「白い魚」



 日当たりが悪いんだ、と彼は言った。

 まだ六月とはいえ、薄いカーテン越しの陽光は真夏のそれのように容赦なく降り注いでくる。休日の朝、いくら寝ても寝足りないぼんやりした頭を抱えながら、私はベットから起き上がった。別にまだ寝ていても構わないのだが、突き刺さるような日の光の中、もう一度寝直すことなど到底できそうになかった。

 のろのろと立ち上がり、のろのろと着替えをする。今日は一日どこにも出かけない予定だから、色の褪せた紺色のTシャツに、よれよれになったグレーのジーンズという、どうでもいいような格好だ。寝癖のついた髪を、ゴムで無造作に束ねる。これじゃあ、誰かが訪ねてきても応対に出ることはできない。その場合は居留守でも使うか、と引越し祝いに友人からもらったマグカップでウーロン茶を飲みながら考える。空っぽの胃の中に、冷たいお茶が染み渡る。急に空腹を感じて、何か食べようと冷蔵庫を開けた途端、玄関のベルが鳴った。

 この部屋のベルは半分壊れている。しかし、特に不自由でもないので直さずにいる。
 恐らく、このアパートが建てられた当時からそのままなのであろうベルは、押される度になんとも間抜けな音を出すのだ。形容しがたいが、強いて言えば「ぺんぽん」といった感じだろうか。
 ぺんぽん、ぺんぽんと、規則正しく鳴らされるベルを聞きながら、どうしようかとしばし立ち尽くす。その内に諦めて帰るだろうと思ったが、ドアの向こうの誰かはかなり根気のある人物らしく、繰り返しベルを鳴らし続けている。
 十回目のベルが鳴り終わるのを聞いて、仕方なくドアを開けることにした。約束もなく訪ねてくるような客に心当たりはなかったが、えんえんと鳴り続けるベルに根負けしたのだ。

 いかにも安アパートらしい薄っぺらなドアを開くと、痛いような日光に目を射抜かれた。ぎゅっと目を閉じると、まぶたの奥に白い点々が散るのが見えた。額に手をかざしながら目を開けると、前に小柄な男の子が立っていた。彼はこちらを見上げると、黒目がちな目を見開くようにして、こう言ったのだ。「日当たりが悪いんだ」、と。

 男の子は、十歳くらいに見えた。半そでの白いシャツに、黒白チェックの半ズボンをはいている。手足も顔も、見事なほど真っ黒に日焼けしている。頭には、がっしりとした造りの麦わら帽子をかぶり、足にはビーチサンダルをはいている。どちらも誰かのお下がりらしく、彼には少々大きすぎるようだった。そして、金魚鉢。細い腕をめいっぱい広げて、母親が赤ん坊を抱くように、彼はその大ぶりな金魚鉢を抱えていた。

「日当たりが悪いんだ」
 彼はもう一度言った。
「だからね、しばらくここで預かって欲しいの」
 よく分からないまま何となく頷くと、彼は嬉しそうににっこり笑った。
「ね、部屋にお邪魔してもいい?」
 こいつの新しい住処だもん、僕も見ておきたいから。そう付け加えて、彼はまた笑顔を見せた。

 部屋に入ると、彼はもの珍しそうに辺りを見回した。きょろきょろしていた視線は、やがて窓の側に置かれたイーゼルに止まった。
「絵描きさんなの?」
「うん……。というより、絵描きの卵、かな」
 答えてから、私は自分が初めて彼と言葉を交わしたことに気付いた。今まで、呆気にとられたまま黙りこくっていたのだ。
「どんな絵を描くの?」
「ん……、いろいろ、だよ。コーヒーカップとか、ジュースの空き缶とか、近所の猫とか。特別なものじゃなくて、そこらへんにあるようなものが好きなの。でも、一番好きなのは、窓から見える風景かな」
 窓越しの景色、というものが、私は小さい頃から大好きだった。だからこそ、大学に入って下宿生活を始めた時、この窓の大きなアパートを選んだのだ。築何十年も経ったこのおんぼろアパートは、大雨が降ればどこかの部屋で雨漏りがするし、廊下の電気は始終切れっぱなしになっているし、階段は今にも底が抜けそうにぎしぎしいうし、お世辞にも綺麗とはいえないが、それでも私はここが気に入っていた。両親は、女の子がこんなところに住むなんて、と訪れる度に眉をひそめるのだが、私にとっては十分に居心地のいい空間だった。
「……へえ。ね、ここには何を描くの?」
 彼は、真っ白なキャンバスを指差してそう訊いた。私は、思わず言葉に詰まる。
「……まだ、決まってないの。これから考えようと思って」
 ふうんと呟いて、こちらを見た彼の瞳がきらりと光ったようで、私はどきりとした。

