アクアリウム 第一章 「アトランティス」 ![]() ![]() ![]() ![]() * 5 * 僕は立ち上がり、ずいぶんと長い間、「休診」の文字を眺めていた。その手書きの札は、粒子の粗い風にさらされ、すでにペンキがはげかかっている。半年もたたない内に、小綺麗だった診療所の建物は、文字通りの廃墟と化してしまっていた。小さいながらも手入れの行き届いていた庭には雑草が生い茂り、ポストは新聞や手紙でいっぱいになっている。受け取り手のいない郵便物と、取り残された家。その姿は、ひどく痛々しい。 この街で、ずっとひとりで暮らしてきた僕にとって、老医師は唯一の家族のような存在だった。僕の名前を考えてくれたのも、この老医師だった。風邪をひいて診療所を訪れる度、錠剤をうまく飲み込めない僕に、苦笑しながらも子供用のシロップを出してくれたものだ。この先、また風邪をひいたら、僕はどうすればいいんだろう。 なおもしばらくの間、同じ場所に留まった後、僕は沈黙を続ける建物をに背を向けた。少し街の中を歩いてみようかとも思ったが、結局やめにした。どこにいっても、ここと同じ沈黙があるだけだ。 僕には何も分からなかった。何も、ほんとうに、何ひとつとして。分かっているのは、僕が風邪をこじらせて家にこもっていた二週間の内に、街に何か致命的な変化が起こったということだけだ。それ以外のことを、僕は知ることができない。誰かに聞こうにも、その「誰か」がどこにもいない。街の人々は、僕ひとりを残して、どこかに消えてしまったのだ。あるいは、彼らはただそれぞれの家の中に閉じこもっているだけなのかもしれない。しかし、それにしたって彼らが外に出てこない理由が僕には分からなかった。僕は、ただ待つしかなかった。誰か、僕に真実を語ってくれる人物が現れることを。 彼女と再会した日、空はどんよりと曇っていた。たいした期待もせずに街の中央通りを歩いていた僕は、突然大声で名前を呼ばれて飛び上がってしまった。なにせ、人の声を聞くのはずいぶんと久しぶりだったから。 声の主は、果物屋のおばさんだった。この街では珍しい緑色の瞳をした陽気な彼女は、僕が振り返るやいなや、大げさな身振りで抱きついてきた。僕はおばさんの反応に驚いたものの、ほんとうに喜んでくれているらしい彼女の様子に、しばらくそのまま動かずにいた。 彼女の話によると、もうこのところずっと、客がほとんどやって来ないのだという。しばらくの間は、店自体を閉めていたものの、やはり街に出て人々の帰りを待とうと再び開店したところを、僕がたまたま通りかかったらしい。もう二度と誰も来てくれないのかと思ったよ。おばさんは涙声でそう言った。しかし、僕の知る限りでは、この店にお客が絶えることなど一日もなかったはずだ。何事に関しても寛大でさっぱりしたおばさんは、この街の誰からも好かれていたのだから。 何があったんだろう。つぶやくと、おばさんは驚いたような顔で僕を見た。 「あんな病気がはやってるもんだから、誰も外に出たがらないんだよ。あんた、知らないのかい?」 知らない、と僕は答えた。……病気、だって? 「初めは誰も気付かなかった。いつもの砂嵐のせいか、それでなけりゃ単なる風邪ぐらいにしか思ってなかったんだよ」 おばさんは、店の奥から折りたたみ椅子を二つ持ってくると、僕にも座るように促した。 「さっきあたしは、病気って言ったけど……、正直なところ、それが病気なのかどうかさえはっきりしないんだ。それは、いつのまにかこの街にやって来て、そしてそのまま居着いちまった。何が原因なのか、それも分からない。いつそれが始まったのかだって分からないんだ。だから、みんな怯えてばかりいるんだよ」 その症状……敢えて「症状」という言葉を使えば、それは極めて単純かつ過酷なものである。まず、例年のように、喉が痛み出す。初めは、いつもと同じくちくちくするような痛みが出るらしい。しかしその後、痛み方が変わってくる。いつか老医師が言っていたような、「焼け付くような」痛みがやって来る。それとほぼ同時に、喉が渇き出す。それは強烈な、圧倒的な「渇き」で、水を飲んだくらいではとてもおさまらないという。 「いや、逆に水を飲むと余計に喉が渇いてくるらしいんだよ。飲めば飲むほど渇きがひどくなる。その症状が長く続くと……、最悪の場合、命に関わることもあるらしいんだ。全く……、恐ろしいことだよ」 僕は何も言うことができず、ただうつむいた。