝説みたいな話を、お前にしたのには訳がある」
「……手伝ってくれ、って言うんだろ」
 さすが察しがいいな、と彼はにやりと笑った。
「こんな話に付き合ってくれそうなのは、お前ぐらいだからな」
 そう言うと、同僚は私の肩をぽんと叩いて立ち上がった。
「それに、こういう心和む事件でも扱ってりゃ、少しは気晴らしにもなるだろ。何か新しい情報でも入ったら報せるから、今の話は頭の片隅にでも置いといてくれ」
 それじゃ頼んだぞ、と言い残して、同僚は先に立ち去った。気晴らし、か。私は、飲み残したコーヒーを意味無くスプーンでかき混ぜながら、小さく溜息を吐いた。

 家に帰り着いたのは、そろそろ日付も変わろうかという頃だった。リビングの明りを点け、出窓に置いた妻の写真に軽く片手を上げて挨拶をすると、私は階段を上がり、娘の部屋へ向かった。ドアの隙間から光が零れている。まだ、起きているらしい。軽くノックすると、しばらくしてドアが細く開いた。
「……パパ?」
「ただいま、リディア」
「……おかえりなさい」
 リディアは、身を屈めた私の首に細い両腕を回し、頬と頬を寄せた。警察官という仕事柄、帰りが遅くなる私は、ここ数日というもの、娘とほとんどまともに顔を合わせていなかった。彼女の仕草に、愛おしさと罪悪感とを同時に抱きながら、私はそっと娘を抱きしめた。
「魚たちは元気にしてるかい?」
「ええ、元気よ」
 リディアは、ほんの少し微笑んだ。魚たちの話をする時、彼女はいつもこんな風に柔かい表情を見せる。
「今度、パパにも会わせてくれないかい?」
 私は何度目かの質問を繰り返してみたが、リディアは毎度のように首を横に振った。
「駄目。みんな恥ずかしがりやだから。大丈夫よ、ちゃんと大事に育ててるもん」
「そうだな。……さあ、もう寝る時間だよ」
 頭のてっぺんに軽くキスして、おやすみ、と言うと、リディアはもう一度私にぎゅっと抱きついて、静かにドアを閉めた。

 今年で九つになる一人娘のリディアが学校に行かなくなって……いや、正確には行けなくなって、もうそろそろ二ヶ月が経つ。柔らかな春の日差しが段々と強くなり始めた頃から、娘はひどく無口になった。もともと寡黙で物静かな子だったが、この頃からはまるで口を開かず、笑顔を見せなくなっていた。彼女の変調に気付きつつ、けれどもどうやって理由を糾せばいいのかも分からず思いあぐねていた私は、ある日、娘のベッド下からペンで落書きだらけにされたノート数冊を見つけるに至って、遅まきながら彼女を取り巻く事情を悟った。
 私が手にしたそのノートを見ても、娘はしばらく何も言わなかったが、やがてきつく引き結んだ唇を小さく震わせ、黙ったまま涙を零した。その日以来、リディアはひとり自分の部屋に閉じこもり、私がいくら呼びかけても出てこようとはしなくなった。
 そんな彼女を気遣って、近所に住む義姉が熱帯魚をプレゼントしてくれたのは、今から一ヶ月と少し前のことだった。物言わぬ友人を得てからというもの、彼女は少しずつ、笑顔を取り戻しつつある。よい兆候だった。
 しかし、娘はその大事な友人たちを、私には決して見せようとしない。私に代わって彼女の面倒を見てくれている義姉でさえ、魚に会う許しを貰えないのだという。見知らぬ人ならともかく、父親である私や、贈り主の義姉の目からも遠ざけようとするとは、いささか腑に落ちない話ではあったのだが、私は大して気にもしていなかった。それだけ、娘が魚たちを大切にしているという証拠なのだろう。リディアが徐々にとはいえ心を開き始めているという事実の前には、そんな些細な疑問など、さして気に留めるほどのことではないと、私はそう思っていたのだ。

 人食い魚の話を聞かされて、十日ほど経った頃だった。私が自分の席に着くのを待ちかねたように、同僚が険しい表情で近づいてきた。私の顔を睨み据えるなり、吐き捨てるように言い放つ。
「おい、えらいことになったぞ」
「なんだ、何かあったのか?」
「例の魚のことだよ。他に何がある? ……この間、お前に話した公園での一件だけどな、あれが始まりじゃあなかったんだよ。ほら、これを見てみろ。ここ数ヶ月ほどで、十数件の被害届が出てる。その上に、事件現場は全て学校だ」
「……学校?」
 その単語に、何故かひっかかるものを感じた。投げ出すように渡された報告書に目を通しながら、私は言い知れぬ不快感を抱き始めていた。
「ああ、そうだ。この時期は、授業でプールを使うだろう? 夜の間に何者かが忍び込んで、プールの中に例の魚を放っていくらしい。しかし、熱帯魚だからな、水の温度が低くてすぐに死んじまうそうだが、でも放っておくわけにはいかないだろう」
 熱帯魚、そして学校。何かが、私の直感に訴えかけている。それも、歓迎すべきでない何かが。
「うちの管轄で起こった事件じゃないから、こちらで訊いてみるまで情報が入ってこなかったんだな。……いいか、これは気紛れな熱帯魚愛好家の心変わりなんかじゃあない。誰かがばらまいてるんだ。故意に、悪意を持ってな」

 午後八時半、主のいない娘の部屋で、私は一冊のノートを手に立ち竦んでいた。表紙にクローバーが描かれた、その小ぶりなノートは、娘の日記だった。全く、今ほど自分の「職業的直感」というものを疎ましく感じたことはない。娘を疑うばかりでなく、その疑念を裏付ける証拠まで見つけてしまうとは。拾い読みした日記の内容は、私の漠然とした推論を、動かしがたい確信へと変えてしまっていた。

“五月二十日
  おばさんが、きれいな魚と水そうをプレゼントしてくれた。小さくて、きらきらしたブルーで、とてもかわいい。じっと見ていたら、あなたのママも魚を飼っていたのよと、おばさんが言った。少し、うれしかった。”

“六月三日
  新しい魚を飼うことになった。本屋に行った時に知らないおじさんからもらった。大切に育てていたら、きっとわたしの役に立ってくれるそうだ。魚は一ヶ月ほどでちょうどいい大きさになるそうなので、それまで大事に育てようと思う。”

“六月二十日
  また、あのおじさんに会った。パパが警察官だと言ったら、あの魚のことは絶対に話しちゃいけないよと言われた。大丈夫、そのくらいのことは、わたしにも分かっている。それに、もしパパにばれたとしても、きっとなんとかなる。パパは、わたしに甘いから。でも、気をつけないといけない。”

“六月二十八日
  あの魚は、外の水の中ではあまり長く生きられないと聞いた。そんなのはつまらない。でも、もうずいぶん大きくなったし、このまま計画は進めることにする。”

“七月五日
  明日は、ついに決行の日だ。夜八時過ぎに出かけようと思う。パパはきっといつもみたいに帰りがおそくなると思うから、大丈夫だ。明日、良い結果をこの日記に書けますように。”

 ……階下で、ドアが開く音がした。反射的に、机に置かれた目覚し時計を確かめると、時計の針は九時十三分を指していた。私の靴に気付いたのだろう、玄関からは痛いほどの沈黙が伝わってくる。やがて、頼りなげな足音が階段を上ってくるのが分かった。……さあ。私は、目を閉じて待ち構えた。さあ、どうする?
 娘の部屋の前で、足音が止まった。意を決して振り向いた私の前に、娘が立っていた。いつか、これと全く同じような状況に出くわしたことがある。あの時、娘は……。しかし、そんな既視感は、すぐに打ち壊されてしまった。掛ける言葉を探して、あの時と同じように躊躇った私に、リディアはにっこりと造り物のように完璧な笑顔を見せた。
「おかえりなさい、パパ。ずいぶん……早かったのね」 



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