「一粒の海に沈むものは」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 2 * 眼下には、黒くたゆたう水面が視界いっぱいに広がっている。まるで、海それ自体が生きていて、規則正しく呼吸しているようだ。 穏やかで眠たげな波の合間に、小さな船が円を描いていくつも浮かんでいる。ひとつひとつの小舟には、各々火を灯したカンテラを手にした人々が乗っていた。海面を漂う彼らの姿は、ちらちらと瞬く蛍の止まった木の葉にも似ていた。 ドォン……。 ドォォォン……。 体の奥底まで揺さぶられるような重低音が、びりびりと冷たい夜気を切り裂く。輪になった明りの中心、一隻だけ明りを消した大船が、合図の太鼓を鳴らしたのだ。普段は、長老の家の奥深くしまいこまれた大太鼓である。海の底から掘り出された宝石で彩られ、カンテラの光がよぎる度、きらきらとささやかな光を放つ。小さいが眩い煌きに、彼女は目を細める。 ドォン……。 ドォォォン……。 ひときわ長く尾を引いた響きが吸い込まれるように消えた後、大船にぱぁっと松明が灯った。空をも焦がせとばかりに火柱が立ち上る。静まり返っていた人々が、一斉に歓声をあげた。カンテラを大きく振る人、水を掻いていた櫂を空へ向かって突き出す人、船の上で立ち上がり踊り出す人。皆が、はるか頭上の彼女を見上げている。彼らの屈託無い笑顔が、彼女の目にもはっきりと見て取れた。 ドォン……。 ドォォォン……。 太鼓は、次第に間隔を詰めながら誇らしげに続く。その魂まで届きそうな音と掛け合うように、長老の歌声にもさらに熱がこもる。さあ、祭りが始まるのだ。 がしゃり、がしゃりと、斜面を踏みしめる音は自然の山肌がたてるそれとはまるで異質なものだ。もっと硬く、もっと冷たい音がする。それもそのはず、この山を形作るものは、土でも樹々でもない。 ぱりん、と何かが割れる音がした。金属の立てるものとはまた違う、澄んだ音だった。彼は苦労しながら屈み込み、自分の足が踏み割ったものを拾い上げる。薄くて楕円形をした透明なプレートだった。材質は恐らく水晶、この星でも滅多に手に入らない貴重な石だ。滑らかな表面には、細かい数字とアルファベットの列が刻み込まれている。その並びに何故か見覚えがあるような気がして、彼は軽く首を傾げた。このプレートに、日光が反射するさまを、自分は確かに見たことがある。 しかし、焼き切れてしまった彼の記憶回路に残された情報は、おぼろげなイメージにすぎなかった。それ以上のことは、どうしても思い出すことができない。いつものことだ。時々、こんな風に記憶の断片がちかりと火花を散らし、また消える。ただ、それだけのことだ。そして彼が手にするのは、かつて自分がなにかを覚えていたという、記憶の残り香のみ。 彼は片手に下げたバケツの中に水晶の破片を入れ、黙々と先を急ぐ。彼女ならば、教えてくれるだろうか。このプレートの正体も、それに結びついた彼自身の思い出も。 中腹まで上ったところで、彼は立ち止まる。そこには、墓標のようにして細長い金属片が突き立ててあった。未だ輝きを失わないそれが、一体なんの部品だったのか、その記憶も彼からは失われている。けれども、それが自分たちの存在にとってかけがえのないなにかであったことだけは、ぼんやりと分かっていた。だからだろうか、この場所に来る度、彼の胸には微かな感慨がよぎる。どこか苦さを伴うその思いは、後悔の念にも似ていた。 彼は、手にしたバケツから藍色の石を取り出す。久々に見つけた、色も形も良い結晶だ。辺りには、緑や紫や淡い桃色をした石が、丁寧に並べられている。全て、彼が日中の仕事中に掘り出したものだ。片手を胸に当て、彼は深く頭を垂れる。思い出すことができなくとも、覚えていることができなくても、祈ることだけならば、この自分にもできるだろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |