「贋作 小さい秋見つけた」



* 3 *

 結局その晩、私は書棚の上から動かなかった。不思議と眠気はなく、額縁のような窓の向こうに浮かぶ半月を眺めている内、すっかり夜が明けてしまった。明るくなった空に貼り付いた、ひどく薄っぺらな白い半円を見つめながら、例え太陽が昇っても月が消えるわけではないのだと、私はその時初めて知った。
「……なんじゃ、まだそんなところにおったのか」
 ぶっきらぼうな声が掛けられたのは、薄氷のような半月がついに見えなくなってしまった頃だった。
「悪いか? 実は、案外とここが気に入ってな。当分は、逗留させてもらおうかと思っている」
 すると、即座に不機嫌な返事が聞こえた。
「やめておけ。虫は虫らしく、土の上で暮らすのが正しいあり方だ」
「なんだ、馬鹿にしているのか? 私のようなものには、人様の屋敷の中で暮らすなど分不相応だと、そう言うつもりか?」
「そうではない。馬鹿にしてもおらん。いいか、この屋敷は、な……」
 珍しく、風読みが言葉を濁した。なんだ、と突っかかるように問い返すと、不承不承、重い口を開く。
「この屋敷は、もうじき取り壊されることになっておる。庭園も、更地にされるそうじゃ」
 その台詞が、私の頭の中に吸収され、情報として理解されるまでには、微妙な時差があった。ひとたび意味を成すと、その重さは私の上にずっしりとのしかかり、真偽を問う声を奇妙に掠れさせた。
「まさか、そんな……」
「考えてもみろ。住む者もおらん、買取手もつかん時代錯誤な豪邸なぞ、無用の長物だ。残しておくだけ……無駄というものだ」
 必要以上に愛想のない言い方だった。取付く島もないとはこういうことか、とまるで脈絡のないことを考える。意識が、目下の問題から逃げ出そうとしているのだ。小さく身を丸めて、何も見ないですむように。
「しかし……。あんたはどうして……」
「そんなことを知っている、か? ふん、わしを何だと思っておる? 老いたとはいえ、れっきとした風読みだ。お前は、風の噂という言葉を知らんか。風というのはな、何も雨や木の葉ばかりを運んでくるわけではない。様々なものの声を、様々なものの移り変わりをも包み込んで吹くもの、それが風だ。真実の風読みというのは、ただ風の向きだけではなく、季節や時代の変わり目までを予測できなくては務まらぬ」
「それじゃあ……。あんたは、どうするんだ? この屋敷がなくなってしまったら、あんたはどうなる?」
「わしか? わしは、ここで屋敷の最期を見届けようぞ」
「待て。待て、風読み。あんたは、この屋敷と心中でもする気か? 共に朽ち果てるつもりか?」
「何度も言わせるな。わしは、風読みだ。この屋敷の、風見鶏だ。主たる屋敷が滅ぼうというなら、わしは喜んで付き従おうぞ」
 誇りに満ちて言い切り、風読みはそこで凛と背筋を伸ばしたように見えた。
「それに、な。他にどんな手立てがあると言うんだ? 鳥の格好こそしておるが、わしは飛べぬ。お前のように、自分の足で動くこともできぬ。それとも何か、お前がわしをこの屋敷から出してくれるとでも言うのか? ……いや、済まぬ。お前を責めるつもりなど、わしにはないのだ。ああ、そうだ。すっかり忘れておったが、そもそも鶏は飛べんのだったな。わしとしたことが、うっかりしておったわい」
 しわがれた声で、風読みはくつくつと笑う。それが虚勢なのかどうか、私に見分ける術はなかった。
「何か……。何か、私にできることはないのか?」
「ふん。お前のような若造に手を貸してもらうほど落ちぶれてはおらんわ。しかし、そうだな。もし、わしのために何かしてやろうという気があるんならな、十六世よ、いずれお前の名を継ぐ次のアーネストに、この屋敷には立派な風見鶏がいたとでも伝えてくれるか? ……いや」
 言葉を切った風読みは、そこでしばし思案するように黙り込んだ。こんな沈黙に、以前も出会ったことを思い出す。あれは、一体何の話をしている時だったか。しかし、私の物思いが解答へ辿り着くことはなかった。風読みが、大きくひとつ息を吐いたのだ。再び語りだしたその口調には普段の居丈高な調子など微塵もなく、ほんの一瞬で酷く老い込んだかのような姿に、私はもう少しで喚き出しそうになった。やめろ、そんな話はするな、と。
「やはり、真実を伝えてもらわねばならんな。おい、十三世よ。もうしばらく年寄りの戯言に付き合う気があるなら……、わしの身の上話でも、聞いて行かんか」
 語ろうというならば、最後まで耳を傾けよう。それが、聞き手としての礼儀というものだ。

