「世界の果てへ続く坂」



 万年坂のてっぺんで、世界は垂直に折れ曲がる。 だから、あの坂の向こうへは絶対に行ってはいけない。何があっても決して。

***

 ふうん、とレモネードのグラスに差したストローの端を噛みながら、彼女は上目遣いに私を見上げた。それ、誰に言われたの?
「僕のじいさんだよ」
「この店を始めたおじいさん?」
「ああ、そうだ」
 ふうん、ともう一度、子犬が鼻を鳴らすような相槌を打ってから、彼女は蜂蜜色の髪を揺らして首を傾げた。
 あれは、私が祖父の元に引き取られて初めて迎えた夏休み、冷房の涼しさを求めて訪れた図書館でのことだ。私は子ども向けの図鑑を広げ、祖父は、骸骨が蝋燭の明かりを手に暗闇の街を歩く、薄気味悪い絵が表紙に書かれた外国語の本を膝に乗せていた。当時、私たちが暮らす街の図書館は小学校の図書室といい勝負のこじんまりとした建物だったから、蔵書に洋書が含まれていたとは思えず、だとすればあれは、祖父自身の本棚から持参した本だったのだろう。

 私の物思いなど全く意に介さない少女は、ご馳走様、じゃあまたね、と軽快に告げると、片手を振って薄暗い店内から眩い表へと駆け去っていった。

***

“もしお前がいつかこの街を訪れるようなことがあるならば、夏を選ぶといい。かつての賑わいとは比べようもないが、今でもこの街の夏は慌ただしく華やかで、最も特別な季節なのだ。
 しかし、私の商売にとっては、これほど実入りの少ない時期は他にない。異国から来た酔狂な爺さんが店番をしているような古道具屋へ顔を出す暇のある住民など誰もおらず、そんなわけで、近頃の私はただひたすら万年坂の上に広がる雲ばかり眺めている。
 お前は「万年坂」のことを覚えているだろうか。この街の外れ、港とは逆方向へ向かってせり上がる急坂に、私が付けた名だ。いつの日か、ここにやって来る機会があったならば、私がかつて幼いお前に言って聞かせた警告を、決して忘れてはいけないよ。そしてもうひとつ。レッテピーノには、くれぐれも気を付けるように。”

***

 和紙に似た手触りの封筒を恭しく差し出すと、少年は斜めに傾いでいた帽子の庇を几帳面に正面へ正した。
 レジスター代わりに使っている木造の薬箱にいつも忍ばせてある砂糖菓子をいくつか掴み出して手渡すと、彼は人懐っこい柔らかな笑顔を浮かべる。軽く敬礼のように片手を上げて挨拶した後、少年は一瞬、傍らに置いてあった酒樽の上に視線を送り小さく首を傾げたが、そのままガラス戸を引き開けて帰って行った。
 週に二度、少年はこの店を訪れて手紙を配達していく。とは言っても、彼の本来の仕事は郵便配達夫ではなく牛乳配達人であったし、一体なぜ私の元へ手紙を届けることになったのかも分からない。幼い頃、事故で耳に傷を負った少年との会話は、専ら簡単な手振りで成り立っている。一度だけ、初対面の自己紹介を交わした時には筆談で話をしたのだったが、彼はどうやらこの方法を好まないらしく、複雑な質問をする術は今のところ思い当たらないのだった。しかし、背景や経緯はどうあれ、私は彼の来訪を心待ちにしていた。なぜならば、彼が運んでくる手紙は、祖父から私へ宛てられたものだったからだ。
 そういえば、と私は初めて顔を合わせた時に少年が丁寧な文字で記していった挨拶の言葉を思い返す。彼も、同じことを言っていた。レッテピーノには気を付けて、と。

***

 長らく音信の途絶えていた祖父が、異国の地で息を引き取ったとの知らせを受け取ったのは、だらだらとはっきりしない梅雨がようやく退場しようかという季節だった。
 私が祖父と共に暮らした歳月は、十代に差し掛かる頃の数年間だけだったのだから、実際にはそれほど長くはない。幼い頃から家族との縁が薄く、いくつもの家を転々としていた私の前に、祖父は突然、姿を現したのだ。
 分厚く膨らんだエアメールの中から出てきたのは、灯台の立つ小さな島のモロクロ写真の裏に祖父が亡くなった日付と葬儀の次第を素っ気ないほど簡潔に記したポストカードと、古い日記帳だった。しかし、ぱらぱらと開いてみた帳面の内容は日々の記録などではなく、品物の名前と入手日が記された覚書のようなものらしかった。所々に、料理の作り方らしき記述も散見する。
 正直なところ、その時の私は「肉親の死」という事実を傍観者のような目で眺めていた。祖父と別れてから、もうかれこれ四半世紀近くが経つ。懐かしさも悲しみも、十分に希釈されるだけの年月が、私たちを隔てていたのだ。
 全く、どう好意的に見積もっても、ひねくれた可愛げのない孫であることは疑いがない。

