アクアリウム 第一章 「アトランティス」



* 1 *

 この街の外れには、古い飛行場がある。
 錆び付いた旧式の飛行機が一機、そして、同じく錆びだらけの巨大なコンテナーがひとつ。どちらも、もう何十年も前から使われておらず、南から吹きつける乾いた砂混じりの風の中に、どこか宿命的な姿でたたずんでいる。まさに、「忘れ物」という言葉がぴったりとあてはまるような場所である。実際、この街の人々は、こんな場所があることなど忘れてしまっているに違いなかった。

  かつてはこの辺り一帯の小都市群の中枢であったといわれるこの飛行場が、いったい何のために使われていたのか。それを知っている人間は、もはやこの街には残っていない。

* 2 *

 診療所のドアには、「休診」の札がかけられたままだった。
 この前ここに来たのは、確か九月の始めだったはずだから、もう二ヶ月近く経つことになる。風は冷たい。まだ、コートこそいらないものの、空気には冬特有のとがった匂いが混じり始めている。

 診療所の建物は、四つの部屋から成っている。通りに面した側の二部屋が、それぞれ診療室と書斎兼研究所であり、残りの2つは住居として使われていた。いちばん日当たりの良い部屋の窓際には、籐を編んだロッキングチェアーが置かれていて、その足元にはいつも猫が丸くなっていた。誇り高いこの猫は、決して人間になつこうとはせず、誰かが不用意に背中をなでようものなら、容赦なく爪を立てた。
 しかし、その猫もここ数ヶ月の間にいつの間にかいなくなってしまった。籐椅子の主であり、彼女が唯一、敬意を払っていた人物である老医師とともに、銀色に近い毛を持った美しい猫は、この街を去っていったのだ。
 いや、もしかすると、彼女が老医師をどこかへ連れていったのかもしれない。どちらが原因でどちらが結果だったのか。そのことを考え出すと、いつも頭が混乱してしまうのだった。

 老医師の失踪の理由、それは定かではない。それ以前に、この街の人々が老医師の不在に気付いているのかどうか、それさえ怪しかった。いくつもの路が交差し、かつての賑わいを失った今でも交通の要衝であるこの街には、たくさんの人々がやって来て、また通り過ぎていく。去るものは追わず。そういうことなのかもしれない。確かに、静かな混乱の続く今、人ひとり、猫一匹いなくなったところで、気に留める余裕など誰も持ち合わせていないとしても、不思議ではなかったけれども。

 発端は、春の終わりの南風だった。
 空気の乾燥したこの街では、一年を通して喉を痛める人が多い。特にこの季節には、はるか数千キロ離れた砂丘から風にのって砂が運ばれてくるため、街の人々は神経質なまでに喉の調子に気を配る。結果として、四月からの数ヶ月間、街にひとつしかない診療所は、休日返上の忙しさに見舞われることになる。
 今年もそうだった。あちこちの通りには、白いマスクをかけた人々と、彼らの発する異様なまでの熱気が満ちあふれていた。不思議なことに、街はこの時期、もっとも活気づく。普段、どちらかといえば物静かで内気なはずの住民たちは、なぜか急に社交的になり、自分の喉の調子や新しく試した治療法のこと、はたまた隣人の噂話まで、とめどもなく話し続ける。一年分の会話のほとんどを、この季節にすませてしまおうとしているのかと思うほどだ。
 こんな時は、むやみに外に出ないほうがいい。一時的に話し好きになったおばさんやおじさんにつかまったら最後、延々と世間話につきあわされてなかなか解放してもらえないに決まっているのだから。ほとぼりが冷めるのを待って、猫の様子でも見にいこうと老医師のもとを訪れた頃、季節はすでに夏に変わっていた。

* 3 *

 ……ふと、猫の鳴き声が聞こえたような気がした。反射的に診療所のほうを振り返る。この位置からは籐椅子のある部屋は見えないが、中の寒々とした雰囲気だけは感じ取ることができた。辺りを見回してみても、生き物の姿はおろか、気配もない。……空耳だったのだろうか。
 柔らかな陽光の中に並ぶ老医師と猫は、品のいい置物のようだった。いや、いっそのこと観葉植物のようだったと言ったほうがふさわしいかもしれない。彼らのまとう空気は眠っているかのように穏やかで、もしかするとふたりの周りだけ時間が止まっているのではないかと思うほどだった。彼らのいない空っぽのひだまりは、神聖な場所のように見えるだろう。あの部屋に限らず、この診療所はそれ自体が時間の流れから一歩はみだしたような場所だった。……いや、ぜんまいじかけのおもちゃのように、いつもせわしなく動く街の人々の姿を眺めつづけていたために、そんなふうに思えただけなのかもしれない。一日の内の、余りの時間を大切にしなさい。ふと、誰かに聞いたことわざを思い出した。時間……。
 思い出して、腕時計を見る。十一時三十五分。そろそろ昼食の時間だ。帰ろうか、帰るまいか。しばらく考えた後、結局、ドアに続くレンガ造りの階段に腰を下ろす。どうせ、あまり空腹は感じていなかった。