「まずは、謝らねばならん。わしは、確かに風見鶏としてこの世に生を受けたが、その実、本物の屋根の上で、本物の風を読んだことなど、一度としてないのだ。おかげで、風向きではなく噂の方ばかり読む方に長けてしまってな。噂というのは、どんな微風にも乗りやすく、伝わりやすいもんだからな。……なんだ、あまり驚いてはおらんようだな。なに? ……ああ、チェスの駒と……木人形を……見たのか。ふん、案外と勘のいい奴じゃて。まあ、勘付いておったのなら、話は早い。そうだ、お前の察した通り、わしはこの屋根裏部屋から外へ出たことがない。わしの生まれは、遠い海を越えた異国の地でな。つまり、舶来物の風見鶏、というわけだ。どうだ、出自は派手だろう? その後は、ぱっとしなかったがな。
 わしがここへ連れてこられたのは、もうかれこれ半世紀も前、この屋敷がまだ建設途中だった頃のことになる。主の趣味でな、洋館には風見鶏がつきものだろうと、まあそういうことになったらしい。しかしだ、ある人物が……この屋敷の庭園に、風見鶏は似合わないと言い出してな。それで、わしは屋根の上に据えられることなくこの部屋へ……。いや、何も言うな。もう済んだことだ。さっきも言っただろう、わしは、お前を責める気などない。……いや、お前だけではない。もう誰も、恨むつもりはないのだ。年を取るとな、そんな負の感情を抱くのが、億劫になる。お前のような若造には、まだ分からんだろうがな。
 それにしても、だ。すぐに化けの皮が剥がれたとはいえ、引退した風見鶏のふりをするのは、なかなかに愉快だった。……礼を言うぞ、アーネスト」
 半世紀、と私は思う。我が一族が、十九代もの歴史を重ねてきた年月を、この風読みは切り取られた風景だけを曇りガラスの目で眺めながら、見送ってきたのだ。
「さあ、そろそろ行け。屋敷の取り壊しが始まるのは、三日後の朝だという話だ。お前の足では、敷地から出るだけでもそのくらいの時間はかかろう。早く行け。行って、お前の子孫に伝えてくれ。それがわしの……、風見鶏になり切れなかった風見鶏の、最後の願いだ」
 私には、答えるべき言葉もなかった。なにひとつ言えないまま、書棚を下る。どちらへ向かおうかと一瞬迷った後、窓が設けられた壁をよじ登った。この窓が、私を思わぬ物語へと引き込んだのだ。茶番劇だったのかもしれぬが、退場するならばこの場所の他にない。ガラスの割れた窓枠に取付き、私はそこでやっと、風読みの方を振り向いた。ガラスの目は、今やすっきりと曇りが晴れているように見える。錯覚かもしれぬが、そう信じたいと思った。
「さっき、あんたは自分には風の噂を読む才しかないと言ったな」
「ああ、言ったかもしれん」
「でも、それだけじゃないぞ。あんたには、法螺吹きの才がある。それも、立派な才能のひとつだ。私が保証してやろう。……さらばだ、風読みよ」
「ふん、最後まで口の減らんやつだ。達者でな、アーネスト十九世。もうまみえることはできんが、二十世にもよろしく伝えてくれ」
 やっと覚えたか。苦笑しつつ、私は小さく体を丸める。そして、窓枠の下に続く急勾配の飾り庇を一気に転げ落ちた。空中に飛び出した刹那、一度だけ見えた窓の向こうに、ゆっくりとかげる夕日を浴び、真っ赤に染まった風読みの鶏冠が見えたような気がした。


 私の物語は、これで終わりである。しかし、語り手の責務として、少しばかりの後日談を付け加えておこうと思う。
 屋根裏部屋にしまいこまれていたがらくた類は、屋敷にわずか残っていた調度品と共に売り払われたらしい。鬼ごっこに興じるというチェス一式は、ある金持ちの邸宅に引き取られていったという。しかし、品物が引き渡されるというその日、念のため荷を解いて確認してみたところ、女王の駒がひとつ足りなくなっていたということだ。いくら探しても、どこにも見当たらない。きっと、狭苦しい盤上に飽き飽きし、新天地を求めて旅立って行ったのだろうと、私は思っている。
 夜になると姿を変えるという木の人形は、蒐集家の老婦人に連れられてこの屋敷を後にした。驚いたことに、売りに出された品物の中で最も高値を呼んだのは、かの木人形だったという。なんでも、有名な人形作家の習作であったということだが、そんな由来など私には関係のないことだ。あの人形が、静かに余生を過ごせる場所に辿り着けたのであれば、それで良い。

   屋敷を出た私は、気の向くままに旅を続けている。住み慣れた場所を去ったとはいえ、日々の暮らしにさほどの変化はない。強いて言うならば、あの屋敷のように豪奢な造りの建物に出会うと、思わず遥か高い屋根を見上げる癖がついてしまったということぐらいだろうか。
 競売にかけられた品々の中に、古びた風見鶏が含まれていたかどうか、私はとうとう知ることができなかった。

 最後にひとつ、私にも告白しておかねばならぬことがある。風読みにも告げなかったことだが、これを語らずしてこの物語を終わらせるわけには行かぬ。
 我がアーネストの名を継ぐものは、もういない。この名は、私の代で途絶えるのだ。どれほど残されているか分からぬ我が命が尽きる時、脈々と受け継がれてきた園丁アーネストの記憶も、静かな眠りにつくことになろう。しかし、それで良いのかもしれないとも思う。あの屋敷が、そして我ら一族が愛したあの庭園がこの世から姿を消してしまった今、十九代にも渡って守り継いだものの意味も、息絶えたのだ。
 しかし、私にはもうひとつ守らねばならぬものがある。あの、老いた風読みと交わした約束だ。そして、ただその約束のために、この物語は存在するのだ。
 一寸の虫にも五分の魂、という諺がある。比喩ではなく、文字通りの意味で、この言葉は今の私を表しているようだと思うことがある。滑稽を承知で、あえて宣言しよう。己の生きた証を残したいと願うのは、何も人間だけではないのだ。
 さあ、そろそろ幕引きの時間だ。願わくば、親愛なる読者諸氏よ。一寸どころか五分にも満たぬ、小さき虫の矜持を、愚かだと笑わずにいて欲しい。

【THE END】

* 遅筆お題バトル参加作 *
テーマ : 曇りガラス
お題 : シルエット かげる らくがき 水 風見鶏
  


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