 何か飲む? と尋ねると、男の子は元気よくうん、と答えた。たしか、もらいもののカルピスがまだ残っていたはずだ。レモン味のやつ。大きめのグラスに氷を入れ、カルピスを作る。ストローでカラカラとかき混ぜていると、男の子が台所にやって来た。
「この音、好きなんだ。カルピスを作る時の氷の音」
 そうね、と私も同意する。この音を聞いているだけでも、喉の渇きが癒されていくような気がする。
「はい、どうぞ」
 水滴の浮かんだグラスを手に、私たちはイーゼルの側に戻る。窓辺には、男の子が抱えてきた金魚鉢が置かれていて、夏休みのプールのようにきらきらと光る模様を、畳の上に作り出していた。
「さっき、日当たりが悪い、って言ってたわよね」
 ストローの先で氷を沈めながら、私は尋ねた。
「その金魚鉢と、何か関係があるの?」
 うん、と至極真面目な顔で、男の子は頷いた。
「日当たりが悪いとね、綺麗な色が出ないんだよ。こいつだって、いつまでも真っ白なままじゃ可哀想だしね」
 ほら、と言って彼は金魚鉢を私の方へ押し出した。中を覗き込むが、水面に反射する光に邪魔されてよく見えない。額に手をかざしながら目を凝らすと、なにか小さいものがゆらゆらと泳いでいるのが見えた。白い魚だ。私の小指くらいの、小さな魚だった。
「綺麗でしょ? でもね、よく日に当たるともっと綺麗になるんだよ」
 彼は、誇らしげにそう言った。
「だからね、お姉さんの部屋で預かって欲しいんだ。ここなら、十分に太陽を浴びられるからね」
 ストローの端を噛みながら、私は頷いた。たしかに、この部屋の日当たりは良好だ。おかげで、洗濯物はよく乾くが、畳はすっかり日に焼けて茶色くなってしまっている。
「ところで、えさはどうするの? なにか食べないと死んじゃうでしょ?」
 金魚鉢の上に手をかざし、ゆうらりと揺れる模様を手のひらに映す。白い魚は、波打つ光にリズムを合わせるように、小さな尾びれを動かしていた。
「ううん、えさは要らないんだ。こいつは、太陽の光を吸い込んで生きてるから。ただ、時々は水を変えてあげてね。あとは、ずっとこの窓辺に置いてくれればいいよ」
 カルピスを飲み終わると、彼は立ち上がった。
「僕、そろそろ帰るね。カルピス、ごちそうさま」
 玄関まで見送りに出ると、彼はドアに片手をかけて、こちらを振り向いた。はにかんだように、ちらりと私を上目遣いに見上げる。
「あのね、時々、様子を見に来てもいい?」
「ええ、いつでもどうぞ」
 そう答えると、彼は来た時と同じ、嬉しそうな笑顔になった。

 ゆらゆらと、白い魚が泳ぐ。金魚鉢のこちらの端から、向こうの端まで。そしてまた、向こうの端からこちらの端まで。透けるような尾びれを静かに振って、光のかたまりのような水の中を、優雅に泳いでいる。
 朝、目が覚めるとまずカーテンを開ける。白い魚がこの部屋にやってきてからというもの、私はずいぶんと早起きするようになった。夜、夕焼けの最後のひとかけらが闇の中に呑み込まれてしまうと、私はカーテンを閉め、金魚鉢の水を変える。日当たりの良すぎるこの部屋では、水がすぐにぬるくなってしまうのだ。水を変えている間、白い魚は台所の壁にぶら下がったおたまの中に入れておく。
 日が沈んでからは、白い魚は身動き一つしない。金魚鉢の丁度真ん中あたりでじっとしている。魚も眠るのだということを、私は初めて実感した。