 今年の風はたちが悪いんですよ。その証拠に、もう七月だというのに、ほら、やって来る人の数がいっこうに減らないでしょう。
 老医師の言葉通り、小さな待合室は人で埋まっていた。時刻は一時半を少しまわった頃で、老医師は遅めの昼食をとっているところだった。窓の外に目をやると、建物に入りきらない人々が通りに列をなしている。その長さは、眺めている内にもだんだんと伸びていく。
 どうして人が減らないんでしょう? そう聞くと、老医師はいつになく厳しい表情を見せた。分からないんですよ。どうしてこんなことになっているのか、全く分からない。ただ……。
 ただ、何ですか? 聞き返すと、老医師の顔に少し困惑したような色が浮かんだ。ここに来る患者さんたちが、みんな口をそろえて同じことを言うんです。今年の風はいつもの風じゃない、いつもの年とは喉の痛み方が違う、と。
 その日、老医師から聞き出せたのは、それだけだった。混み合った待合室では小さないさかいが起こり始め、それ以上、患者を待たせるわけにはいかなかったからだ。
 老医師は早々と休憩を切り上げ、診察室に戻っていった。外には、相変わらず行列が続いていた。さっきよりも長くなっているようだ。白いマスクと世間話。全くいつもと変わらない。風が違う、痛み方が違うと言われても、あまりぴんとこなかった。何も変わっていないじゃないか。なにがおかしいというのだろう。それとも、変化とは、気付かないうちに忍び込んでいるものなのだろうか。

 一週間後、街にひとつの事件が起こった。人々はその知らせに驚き、また怯えた。この街の歴史が始まって以来、一度も起こったことのない出来事だったからだ。
 例年と同じように喉の痛みを訴えていたひとりのおばあさんが、ある日突然、命を落としたのだ。

* 4 *

 おばあさんに何が起こったのか、それははっきりしなかった。工場の隣に住んでいたそのおばあさんは、もの静かで、あまり街中に出かけることもなかったらしい。人々が知り得ていたことと言えば、おばあさんがこの街の最長老で、飛行場がまだ使わていた頃のことを知る最後のひとりであったこと、ただそれだけだった。

 先生、痛み方が違うって、どういうことなんですか?
 そうですね……。そう言ったきり、老医師はしばらくの間、沈黙した。簡単に言えばこういうことです。いつもの風だと、喉にいがらっぽい痛みが出るんですよ。ものを飲み込むと、少しちくちくする感じです。でも、今年の風はそうじゃないんです。診察を受けに来た人たちの話を聞いていると、どうやら今年の喉の痛みは砂のせいじゃないようなんです。何と言うか……、そう、焼け付くような痛み方なんですよ。ちょうど、喉が渇いた時のような。
 あいまいに頷くと、老医師は少し笑った。君には分かりにくいかもしれませんね。何といっても、君はこの街で唯一、風にやられない丈夫な喉を持っているんですから。
 でも、風邪ならひきますよ。それまで忘れていたけれど、その日、診療所を訪れたのも、軽い夏風邪をひいてしまったからだった。
 ああ、そうですね。しかし、なんにせよ、この街に暮らしていて、頑丈な喉ほど価値のあるものはありませんよ。
 老医師はゆっくりと籐椅子から立ち上がった。私はこれから診察に戻ります。悪いですが、猫にミルクをやっておいてくれませんか。それから……。
 老医師は、なぜか少し寂しげに笑った。君も早く家に帰りなさい。体にはくれぐれも気をつけて。それから、夜はぐっすり眠るんですよ。悪い夢を見ないように。
 縁に木の葉の模様が刻みこまれた銀の皿にミルクを注ぎ、籐椅子の足元に置く。しばらくするとどこからともなく猫が姿を表した。彼女はこちらを一瞥した後、優雅にミルクをなめ始めた。やがて、満腹になった猫がひだまりに丸くなって眠り始めるのを見届けて、外に出る。
 家までの道のりを半分ほど来たところで、風邪の薬をもらい忘れたことに気がついた。まあ、いい。どうせ、たいしたことはなかったのだから。それよりも、診療所を出た時から頭にひっかっていたことのほうが重要だった。あの時、なぜ老医師は寂しげに見えたのだろう。それに、診察室に戻る時、老医師がつぶやいた言葉も気がかりだった。ほとんど聞き取れないほどかすかなつぶやきだったけれども。
 ……なみが、すぐそこまで、きている……。

 今にして思う。どうしてあの時、何も気付かなかったのだろう? どうしてあの時、もう少し考えてみようとしなかったのだろう? 前兆は、確かに現れていたというのに……。
 その日から約二週間後、老医師は姿を消した。そして、やがて街の人々も。何も気付いていなかったのは、僕だけだったのだ。




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