***

 この前の続きなんだけど、と真っ直ぐな髪を指先にくるくると巻き付けながら、少女が切り出した。
「坂を上ったてっぺんで、世界が終わるっていう、あの話」
「世界なんて終わらないよ。ただ、その向こうには行くなっていう話だ」
 苦笑しながら訂正すると、彼女はいつしか指定席になっている酒樽に頬杖を付き、小首を傾げた。
「万年坂って、この店がある坂のことなんでしょ?」
 私が頷くと、少女はじゃあ、とライムの果皮に似た色合いの瞳をすっと細め、チェシャ猫のようににんまりと笑った。
「この坂の向こうに何があるか、私が教えてあげようか?」

***

 本当は、諸々の整理が付いたらすぐにでも帰国するつもりだった。
 祖父の訃報を受け取って数日、唯一の肉親が最期の時を過ごした場所を訪ねてみたいという思いが、自分でも思いがけないほど切実に頭をもたげ、私は飛び石のように途切れがちな空路を何とか辿り、この街に降り立った。手掛かりは、祖父が日記帳に几帳面な字で記した住所しかない。しかし、幾分投げやりになりつつ道を尋ねた郵便局の女性職員が、私の指差した地番と祖父の名前に示した反応は意外なものだった。あなたはあの人のお孫さんなの……ええそう、急に亡くなられて……私たちは今も悲しみに暮れたままだわ……でも、あなたが来てくれた……これはきっと、おじいさまがこの街とあなたを引き合わせてくれたのね……云々と、いつまでも続きそうなお喋りを何とか食い止めて問い質せば、祖父はどうやらこの街で船と海に纏わる古い品ばかりを集めて商う古道具店を営んでいたという。小さな街だから迷子になりようもないわ、と彼女は笑った。でも今は夏だから、レッテピーノには十分に気を付けて。
 教えられた通り、舗装道路の合間合間に石畳が混ざる街路を進んでいくと、目の前に悠然と反り返る坂が現れた。強烈な既視感に見舞われつつ、私は確信した。これが、万年坂だ。

***

“昔、巨大なコンテナ船が停泊する炎天下の港まで、ふたりで出かけたことがあった。私はあの時、お前に初めてこの街の話をしたのだった。私がまだ血気盛んな若造だった頃、小さな商船に、雑用係として乗船していた頃の思い出だ。お前は、覚えているだろうか?
 私が船乗りになって、あれは三度目の航海だった。あるちっぽけな港に、我らの船は停泊した。大して人も住んでいないような寂れた街だ、一休みしたらすぐに出港するんだろうと私は思い込んでいたが、周りの乗組員たちは皆、いそいそと下船の準備を始めている。聞けば、しばらくここに滞在する予定だと言うではないか。呆気に取られた私だったが、街の名を聞いてようやく、今自分が立っているのが船乗りにとって特別な場所であることに気付いた。今はもう見る影もないが、かつてこの港は名立たる商船団を抱える一大拠点だった。しかし長く海運で名を馳せたにも関わらず、その歴史には一隻の沈没船も未帰還船も記録されていないという。だからこそこの街は、「不沈艦」を意味する名を、誇らしげに冠しているのだ。”

***

 古道具店の孫がこの街に来ているらしい、という噂は、狭い街中へ瞬く間に広まったらしい。荷を解く暇もないほど、街の住人たちは次々と私の元を訪れては、在りし日の祖父について語って行った。彼らの話に耳を傾けている内、漫然と且つ着実に日々は流れ、私はすっかりこの店の二代目としてこの街に受け入れられてしまったらしい。私自身は、祖父の商いを引き継いだつもりは毛頭なく、「店主」というよりただの「居候」であると思っている。そんなのんべんだらりとした毎日にも、ごく微かな波紋が起こることはある。小石を投げ入れたのは、他でもないあの少女だった。
 毎日、自転車で万年坂を駆け上っていく彼女には、この街に到着したばかりのことから気付いてはいた。風のように、などと月並みな形容しか浮かばないのは些か味気ないが、いつも素直な形のワンピースを身に纏った彼女が、車輪径の小さな自転車ですいすいと店先を横切っていく姿は、私にとって一服の清涼剤となっていた。
 ある日、いつものように少女の自転車を見送った後、上昇し始めた気温に対抗すべく冷房のスイッチを入れようと手を伸ばした途端、私はふと不可解なことに思い至ったのだ。そう言えば私は、あの少女が坂を下る姿を一度も目にしたことがない。

***

 この坂の向こうに何があるか、私が教えてあげようか? 少女の言葉に、一瞬私は躊躇った後、小さく首を振った。
「いや、今はまだいいよ」
 ふうん、と彼女は少しつまらなさそうに呟き、手近な棚に置いてあった酒瓶のラベルを指先でつ、となぞった。
「じゃあ、代わりに教えて。どうして、万年坂の向こうに行ってはいけないのか」
 分かったよ、と頷き、しかしどう話そうかしばし思いあぐねて、私は自分の座る周囲を見回した。雑然とした中に、大人の拳ほどの古い地球儀が陳列してある。この店に並ぶ品々の中で、たったひとつ見覚えのあったのが、かつて祖父の書斎で文鎮代わりに使われていたこの地球儀だった。手を伸ばし、日に焼けた球体を回してみる。鈍い回転を眺めている内、言葉が自然と口をついて出た。
「地球は、巨大な船の形をしている」

***

“この街を初めて訪れた時、私は一人の少女に恋をした。彼女は私と同じ年頃で、蜂蜜のように輝く髪と、ライムのように鮮やかな目を持っていた。一目で彼女に心奪われた私は、彼女の美しさを、可憐な微笑みを、熱に浮かされたように話して回ったものだ。しかし不思議なことに誰もが「そんな少女は見たことがない」と口を揃えるんだな。やがて出航の日がやって来て、私は彼女と別れの挨拶を交わした。初恋というものは、大方において成就せず終焉を迎えるものだと言われるが、私の場合も例外ではなかったということだ。
 けれども、運命というのは時に気紛れな悪戯をするものらしい。人生も終盤に差し掛かった今になって、私はあの初恋を辿り直そうとしている。こうして再びあの街にやって来て、私は心底驚いた。彼女は、全く変わっていなかったのだ。比喩などではなく、寸分の違いもなく、あの頃のままだったのだ。”

***

   颯爽と通り過ぎるだけだった彼女の自転車が、下手なハーモニカのような音をさせながら初めて店の前に停まった時、私の中に湧き起こった感情は、年ばかり大人になってしまってからはついぞ味わったことのない代物だった。告白するならば、私は少女の来訪に、まるで少年の頃のような懐かしい胸の高鳴りを覚えたのである。
 普段ならがたぴしと派手な音を立てるガラス戸を音も無く引き開け、入ってきた少女と面と向き合った時、先程までの昂揚感に一滴の冷水を垂らし込むかのような微かな違和を感じたような気がしたのだが、そんな一瞬の戸惑いは彼女が口を開いた瞬間に消え失せた。
「ねえ、あなたのおじいさんの話、聞かせてくれない?」

***

   幼い頃、地球が丸いって本当なの、と尋ねたことがある。すると祖父は、険しい顔で人差し指を唇に当ててみせた。そんなことを軽々しく口にしてはいけない。その答えは、とても危険な秘密に繋がっているんだ。ことによると、お前や私の命まで賭す覚悟を必要とするくらいにね。 それでも、お前は真実を知りたいかね?
 いのちをとす、という言葉の意味は分からなかったが、祖父の口調は私を脅えさせるに充分な凄味を含んでいた。恐る恐る頷いた私に、祖父は例の言葉を告げたのだ。地球は巨大な船の形をしている、と。
 咄嗟に思い浮かんだのは、つい先週末、祖父に連れていってもらった遊園地で見た、海賊船を模した船が右へ左へと振り子のように揺れる光景だった。そうだ、その通りだよ。あの海賊船は両端が反り返っているだろう? その片方の端が、万年坂なんだ。
「だから、いいかい、あの坂のてっぺんには、決して行ってはいけない。もしうっかり足を滑らせでもしようものなら、この世の外へ放り出されて二度と戻っては来れないからね」

***

   いくらなんでもそれは子ども騙しに過ぎるんじゃない? 少女は呆れたように眉を上げてみせた。
「確かにそうかもしれない。でも、真実かどうかは問題じゃないんだ。大切なのは、祖父が僕にそう信じさせようとしたことなんだよ」
 良く分からない、と少女は不満げに唇を尖らせた。そうだろうね、と私は笑う。
「ひとには上手く伝えられない類のことなんだよ、これは。……そうだ、それより、君に聞いてみたかったことがあるんだ」
 なあに、と彼女は蜂蜜色の髪を揺らしながら首を傾げ、ライム色の目をぱちぱちと瞬かせた。
「レッテピーノって、なんのことだい?」
 少女はしばらくの間、意図を測りかねたような表情で私の顔を探るように凝視していたが、やがてすっと視線を逸らした。
「……さあ、私には分からないわ」

***

「レッテピーノはね、百年も前の伝説に登場する少女なの」
 郵便局の女性職員は、私が手渡した熱い紅茶のカップを、大切そうに両手で包み込んだ。
「伝説……ですか」
 私は、戸惑いながら彼女の言葉を反芻した。今はもう存在しない人物に、どう「気を付けろ」というのか。
「昔この街では、海の神様へ感謝を捧げる祭りが、毎年行われていたの。街中の若い娘たちを船に乗せ、数日分の食べ物と水を積み込んで出航させるのよ。航路は風と波任せ。でもね、不思議なことに毎年、船は食糧がちょうど尽きる頃には港へ戻って来たそうよ。これも全て、この街が海の神様に愛されている証だって、昔の人たちは考えたらしいわ。娘たちが無事に帰ってきたら、選ばれたひとりが感謝の供物を捧げる。その特別な役割を担う少女に与えられる称号が、レッテピーノなの」
 詳しいんですね、と感心する私に、彼女はなぜか遠くを見るような目になった。
「子どもの時、母に教えられたの。この街最後のレッテピーノは、母方の遠い先祖にあたるひとなんだって。それでね、若い頃に興味を惹かれて調べてみたことがあるの。彼女は蜂蜜色の髪とライムのような色合いの目を持った、それは美しいひとだったそうよ」
「そじゃあ、あなたはレッテピーノの子孫というわけですか」
 ごく軽い調子で尋ねた私に、彼女は沈痛な面持ちで首を横に振った。
「いいえ、直接の子孫ではないの。レッテピーノに選ばれたその同じ夏に、彼女は亡くなってしまったから」

***

“私が故郷を離れて、もうかれこれ二十年が経つ。自分は郷愁などとは無縁の人間だと、ずっとそう思い込んでいたが、どういうわけか最近は、昔のことばかりが思い出されて仕方がない。私も、年を取ったということだろうか。
 そんなわけで、こうしてお前に手紙を書いている。投函するつもりはない。いつか、この街を訪ねるようなことがあったら、その時にはお前の手に渡るよう、手配しておこうと思う。
 私が創り上げた出鱈目な話を、お前はいつも面白がってくれたものだ。しかし、私があの世に召される前に、やはり真実は告げておいた方が良いと思う。私がなぜ、お前をひとり置いて旅立ってしまったのか、についてだ。
 あの頃、お前がまだ中学に上がるか上がらないかという年だったことを思うと、私の行動は無責任以外の何物でもなかっただろう。弁解をするつもりはない。ただ、私には果たさなければならない約束があった。若い頃、初めて愛した女性との約束だ。”

***

 黙り込んでしまった私に、郵便局員の彼女は明るい声で、そんな顔しないの、と笑った。
「もう古い古い話よ。昔々の物語。でもね、彼女が夭折したことが、今この街に残るレッテピーノの伝説を生んだのは事実よ」
「どういうことです?」
「この街ではね、こんな風に噂されているの。若くして死んだレッテピーノは、今も美しい少女の姿のままこの街を彷徨っている。彼女は自分が最期に見た季節を忘れられず、毎年夏になると、その哀しみに共鳴してくれる相手を探す。彼女に魅入られた人間は、自分の人生の中で最も輝かしい夏の思い出に囚われ、やがて秋が来ると死者の世界へ連れ去られてしまう……とね」
 だからあなたも気を付けて、と彼女は朗らかに私の肩をぽんぽんと叩いた。
「もしも、この街で心惹かれずにはいられない綺麗な女の子と出会ったら、そして昔の夏ばかり思い出されるようになったら、彼女はレッテピーノかもしれないんだから」
 立ち去り際、あなたの淹れてくれる紅茶は美味しいわ、と彼女は微笑んだ。
「おじいさんもお茶の淹れ方が巧かったの。真夏に熱い紅茶なんて気が知れないって言いながらも、私の好きな茶葉をいつも用意しておいてくれたわ。そういえば、彼は真冬でも冷たいレモネードを切らしたことが無かったの。あれは、誰のためだったのかしら」

***

 祖父の古い日記帳には、レモン果汁と蜂蜜の分量から、氷は何個入れるべきかという点に至るまで、細かく作り方が指示してあった。いつも通りレモネードを手渡しながら、私は努めてさり気無く切り出した。
「僕の作るレモネードは、じいさんの味に似てたかい?」
 少女は、祖父の手紙にあった通りの美しい目を零れ落ちそうな程に見開き、驚きと恐れの入り混じったような表情で私を見上げた。私は、今しがた自分が放った台詞を途端に後悔する。こんな風に、一方的に真実を突き付ける権利が自分にあっただろうか。私だって、まだ彼女に本当のことを話していないのに。
 やがて、何かをはねのけるような仕草で彼女は顔を上げた。そうね、と呟く声は微かに震えているが、それでもどこか晴れ晴れとした微笑を浮かべている。
「全く同じではないけれど、まあ合格点だわ」
 そりゃどうも、と私は肩を竦めた。

***

 郵便局の女性職員からレッテピーノの伝説について話を聞いた後、私は街中で、彼女について誰彼となく尋ね歩いてみたのだった。年の頃は十代半ばに届くか届かないかといったところ、蜂蜜色に輝く真っ直ぐな髪に、ライムに似た澄んだ瞳を持つ、美しい少女を知らないだろうか、と。案の定、返ってくる答えはどれも同じ、「そんな娘はこの街にはいない」というものだった。
 歩き疲れ、重くなった足を引き摺って急坂を上りながら、何故か私はくつくつと笑い出していた。今の自分は、恋した少女のことを必死で聞き回ったという若き日の祖父と同じではないか。

***

 誰も私のことを知らないのね。彼女は寂しげに目を伏せた。
「牛乳配達の彼だけは、どうやら君の気配に気付いていたみたいだ。でも、姿までは見えていなかったらしい。僕が似顔絵を描いて見せても、知らないと言っていた。まあこれは、僕の絵がまずいせいかもしれないけどね」
「……あなたのおじいさんもね、字はとても美しいのに絵はてんで下手だったわ。そんなところはそっくり。やっぱり家族なのね」
 彼女の台詞が、私の胸にちくりと刺さる。そうじゃないんだ、と喉元まで込み上げた言葉を、私は辛うじて飲み込んだ。
「僕の祖父は、君と昔ある約束をしたそうだ。それを果たすために、再びこの街へ帰ってきたんだと」
 そして、二度と戻らなかった。突然、眩暈がする程の感情のうねりに襲われて、私はきつく目を閉じた。
「……嘘なの」
 囁くような声に、ようやく瞼を開けると、少女は酷く真剣な目で私を見つめていた。
「嘘?」
「この街が“不沈艦”だなんて、そんなのは嘘。本当はね、一隻だけ大きな嵐に遭って沈んだ船があるの。でも、そんな記録はどこにも残されていない。私は、その船に乗っていたのよ。遠くに住む親戚のところへ行くために」
 そして、私は死んだの。毅然と頭を上げて、彼女は静かにそう告げた。

***

 “私はその船を弔いたい、と彼女は訴えた。誰にも知られないまま、海の底で朽ちて行った船の魂のために墓を造り、花を手向けてもらいたいのだ、と。
 しかし、その当時の私はといえば、下っ端も下っ端の見習い船員、とても彼女の願いを叶えることはできなかった。だから、私は彼女に誓ったのだ。いつかきっと、自分はこの街に戻ってくる。その時には、必ず彼女の想いを遂げる手助けをする、と。
 結局、私は彼女を何十年も待たせてしまった。それでも、彼女は私を忘れてはいなかったのだ。今、私は彼女と共に、忘れられた沈没船の墓を守っている。港からは最も遠い場所で、船は静かに眠っている。”