 三日に一度、男の子は白い魚に会いにやって来る。いつも、同じ麦わら帽子をかぶり、同じビーチサンダルをはいている。彼が来ると、私は決まってカルピスを作る。大きめのグラスに、氷はたくさん入れて。そして、私たちは並んで窓辺に座り、白い魚の泳ぐ様を眺めるのだ。何時間でも、飽きもせずに。
「ねえ、この魚は、どんな色になるんだと思う?」
 カラカラとグラスを振りながら、私は男の子に尋ねた。彼は、金魚鉢を膝の上に抱え、真っ白なキャンバスに光を反射させて遊んでいる。
「さあ。僕にも分からないよ。お姉さんは、絵描きさんの卵なんでしょう? だったら、僕よりお姉さんの方が綺麗な色をたくさん知ってるんだよね」
「……そう、ねえ」
 ちくり、と小さな棘が刺さったような痛みが走るのを無理やり無視して、私はキャンバスに目をやった。もう、何ヶ月も間、何も描かれないままのキャンバス。
「じゃあさ、お姉さんはどんな色が好き?」
 私の視線を追うように、キャンバスを指差して男の子が尋ねる。
「ここには、どんな色を塗るの?」
 手のひらについた水滴をスカートのポケットあたりで拭い、私はしばし考えこんだ。なにか、インスピレーションを与えてくれるものはないかと辺りを見渡す。殺風景な部屋の中、目についたのはベット脇に置いたトマトの鉢植えだった。
「例えば……、半分熟したトマトの赤とか」
 そういえばと思い出して、鉢植えに水をやるためにベランダに出る。
「水を吸い込んだ後の土の色とか」
「太陽に透けた葉っぱの色とか」
 後についてベランダに出てきながら、男の子が続ける。
「それから……、冷蔵庫で冷やしたガラスのお皿の色とか」
「少し錆びたフォークの色とか」
「砂糖をほんのちょっと入れたホットミルクの色とか」
「夏休みの夕暮れの色とか」
「半分溶けたイチゴアイスクリームの色とか」
「雨に濡れた郵便ポストの色とか」
「絞りたての酸っぱいオレンジジュースの色とか」
「洗濯したてのジーンズの色とか」
「ふわふわのオムライスの色とか」
 そこまできて、私は思わず笑った。
「どうしたの? さっきから食べ物と飲み物の色ばっかり」
 男の子はちょっと情けなさそうな顔になった。
「おなかが空いてきちゃった。もうすぐお昼だから、僕帰るね」
 いつものように、玄関まで見送りに出る。これまでと同じように、ドアノブに片手をかけて、彼はこちらを振り向く。
「たぶん……、もうすぐだと思うよ」

 キャンバスの前に座る。ずっと閉じたままだった絵の具箱を開き、私は絵筆を手に取った。目を閉じて、頭の中にランダムに浮かぶイメージを追いかける。電柱、折れ曲がった道路標識、病院の屋上、そこに干された白い洗濯物。街路樹、その下を走る自転車、買い物籠から覗くネギの頭。曇り空、一羽だけで飛んでいく鳥、ひょろりとしたアンテナ。自動販売機、忘れられた十円玉、捨てられた野菜ジュースの缶。
 私は目を開ける。するりするりと逃げていくイメージは、出来の悪いドキュメンタリー番組のように、私の頭の中でちかちかと明滅する。私はキャンバスの側を離れ、金魚鉢の前に座る。相変わらずきらきらと眩しい水の中を、物静かな魚がたゆたっている。
 いつか、と私は呟く。いつか、君を描いてあげるよ。君が、真っ白い服を脱ぎ捨てて、自分の色を見つけたらね。
「もうすぐ……、そう、たぶんもうすぐだね」

 それからしばらくの間、男の子はやって来なかった。私は今まで通り、朝起きてカーテンを開け、夜水を変える生活を送っている。窓辺に金魚鉢と並べてトマトの鉢植えを置き、時々しおれた葉っぱをむしってやる。そうして、時々キャンバスの前に座る。いつ、白い魚が鮮やかに染まることがあってもいいように。すぐにでも、その色をキャンバスに描けるように。
 予行演習を兼ねて、何色かの絵の具をパレットに載せてみる。四日前は青と緑、三日前はオレンジと紫、おとついは白と黄色、昨日は黒と灰色、そして、今日は茶色と黄緑。絵筆を握り、紅茶の空き缶に水を入れる。絵筆を水で湿らせて、いくつかの色を混ぜてみる。できた色をキャンバスに載せてみようとして、やっぱり止める。もう少し、待ってみよう。もっと、綺麗な色が出来てから。もっと、好きな色を見つけてから。

