アクアリウム 第一章 「アトランティス」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 8 * 老医師は、止められたままの噴水を見つめていた。その後姿は、なぜかあの無人の飛行場を思い起こさせた。 僕は、ただその場に立ち尽くしていた。とても、声をかけられるような雰囲気ではなかったのだ。一度、きつく目を閉じてみる。いっそのこと、何も見なかったことにしてしまおうか。目を開ければ、たぶんそこには誰もいない。誰もいない。誰も……。 目を開けると、老医師はこちらを振り向いていた。外套という呼び方がふさわしいような、古めかしい灰色のコートを着て、老医師はただ静かに立っていた。 「やあ、トリ」 僕は少し苦笑した。老医師は、いつも僕の名前を街の人々とは少し違ったふうに発音した。何と言うか、妙に平坦な呼び方をするのだ。 「その様子だと……、まだ見つけていないようですね……」 老医師が小さくつぶやいた。その顔には、どこか哀れむような色が浮かんでいた。哀れみ……? しかし、すぐにその表情は消え去り、いつもの穏やかな笑顔に変わった。……気のせいだったのだろうか。 「元気ですか?」 「はい。なんとか」 「そうですか……。いや、それがなによりですよ。ところで、薬は飲めるようになりましたか?」 「ええ、まあ」 僕はもう一度、苦笑した。 「いざとなれば、たいていのことは可能になりますから。でも、好き嫌いだけはどうにもなりませんよ。錠剤は、やっぱり喉に詰まってしまう」 その内に慣れますよ。老医師は噴水の縁に腰を下ろした。その時になって初めて、僕は老医師の右手に杖が握られていることに気付いた。 「街の人たちはどうしていますか?」 「みんな、ほとんど外を出歩かなくなりました。僕のほうが、変人扱いされるくらいです。……まるで、ゴーストタウンだ」 老医師は、沈痛な面持ちでかすかに頷いた。なぜ、行ってしまったのか。なぜ、誰にも何も言わなかったのか。そして、なぜ、またここに戻ってきたのか。聞きたいことは山ほどあった。しかし、僕は頭の中いっぱいに詰まった疑問を、結局ひとつも口に出すことができなかった。時々、僕は人間が言葉を話す動物であることに窮屈さを覚えることがある。 老医師の隣に座る。この噴水の周りには、いつもたくさんの子供たちが遊んでいて、こんな場所に座ろうものなら、ものの五分も経たない内にびしょぬれになったものだ。 「噴水は、いつ止められたんですか?」 老医師の言葉に、僕は頭の中でカレンダーを逆さに繰ってみる。 「確か……、九月頃だったと思います。その頃から、子供たちが公園に行かなくなりましたから」 言ってから、僕はふと気がついた。子供たちが公園に行かなくなったのは、なにも噴水のせいではなかったはずだ。僕の記憶はひどくおぼろげになっていた。振り返ってみても、それぞれの一ヶ月を見分けることができない。いつの間にか、時間が淀み始めていたのだ。ずっと息を殺しているこの街では、際限なく同じ形の一日が続いている。昨日も、今日も、明日も、明後日も、ずっとその先も。誰も、そのことに気付いていないのだろうか? 僕以外、誰も。 「みな、どこに行ってしまったんでしょうね……」 老医師のつぶやきは、そのまま僕の疑問でもあった。みんな、いったいどこに行ってしまったのだろう? どうしてこんなに静かなのだろう? まるで、ほんとうにみんな消えてしまったみたいじゃないか。 そこまで考えて、僕はぞっとした。もし今、街中のドアというドアを片っ端からノックして回っても、誰も出てこないのではないか。この街は、この街の人々は、すでに凍りついてしまったのではないか。 僕の体は小刻みに震え出していた。決して寒さのせいだけではないことは、自分でもよく分かっていた。僕は、怖かったのだ。取り残されてしまうことが。また、ひとりだけ置いていかれることが。誰かに助けを求めたかった。どうしても、聞いてもらわなければならないことがある。僕ひとりではもう抱えきれない。だからどうしても、言っておかなければならないことが……。 ……青い夢を、見たんです。真っ青な、夢でした。でも、思っていたほど、怖くはありませんでした。むしろ、懐かしかった。 老医師は、ずいぶん長い間黙っていた。僕の言葉が聞こえなかったのかと思うほど、長い沈黙だった。やがて、小さなため息が聞こえた。 ……君は、海を見たことがありますか? 君は、海を見たことがありますか? 巨大な水たまり、生命がそこから生まれたと言われる偉大な場所です。君ぐらいの年だと、見たことがなくて当然かもしれませんね。七十年以上生きてきた私でさえ、まだ一度しか本物を見たことがないのですから。もう、思い出せないくらい昔のことです。私が子供だった頃には、まだ海はそう遠い存在ではなかった。注意深く深呼吸すれば、潮の香りがするように感じたものです。いや、潮の香りといっても、君には分かりませんか。うまく説明できませんが、なにかひどく懐かしい香りです。いのちの香りです。そう、海の水は塩からいんですよ……。まだ、誰もが海というものに憧れと畏怖の念を抱いていた頃の話です。