僕が部屋に閉じこもっている間に、街ではそんなことが起こっていたのか。 「八月の初めに、ついに誰か亡くなったらしい。小さな子供だったとか……。かわいそうなことだよ。七月のおばあさんの時も、もしかしたらそれが原因だったんじゃないかって言われてる。でもね、そんなことが分かったところで何の役にも立ちゃしない。あたしたちが知りたいのは、原因じゃなくって、その解決法なんだよ。みんな家に閉じこもってるもんだから、今、どれくらいの被害が出てるんだか、それすら分からない。ほんとうに、何も、あたしたちには分からないんだよ」 そこまで言うと、おばさんはきつく唇をかみしめた。 「……だけど、いちばん気の毒なのは老先生だよ。今まであんだけ街の人たちのために尽くしてきてくれたってのに、今じゃどうだい、みんな手のひらを返したように冷たくなっちまって。あの人ひとりに何もかも押し付けておいて……」 先生、いなくなったんですよ。そう言うと、おばさんは小さくため息をついた。 「そうかい……。あの人にとっちゃ、辛い決断だったろうにね」 でも……。言いかけた言葉を、僕は飲み込んだ。人々の苦しみに直接触れていた老医師が、彼らを見捨てるような真似をするはずがない。そんなはずは、ない。決して。 その思いは、僕の顔にも表れていたのだろう。おばさんは急に笑顔になって、僕の髪をくしゃくしゃとかきまわした。 「あんたが納得できないのも分かるよ。老先生は、ほんの赤ん坊の頃からあんたの親代わりだったんだからね。……信じるんだよ。今は、そうすることしかできないさ。……あたしにも、あんたにもね」 彼女は立ち上がると、紙袋にオレンジをいっぱいに詰めて僕に渡した。 「あんたに会えて嬉しかったよ。これはほんのお礼だ。また、遊びにおいでよ。あたしはいつだって、ここで待ってるからさ」 正体も分からないようなもんに負けてたまるかってんだい。そう言って、おばさんは豪快に笑った。 僕は頷いて、店の外に出た。歩き出そうとした時、そう言えば……、とおばさんがつぶやくのが聞こえた。 「妙な噂があるんだよ。あの……例の病気にかかった人は、みんな同じ夢を見るんだって。……青い夢、そう、確か、青い夢だって聞いたよ。なんかよく分かんないけどさ……。ま、とりあえず、あんたも気をつけなよ。夜はちゃんと寝るんだよ、いいかい?」 いつだったか、同じようなことを言われた気がする。手を振るおばさんに、僕は少し笑ってみせた。 老医師が、いつか僕に言ったことがある。君の名前……トリ……は、空を見ていて思いついたんですよ。そら? 幼かった僕は、ひっくり返りそうなほど伸び上がって、空を見上げた。なんにもないよ。ねえ、「トリ」ってどういう意味なの? 僕の質問にはいつも子供だましではない答えを返してくれた老医師が、その時ばかりは笑って答えてくれなかった。それは、自分で見つけなさい。いつか……、そういつか、君が自分で答えを見つけ出せるよう、祈っていますよ。 曇っていた空は、いつの間にか能天気に晴れ渡っていた。海から遠く離れたこの街では、空が曇ることはほとんどなかった。雨も、ほんの気まぐれに……それも申し訳程度に……ぱらぱらと降るだけだ。子供の頃、僕は空は一枚の青い布でできているのだと信じて疑わなかった。昔は、この空を行き交う動物がいたということだが、そんな話はとても信じられない。それほど、この街の空は平面的な色をしている。僕は、空を見ないようにわざと地面だけを見て歩いた。時々、この街の空は、僕をどうしようもないほど苛立たせる。 果物屋のおばさんに会った日から、僕は何かにとりつかれたように、街中をさまよい歩くようになっていた。しかし、もう診療所を訪れることはない。どうせ、不在を確かめに行っていたようなものなのだ。それよりも、あてどもなく歩き回っていたほうが、何かを……あるいは誰かを、見つけられるような気がした。別に、何かを期待していたわけでもない。眠っているような街の中で、僕自身の感覚が、まだ完全には麻痺しきっていないことを確かめたかったのかもしれない。 その日、僕は公園に辿り着いていた。凍りつきそうなほど寒い日が続いた後の、思い出したように暖かい日だった。 老医師は、まるで一本の樹のように、そこに立っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 創作品へ 入り口へ |