***

  「万年坂を下ったところには、君の乗っていた船の墓があるんだね」
 少女はガラス戸の向こうに見える急斜面に目を遣りながら、こくりと頷いた。
「ええ、そうよ。あなたのおじいさんと私が造り、ふたりで守ってきた船のお墓」
 そして、そこは彼女の墓でもあるのだ。
「あなたに初めて会った時、一目で分かったわ。このひとは、彼の血を受け継いだ人だって。あなたは、あのひとと同じ目をしてるんだもの。だから私、思ったの。あのひとの家族ならば、もしかしたらって」
 彼女は、縋るような目で私を見つめた。
「私は、街の人たちが噂しているような恐ろしい亡霊なんかじゃない。ただ、忘れて欲しくなかっただけ。だから」
 その先は、言葉にならなかった。しかし、彼女が何を言おうとしたのか、私には分かるつもりだった。だから、今度はあなたがあのひとの代わりに、私たちの墓を守って。

***

 良い目をしている、と祖父に言われたことがある。とうに現役を退いたとはいえ、甲板で浴び続けた陽光は祖父の膚にしっかりと染み込み、頑健そうな体躯や、少々のことには動じない剛毅さも、一切衰えてはいなかった。どちらかといえば小柄で神経質な子どもだった私には、外見においても性格においても、祖父と似通ったところなど、殆ど見当たらなかったのだ。祖父もきっと、口には出さなかったが、いつも生っ白い顔をした自分とは両極端な気質の孫を、内心歯痒く思っていたのはないだろうか。祖父と暮らした数年間、こっぴどく叱られた記憶こそないが、手放しで褒められたことも、またなかった。
 しかしたった一度、祖父が私のことを誇らしげに話すのを聞いたことがある。どんな場面でそんな話になったのかは覚えていない。ただ、祖父が私の頭を撫でながら、自慢げに言った言葉だけは、決して忘れられない。この子は良い目をしている、と祖父は言った。芯の通った強い目だ。そこはほら、私にそっくりだろう?

***

 搭乗手続きの開始までには、まだずいぶんと時間があった。旅行鞄に詰めてきた本は、思わぬ長逗留の間に全て読み尽くしてしまったし、店にあった祖父の蔵書は全て外国語で書かれていて歯が立たず、つまりはどうしようもなく手持無沙汰なのだった。
 祖父の手紙は、一度は旅行鞄に詰め込んだものの、散々迷った末、店にそのまま置いてきた。そうするのが、相応しいような気がしたのだ。
 あの街から次第に遠ざかるにつれ、十数通に及ぶ手紙をあの場所に残してきたことによる空白の重みが、手にした旅行鞄に圧し掛かってくるような錯覚に、私には囚われ始めていた。それは、あの場所に留まらないことを選んだ決意の重さ、あるいは、あの少女の失意の重さなのかもしれない。
 祖父の手紙には、確かに飾らぬ心情が綴られていたのだろう。しかしひとつだけ、それでも明かされなかった秘密がある。私は、鞄の中から祖父の日記帳を取り出すと、まだ何も書かれていないページを開いた。

***

 さよならも言わずに去ってしまった僕を、許してくれと言うつもりなどない。ただ、弁解の代わりに、僕が目を背け続けてきた真実を、君に話そう。
 僕と祖父は、本当の家族ではなかった。それを知ったのはつい最近、祖父が亡くなってからだ。どうして今まで確かめようとしなかったのか、と君は尋ねるかもしれない。僕は、恐れていたのだ。薄々感づいてはいた真相を、認めたくなかったのだ。あのひとが何故、短い間とはいえ僕の面倒を見てくれたのか、真意はもう知る術がない。ただ、あのひとも天涯孤独の身の上だったというから、良く似た境遇の僕に、何か通じるものを感じたのだろう。
 僕にとって、あの人はたったひとり「血の繋がった」家族だった。例え偽りであっても、僕はそれに縋りたかった。その記憶すら否定されてしまったら、僕は本当にひとりぼっちになってしまう。
 だから、僕は祖父との約束を破るわけにはいかない。それがどれほど馬鹿げた作り話であっても、僕の中に潜む子どもの自分が、「嘘などではない」と頑是なく首を振る限り、あの坂の向こうへは行けない。
 君に僕の想いを分かってもらうことは、きっとできないだろう。いつだったか君に同じことを言ったように、それはひとには上手く伝えられない類のことなのだ。

***

 万年坂のてっぺんで、世界は垂直に折れ曲がる。私にとっては今も、あの坂の向こうは世界の果てなのだ。

【THE END】

* 字書きさん・絵描きさん協作企画「いろは」参加作品(先行作品) *

企画管理・主催:中井かづき様




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