月日というのは残酷なものだ。あれからたったの六十年……。たったの、です。それだけの時間しか経っていないというのに、こんなところまで来てしまった。この街から海の面影が消えて久しい。人々はもう、かすかな記憶さえ手放してしまったように、私には見える。 ……そう、海は消えてしまったのです。ある時、突然に。何の前触れもなく。 人の体は、大部分が水でできている。君もそう教わったことがあるでしょう。そして、人はその水を海から与えられていた。……ずいぶん驚いた顔をしていますね。君には信じ難いことかもしれませんが、ほんとうのことです。この街も昔はそうだった。遠く離れた海のある街から、定期的に水が運ばれて来ていたのです。そう、あの飛行場ですよ。あの場所には、日に一度、この辺り一帯の街の都市に供給する分の水が飛行機で送られてきていたのです。私がここに来る前に住んでいた街も、この街の恩恵にあずかっていました。 人は、水なしでは生きて行くことができない。その水を、媒介という形であれ、司っていたのですから、この街の人々は自分たちの仕事に誇りを持っていました。しかし、人間は変化していくものです。次第に人々は、自分たちの負っている役目を、原始的だ、不経済だと非難し始めた。水の運搬というのは、かなりの重労働なんです。毎日毎日、一日の休みもなく送られてくる水を、何十という街に届けなければいけない。その仕事に携わっていた人たちが……主に若い人が中心になっていたそうです。体力を必要とする仕事ですからね……、単調な繰り返しに飽いてしまったのも、当然と言えば当然の結果だったのかもしれません。 やがて、研究が始められました。飛行機での輸送に代わる手段の研究です。それぞれの街の地下にパイプを通すという案もあったそうですが、彼らのほんとうの目的は、人工的に水を合成する方法の開発だったようです。かつて、海は人間にとってとても近しいものだった。しかし、人々の心がそこから離れてしまった時、海はあまりにも遠い存在になっていたのです。 研究の開始から数年で、今ある工場の建設が始められました。人々は、重い役目から解放されたのです。確かに、新しい時代の幕開けでした……。 僕はじっと目を閉じていた。遠慮なく吹き付けてくる風のせいで体は冷え切っていたが、いつの間にか震えは止まっていた。 「何かを手にいれれば、必ず何かが失われていく。それは、仕方のないことです。何も捨てずに全てを受け入れることなどできません。人間は、それほど器用な生き物ではないのです。この街に起こった変化は、避け難いものでした。かつてのそれも、……今、襲いかかっているそれも。あるいは、この街の人々は何かを思い出そうとしているのかもしれない。そして、その記憶は、彼らにとっては痛みを伴うものだった……」 老医師は立ち上がった。さあ、もう行かなくてはいけません。僕は黙って頷いた。どこへ、とは聞かなかった。いや、聞けなかった。 「この街は、そしてこの街の人々の心は今、大きく揺らいでいるのです。けれども、私にはもう、誰かを救うだけの力が残されていない。しかし……、私は信じています。君は、この変化を受け止めることができる。その方法を、見つけることができるはずです……」 風のやんだ公園に、老医師の足音はやけに大きく響いていた。 飛行場に来るのは、これが初めてだった。街の大人たちはみな自分の子供たちをこの場所に近づけないようにしていたからだ。 僕の両親もそうだった。しかし、彼ら自身は何度か飛行場に足を運んでいたようだった。両親……。いつの間にか、僕にはひどく遠くなってしまった言葉だ。ある晴れた秋の朝、飛行場まで散歩に行ってくる、と行って出かけたきり、彼らは二度と帰ってこなかった。僕がまだ、公園の噴水の縁によじ登るにも苦労していた頃の話だ。あまりにも呆気ない「喪失」だったせいか、それとも幼いがゆえの残酷さでもってその事実を受け入れてしまったせいなのか、僕に両親の記憶はない。顔すら覚えていなかった。ある意味で僕は、いままで当然のようにそばにいた人間が、突然いなくなってしまうこと……死、という形ではなく……に対する感覚が、その時から麻痺してしまっているのかもしれない。 誰かの不在に慣れてしまうというのは、悲しいことだ。今の僕は、そう思う。 手を触れると、機体はひどく冷たかった。至近距離から見た飛行機は、誰からも忘れられたものだけが持つ、諦観したように静かな空気を漂わせている。取り残され、朽ち果てようとしているこの場所に、僕は奇妙な親密さを感じていた。僕以外、誰も知らないのだ。この飛行機が、かつて翼を持っていたことを。 僕は、ざらざらした機体に耳を寄せてみた。そうしていると、この飛行機が風を切る音が聞こえるような気がした。じっと息を詰め、耳を凝らす。やがて、僕の頭の中に、あの青い夢の映像が映りこんできた。光を浴びて、微妙に色の濃淡が変わっていく。どこか遠いところから、懐かしい音が聞こえてくる。近づいては、また遠ざかる。よせては返す、音。滑らかに揺れる……水面? そして、聞こえてくるのは、波の音……? 僕たちが、覚えているはずのない風景だった。