「赤い空 銀の鱗」



* 第二章 長い階段 *

“本当は、何が起こるのか気付いていたんだよね?”

 夕食の間中、僕はひっきりなしにしゃべり続けていた。このドームでの生活は、良くも悪くも規則正しく、予想外のことなどほとんど起こらないというのに、僕には母さんに話すべきことが何故か山ほどあったのだ。母さんは僕の他愛のないおしゃべりに、ずっと優しく微笑みながら耳を傾けていてくれた。時々、一息ついて周りを見回すと、僕たちの区域の子どもたちはみんな、同じような熱心さで母親に語りかけていた。普段は必要以上に大人ぶって見せる悠でさえ、いつもの澄ました態度はすっかり影をひそめていた。

 母親たちをドームのゲートまで見送っていった後、僕たちはそれぞれの自室に戻った。僕たち子どもは、ゲートの外に出ることを固く禁じられている。ドームの外にはまだ予期せぬ危険が多い、というのがその理由だった。母親たちが交代で夕食を作りに来るのも、同じ理由からである。しかし、具体的にどんな危険があるのかについては、何も知らされていなかった。
 部屋のベッドに仰向けに寝転んで、僕はさっきまでの母との会話を思い返してみようとした。
 少し見ない間にまた背が伸びたみたいね。僕の顔を見ると、母さんは真っ先にそう言った。もうドームの生活には慣れた?
 僕は少し笑って答えた。ねえ、母さん。こっちに来てからもう二年になるんだよ? ほとんど自分の家にいるのと変わらないさ。大丈夫、心配しないで。
 二年……。そうね、そんなに経つのね……。母さんは僕の頭を軽く撫でながら、どこか遠い目をしていた。あの時は、こんなに長い間、避難することになるとは思わなかったわ。
 そう、僕たちがこのドームに移り住んでから、もう二年の月日が経っていた。当初は誰もがこれは一時的な措置なのだと考えていた。地震や台風が襲った時のように、差し迫った危機が過ぎ去れば、すぐに家に帰れるのだと。しかし、一日が経ち二日が経ち、一週間、そして一ヶ月が経っても、帰宅許可は下りなかった。そればかりか、今までこのドームで共に生活していた大人たちに、こことは違う避難場所への移動が命じられた。両親の世話がなければ生きていけないほんの赤ん坊を除いて、子どもたちが親についていくことは許されなかった。大人たちが現在どこで暮らしているのか、僕たちは知らない。そもそも何故このドームを出なければいけなかったのか、それすら分からなかった。いや、僕たち子どもは何も知らされていないのだ。大切なことは、何一つとして。

 次の日の朝早く、僕は部屋のドアをノックする音で目を覚ました。欠伸しながら時計を見ると、針は午前五時を指していた。ノックの音はまだ続いている。僕はのろのろと起き上がってドアに向かった。こんな時間に、これほど遠慮ない叩き方が出来るのはひとりしかいない。そんなことを考えながらドアを開けると、案の定、そこに立っていたのは悠だった。
「いつまで寝てるのよ。今日は私たちが教室の掃除当番でしょ? 忘れてたの?」
 そういえばそうだった。だいたい一月に一度廻ってくる早朝の教室掃除を、僕はいつもあっさりと忘れてしまう。
「さ、早く顔を洗ってらっしゃい。もうみんな教室に向かってるわよ」

 このドームは、全部で二十五階からなる巨大な八角柱形の建造物である。僕たちが授業を受ける教室は、ドームの最上部にあった。
 ドームの中心部には天井まで吹き抜けの空間がある。一応、「公会堂」と呼ばれているが、単なるがらんどうの広間にすぎない。公会堂の周りは廊下で囲まれている。廊下と公会堂は天井まで続く壁で区切られており、そこに無数の窓が設けられていた。居住階には、八角形の一辺に二つずつ部屋が造られ、その内の一部屋は談話室、残りが個室として使われている。もっとも、僕たち子どもが宿舎として使用しているのは、一階から二十階までである。二十一階・二十二階は授業に使う教室、二十三階はコンピューターや書庫を備えた情報施設、二十四階は食堂及び台所兼貯蔵庫、二十五階は司令官を始めとするドーム管理者たちの私室になっている。各階の移動には、エレベーターか螺旋階段を使用する。慢性的な運動不足解消のため、僕たち子どもには階段の使用が推奨されているが、従う者はほとんどいない。かく言う僕も、普段はエレベーターに頼っていた。何も運動が嫌いなわけではないが、ただ螺旋階段をぐるぐると上っていくと、途中で目が回ってしまうのだ。

 しかし、そんな事情など悠はまるで意に介さない。だから、掃除当番の日だけは、眠い目をこすりながらはるか上階の教室まで階段を上らされる羽目になるのだった。
「ねえ、淕。おばさん、元気だった?」
「うん、元気だよ。最近、また少し太ったって言ってたけどね。昨日、母さんが着てたエプロン、憶えてる?」
「ええ。あの、青と白のストライプのエプロンでしょ? おばさん、いつもあれを着てるからよく憶えてるわ」
「あれさ、僕が何年か前に家庭科の授業で作って母さんにプレゼントしたんだ。それ以来、ずっとあのエプロンを使ってるんだけど、この頃だんだんサイズがきつくなってきたんだってさ。その内に着られなくなるんじゃないかって、気にしてた」
 悠はしばらくの間くすくすと笑っていたが、不意に真面目な顔で僕の方に向き直った。
「淕。おばさんね、昨日あんたのことをずいぶんと心配してたのよ」
「母さんが? どうして?」
「おばさんが言うにはね、こっちに来てから、あんたが急に理屈っぽくなったって」
「別に理屈っぽくなんてなってないよ。ここに来てからもう二年になるんだ。僕だって嫌でも成長するさ」
 悠は何も答えなかった。僕たちが階段を踏みしめるコツコツという音だけがまだ眠りの中にあるドームに反響している。

 やがて、悠がつと立ち止まった。何か言おうとして、けれども思い直したように口を閉じる。
「悠、なに?」
「……なんでもないわ。ずいぶん遅れちゃったわね。急ぎましょう」
 悠が急に足を速めたため、僕はついていけずにひとり取り残された。悠は、何を言おうとしていたんだろう。最近、悠はどこか変だ。……いや、ドームへ来てからというものの、悠は僕に対して妙に優しくなった。もちろん、何かと口うるさいところは変わっていないが、時々さっきのように言いかけた言葉を呑み込んでしまうことがある。いったい、どうしたというんだろう。
 ……もしかしたら、僕の父のことが関係しているのかもしれない。僕たちが避難した後も、街に残った父。「父さんはお前たちを守ってみせる」という伝言を最後に、ぷっつりと連絡が途絶えてしまった父。
 ぼんやりと考え事をしている内に、いつの間にか教室のある階に着いていた。廊下に仁王立ちになった悠が、ワックスがけ用のモップを片手にてきぱきと指示を下している。
「淕! そんなとこに突っ立ってないであんたも手伝いなさい」
 側に置いてあった雑巾とバケツを、強引に僕の手に押し付ける。悠は、すでにいつもの悠に戻っていた。



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