 その日の空は、どんよりと曇っていた。今にも雨が降ってきそうな空だ。このところずっと、能天気なほどの晴れの日が続いていたから、曇り空を見るのは久しぶりだった。
 洗濯物を干そうかどうしようか考えていると、玄関のベルが鳴った。ぺんぽん、ぺんぽんと間の抜けた音が響く。
「おはよう。今日は、あんまり天気が良くないみたいだね。天気予報じゃ、晴れるって言ってたのに」
 蝙蝠傘をドアの脇に立てかけながら、男の子は言った。

 カルピスを飲むには少し肌寒いので、引越し祝いのマグカップにホットミルクを作る。しばらく考えてから、片方のカップには砂糖を入れる。
「砂糖入りと砂糖無し、どっちがいい?」
 電子レンジの前から男の子に聞くと、砂糖入り、という返事が返ってきた。ちょうど同時にレンジからチン、という甲高い音が響く。
 少々温めすぎたミルクを、窓際に並んでふうふうと冷ましながら飲む。私はふと、この前から気になっていたことを思い出した。
「ねえ。砂糖入りのホットミルクと砂糖無しのホットミルクの色って違うの?」
 火傷をしたのか、舌をぺろりと出して顔をしかめながら、男の子は頷く。
「比べてみてよ。全然違うんだから」
 お互いのカップをつき合わせて、見比べてみる。言われてみれば違うような気もするが、私にはよく分からない。正直にそう言うと、男の子は妙に大人びた微笑を浮かべた。
「その内に分かるようになるよ」
「その内って……いつ?」
 私の疑問には答えず、男の子はキャンバスの前に移動した。
「また、描き始めたんだね」
 彼の視線の先には、色とりどりの絵の具が載ったパレットがある。キャンバスは未だ真っ白なままだが、彼はそれを名画を前にしているかのように目を細めて眺めている。
「もうすぐだね」
 床に転がっていた筆を拾い上げ、男の子はキャンバスの中央あたりをすっとなぞった。
「今度、晴れの日が来たらきっと……」
 その時、急に風が吹いた。ベット脇に積み上げてあった広告の束が舞い上がり、部屋中に散らばる。突然の強風は私たちにも吹き付け、男の子の麦わら帽子を台所の方へ吹き飛ばし、私の髪をなびかせた。
 同じ突風は、重く垂れこめていた雲さえ吹き払ってしまった。薄汚れた綿のような灰色の合間から、神々しいような陽光が一筋差し込んだ。
「……あっ」
 私たちは同時に声をあげた。雨雲を切り裂いた光は、私の部屋にも降り注ぎ、金魚鉢をまっすぐに照らし出したのだ。いつになく眩いきらめきが、透明なガラスから溢れ出す。私は思わず目を閉じた。

「やっと……、やっと見つけたんだね」
 穏やかな声に、私はきつく瞑っていた目を開ける。男の子は、金魚鉢を両腕に抱えて優しく微笑んでいた。いつの間にか空を覆っていた雲は跡形もなく消え失せ、惜しみない陽光を浴びた金魚鉢は、まるで光そのもののように見えた。
 男の子が、こちらを振り向く。満面の笑みを浮かべて、ありがとう、と言った。
「ありがとう。こいつもやっと、自分の色を見つけたみたいだ。お姉さんのおかげだね」
 ほら見て、と金魚鉢を私の方へ差し出す。
「私は何もしてないわ」
 少し照れ臭くなって、私は肩をすくめた。
「全て、この部屋の日当たりの良さのおかげよ」
 金魚鉢を覗き込む。輝く水面の向こうに、かつて白い魚だった魚がたゆたっているのが、確かに見えたような気がした。

「今まで本当にありがとう」
 初めてこの部屋にやって来た時と同じように、金魚鉢を大事そうに抱え、男の子は私の顔を見上げた。
「ねえ。またいつか、遊びに来てもいい?」
「ええ、いいわよ。ちゃんと、カルピスも用意しておくから」
「じゃあ、暖かい季節じゃないと駄目だね」
「大丈夫よ。寒かったら、ホットミルクにすればいいんだから」
「砂糖入り?」
「そう、砂糖入りのね」
「約束だよ」
「うん、約束ね」
 私たちは、指きりげんまんをした。

 キャンバスに向かう。左手にパレットを、右手に筆を持つ。白い魚は、白い魚の色を見つけた。おめでとう、と心の中で呟きながら、私は勢いよくキャンバスに筆を走らせる。

【THE END】



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