思い出せるはずのない記憶だった。しかし、波の音は確かに聞こえている。手を触れられそうなほど近くに、海がたゆたっている。実際に目の前にある飛行場の風景より、その映像は鮮明だった。目に見えない波に頼りない足元をすくわれ、僕は思わずよろめいた。 ジャリ、となにかが砕ける音がした。飛行場の乾燥した土の感触ではない。何か異質なものを、僕の靴が踏みつけたのだ。ふらふらとしゃがみ込むと、何か白っぽいものが靴の下で砕けていた。拾い上げ、指で表面についた土を払ってみると、細かい線が何本も刻みこまれていることが分かった。壊れた破片をつなぎ合わせてみて、僕は息を呑んだ。診療所の籐椅子の部屋で、同じものを見たことがある。昔、この街に海があった頃、そこに暮らしていた生き物……貝殻だ。そのことに気付いた途端、僕は瞬く間に青い渦に呑み込まれた。 波間に漂いながら、僕は街を見下ろしていた。今までいた飛行場が見える。ちょうど、一台の飛行機が着陸したところだった。街の大通りが見える。果物屋におばさんの姿はない。僕の知らない建物がたくさん立ち並んでいる。見覚えのある古い本屋……いや、古くはなかった。剥げ落ちていたはずの看板の文字もはっきり読み取れる。さらにふわふわと街の上空を漂っていくと、やがて大きな水たまりが見えてきた。たくさんの飛行機が、その近くに並んでいる。まるで見知らぬ風景だ。いったいどこまで流されてきたんだろう。何気なく振り返ると、僕の後ろにも一面の水面が続いていた。ここはどこなんだろう。少し不安になって辺りを見回すと、そこにはいつもと変わらない山々の稜線が見えた。今でもこの街を守るように取り囲んでいる山々だった。どういうことだろう。僕はもう一度、眼下いっぱいにひろがる水面に目をやった。そこに、さっきまであった飛行機の姿はない。ただただ一面の青。その青さは、僕が見続けていた青い夢そのものだった。 ……そうなのか。今、僕が見ているこの風景は、昔のこの街の姿なのだ。この街が生まれるずっと前、ここは海だったのだ。海の底の街に、僕たちは暮らしているのだ。 ふと気が付くと、僕は飛行場にふたたび立っていた。軽いめまいがする。もう、波の音は聞こえなかった。その場からゆっくりと立ち去りながら、僕は思った。この街は、今も、海の底に、沈み続けているのだ、と。 飛行場の取り壊し……飛行機とコンテナーの撤去……は、驚くほど速やかに終了した。今や、ただの空き地となったその場所には、水の製造技術が未発達な都市のための研修施設が造られるらしい。世代交代だ。 荒れ果てていた診療所もすっかり修復された。噂によると、四月には新しく若い先生がやって来るらしい。春は、再生と別離の季節なのだ。 人々の姿が戻った通りを眺めながら、僕は昼寝から覚めた時のような微妙な時差を感じていた。あれほど猛威をふるっていた病……そう呼べるならば、の話だが……もいつの間にか自然消滅し、すでにちょっとした伝説となりつつあった。聞くところによると、噴水の水も復活したらしい。街は、僕には目のまわるような速さで回復を遂げようとしていた。 時々、ふと考え込んでしまうことがある。例えば、なぜ人々はあんなに明るいのか。例えば、あの飛行場は僕になんらかの変化をもたらしたのか。例えば、この街が老医師を追い出したのか、老医師がこの街を捨てたのか。 街が活気を取り戻すにつれ、僕は何かを少しずつ理解しつつあるような気がする。あの時、僕の見た海の記憶……あるいは海そのものが、この街の誰にでも眠っているものなのか、僕はどうしても確かめなければならない。なぜか。それはまだ分からない。しかし、それを知ることができれば、人々が海への憧れを恐怖へとすりかえてしまった理由も分かるはずだ。そしてそれは、老医師が果たせなかった仕事を受け継ぐことにもなるはずだった。 今でも、波の音が聞こえてくることがある。その音に耳を澄ませていると、かつてこの街を去って行った人々の思いが少しは分かるような気がする。今の僕ははっきりと知っていた。あの日、老医師は別れを告げに来たのだ。そして老医師が、あるいは彼ら……僕の両親……が戻って来ることは、決してないだろう。 この街を包み続ける目に見えない海について全てを知った時、僕はもう、この街には留まれないかもしれない。もしそうであるならば、僕もまた、この街を去ることになるのだろうか。 僕は、以前よりも頻繁に街を歩くようになった。不思議なことに、いつかこの街を離れる時が来るかもしれないと思うと、急にこの街が愛おしく思われてきたのだ。おかしなことではあるけれど。相も変わらずあっけらかんと晴れ渡る空を見上げながら、僕は少し笑った。 「ちょっと、トリ!」 振り返ると、果物屋のおばさんが手招きしていた。たくさんのお客に囲まれて、彼女はいつになく上機嫌に見えた。 「嬉しいねえ、またみんなが戻ってきてくれて。ささ、今日はお祝いだよ。あんたも何でも好きなものを言いな」 「……それじゃあ」 オレンジ、と僕は答えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る あとがき→ 創作品へ 入り口へ |