「一粒の海に沈むものは」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 1 * 寄せては返すさざめきは、母の腕の中で聞いた子守唄のように耳に優しく、懐かしい。まるで眠りに誘うかのように、遠く柔らかく響いていたかと思うと、目覚めを促すかのように、近く強く轟く。 サァァ……。 ザァァ……。 幼い子よ。どうか静かに眠っておくれ。私たちの大切な子。美しい夢ならば、その安らかな寝顔を彩るように。恐ろしい夢ならば、その穏やかな眠りを脅かさぬように。 あどけない子よ。どうか健やかであっておくれ。私たちの愛しい娘。その愛らしい瞳を曇らせるものなどなにひとつ写さずに。その輝く笑みを失うことのないように。 そしていつか、私たちの母となっておくれ。聖母のような限りない慈愛で、私たちを包んでおくれ。 サァァ……。 ザァァ……。 うつらうつらとまどろみながら、彼女はうっすらと微笑んでいた。あれは、長老の歌声だ。朗々とした声は、齢八十を超える老人のそれとは思わせぬほどに張りがあり、艶やかだ。その声が、今夜はより一層高らかに、しんとした大気を震わせている。 ああ、そうだ。今宵は祭りの晩。人々が一年間、この間の祭りが終わった翌朝から心待ちにしていた夜だ。 サァァ……。 ザァァ……。 宴の始まりを告げる太鼓が鳴らされるまで、まだしばらく時間がある。それまでは、もう少しまどろんでいよう。唇を軽くほころばせたまま、彼女は再び淡い眠りの中に沈んでいった。 もう、あれからずいぶんと経つというのに、赤茶けた土にはまだ微かな塩分が含まれている。そのほんの僅かの恵みは、荒れ果てたこの星に尚もしがみつこうとする小さな生き物たちを細々と生き永らえさせてはいるが、彼にとっては老いた体を更に蝕もうとする毒にすぎない。 一面に赤錆の浮き出した両手を眺めながら、彼は小さく首を横に振った。自らの境遇を嘆くような回路は、彼には組み込まれていない。しかし、このすっかり錆付いて、動くたびに始終海鳥の鳴き声のような軋みをあげる体の、なんと痛々しいことか。 こんな格好ではとても、宴の席に出向くことなどできまい。少なくとも、剥げ落ちた塗料だけでも塗り直さなければ。彼女は、手伝ってくれるだろうか。 見上げると、空に月が姿を見せていた。先端が少し欠けた、不完全な三日月だ。今夜の彼女は、薄く笑みを浮かべているように見える。なにか、楽しい夢でも見ているのかもしれない。 彼女が目を覚ますのは、空がすっかり濃紺に包まれてからだ。まだ、生まれてたった数百年の幼い月は、成人した月たちよりもずっと多くの睡眠を必要とするのだった。 月が目覚めるまでに一日の仕事を片付け、夜明けに彼女が眠りにつくまでの時間を、空に一番近い場所で過ごすのが、彼の日課になっていた。この惑星でもっとも高い場所、人工の山の頂だ。そこにいつも、彼女は降り立つ。 しかし、今夜は彼女のもとへ向かう前に、行かなくてはならないところがある。ぎぃぃ、ぎぃぃと重い足音を響かせながら、彼は歩き出した。 ![]() ![]() ![]() ![]() 進む→ 創作品へ 入り口へ |