「一粒の海に沈むものは」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 3 * いつしか、猛々しい太鼓の音は止み、細く高い笛の音がひゅるりひゅるりと繊細な音階を辿っている。輪を描いていた小舟は思い思いの場所へと漂い出て、転々と散らばっていた。 ぱんぱんと手を打ち鳴らす合図に、談笑の声が途切れる。皆が大船に注目した。松明の脇、長い衣の裾を夜風になびかせた長老が、軽く片手をあげて人々の注意を促していた。 「今年もまた、この夜を迎えることができた」 長老は一度言葉を切り、辺りに浮かぶ小舟を見回す。 「我らがこの地に移り住んで、早七十余年の月日が流れた。今こうして振り返れば、瞬きする間に過ぎたような気もするが、決して短い歳月ではないの。その証拠に、当時はまだ小舟ひとつ満足に操れん小僧だったわしが、ほれ、見ての通り今では枯れ木のような爺じゃて」 「そんなことを仰るもんじゃありませんよ、長老」 「そうですよ。仮に枯れ木だとしても、あなたは随分と生きのいい枯れ木ですな」 「我々のような若木より、花も実も豊かな枯れ木でしょう」 方々からかけられる言葉に、長老はくつくつと喉を鳴らすような笑い声をあげた。 「嬉しいことを言ってくれるものじゃな。若いもんの労わりの言葉ほど、爺の薬になるもんはないじゃろうて。さて、年寄りの与太話はこのくらいにしておこう。今夜の主役は、なんといっても空にまします小さな姫様じゃからのう」 愛おしむような目を上空へ向け、長老は手にした高杯を捧げるような仕草を見せた。つられたように、人々も空を見上げる。 「皆、酒は行き渡っておるかの。では、そろそろ乾杯といこうか」 一杯に夜気を吸い込み、長老は高々と杯を掲げた。 「我らが女神に祝福あれ!」 「祝福あれ!」 人々は、手に手に盃を持ち、彼女に向かって持ち上げてみせた。並々と注がれた酒は、まるで小さな海のようだ。ひとつひとつの水面には彼女の姿が映りこんでいる。日常は、どこまでも澄みきった無色透明の蒸留酒を好む彼らだが、祭りの夜だけは濃い紅の葡萄酒を飲むことがしきたりとなっていた。 彼女は、眼下に漂う人々をゆっくりと見回した。皆、期待を込めた目で彼女をじっと見つめている。誰もが、彼女の言葉を待っているのだ。彼女はにっこりと微笑んだ。 「ありがとう、みなさん。この星と、この星に住まう全てのものへ、天からの祝福を。乾杯!」 「乾杯!」 彼女は笑みを浮かべたまま、目を閉じた。こうしていると、人々の笑い声は本当に波の音に似ている。けれど、と彼女は思う。このさざめきは、波の音よりももっと温かいわ。もっと温かくて、そして優しい。彼女は、再びうとうとよまどろみ始めた。この音に包まれている限り、私はひとりじゃない。 ……ひとり? 冷や水を浴びせられたような感覚と共に、全ての音がすうっと遠のいた。はっとして彼女は目を開く。辺りは、冷たく静まり返っている。慌てて彼女は眼下を見回した。しかし、どれほど目を凝らしても、たった一人の姿も見つけられない。皆、どこへ行ってしまったのか。躍起になって彼女は人々の姿を捜し求めた。しかし、いくら探しても、一隻の船すら浮かんではいなかった。それどころか、水面はさわとも動かない。 いや、そうではない。豊かな水に満たされていたはずの地面はからからに乾ききり、あちこちに深いひび割れが生まれていた。 ああ……。彼女はきつく瞼を閉じた。思い出してしまった。あれは、夢だ。遥か遠い、夢なのだ。 山肌を踏みしめる足音が、次第に軽くなっていく。かしゃり、かしゃりと薄い金属片を踏みつけながら、彼は山頂へと辿り着いた。そこだけ平らになった頂上に立ち、空を見上げる。 月は、まだ眠っている。しかし、心なしかその寝顔がさっきよりも曇っているような気がして、彼は首を傾げた。そういえば、もうすぐ……。彼は山のふもとを見下ろした。もうすぐ、なんだったろう。 山の下には赤茶けた大地が一面に広がっていた。生き物の気配さえも感じられない、疲れ果てた土がどこまでも続いている。ところどころ、古代生物の骨のように突き出しているのは、立ったまま化石化した樹木だ。なんという眺めなんだろう。目を伏せて、彼は吐息を漏らす。 「なによ、一人前に溜息なんてついて」 凛とした声に、彼は振り向いた。ちょうど、頭の少し上あたりに、銀色の細長い小舟が浮かんでいる。それに、一人の少女が横向きに腰掛けていた。顎の辺りまでの蜂蜜色をしたまっすぐな髪、袖の無い膝丈の白い服。瞳は、座っている舟と同じ色だ。小舟の縁からぶらりと垂れた両足を、まるで見えない水でも掻くようにして揺らしている。 「……なんでもありません。少し、考え事をしていたもので」 「あなたみたいなポンコツでも、まだ考え事をするだけの容量は残っているわけ? あなたよりずっと性能のいいロボットでも、ろくに話し相手にならなかったのに。明けても暮れても仕事のことばかりで、まるで私の話を聞かないんだから」 彼は、ふわりと笑んだ。 「彼らはそのようにプログラムされていたのでしょう。自分に課せられた仕事を、いかに早く効率よく片付けるか、それだけを考えるように。だからこそ、彼らはとても有能な労働者で有り得たのではないですか? しかしわたしは旧式ですから、能率などといった言葉とは無縁です。しかしその代わり、こうして取るに足らない考え事ができるのです」 ふん、と鼻を鳴らして、少女はそっぽを向いた。彼女は、目覚めている間の月の仮の姿だ。成人した月は、普通このように人間の姿をとることを嫌うが、彼女は人々と同じ姿になることを好んだ。 「……ねえ。あなた、まだ宝石掘りを止めていないの?」 彼が手にしたバケツに目を留め、彼女が尋ねる。 「ええ。今日は、久しぶりに綺麗な石を見つけることができました。仲間たちもきっと喜んでくれているでしょう」 彼の言葉に、少女は眉をひそめる。 「あなた、仲間のことを覚えているの?」 「いえ。……仲間と、わたしは今、そう言いましたか?」 少女は軽く唇を噛み、彼をしばし見つめる。何事か思案している様子だったが、やがて一言も残さず、ぽんと船底を蹴って空へと飛び上がってしまった。あっという間もなく、少女も舟も掻き消え、その後には、霞をまとったように滲んだ三日月が残される。 「……やはり、答えてはくれないのですね」 ひとりごちて、彼はその場に腰を下ろした。もしかしたら、彼女はまた戻ってくるかもしれない。その時のために、自分はここで待っていよう。夜、たったひとりで眺めるには、この星の光景はあまりに寂しすぎるのだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |