「眠る羽音は雨上がりの夢を見る」



 ロビーで見つけた彼の姿に、些か芝居じみた言葉を掛けてしまったのは、きっと天気のせいだろう。
 雨の日が舞台の映画は、もう一生分見尽くしてしまったような気がする。かつて貿易港として栄えた頃の面影などかき消えてしまった田舎町のホテルでは、娯楽と言えば図体ばかり大きな旧式のテレビくらいのものだ。見るともなし点けたままにした画面では一日中古い映画が放映されていて、ふと目をやるその度、そこでは何故かいつも雨が降っていた。音量調節のつまみが壊れているせいで、全く台詞は聞こえないというのに、場面を包んでいるだろう雨音だけは明瞭に響く。それもそのはずで、現実に窓の外は季節はずれの嵐がもたらした大雨に見舞われているのだった。背景音のみの画面に倦み、本でも読もうかとページを開けば、そこでもまた活字の隙間で雨が降っている。全く、どこもかしこも雨降りなのだ。

 容赦なく降り続く雫は、私だけでなく全ての宿泊客たちを、まるで透明な格子の如く部屋に閉じ込めていた。食堂やロビーで顔を合わせる度、私たちはお互いに同情を込めた眼差しを投げ合い、雨宿りを余儀なくされた者同士の会話には、不思議な連帯感と親近感が生まれ始めていた。奇妙な旅人の噂を耳にしたのは、そんな折のことである。
 世界各地をたったひとりで旅して回る、東洋人の青年がいるという。それだけならば、格別珍しい話題でもないが、不可解なのは彼が旅の目的地と定めた場所にあった。かの旅人は、火事が起こった場所を訪ね歩いているのだという。写真を撮るでもなく、何か記録を残そうとするわけでもない、ただしばし佇み、そしてまた次の土地へと歩み去る。その彼が、旅の途中で今、このホテルに滞在しているのだという。
 宿泊者のひとりが切り抜いていた地方新聞の記事には、彼の不鮮明な肖像が掲載されていた。私よりいくらか若いくらいだろうか、自分を捉えるカメラになどまるで頓着していない横顔が、印象的な写真だった。

 待ち合わせの約束を交わしたわけでもない見知らぬ者同士の気まぐれが、そう都合よく合致するわけもなく、彼と一度話をしてみたいという私の願いは一向に叶わなかった。毎日空を恨めしく見遣りつつ、出立の予定を今日までずるずる延ばしてきたが、もうこれ以上先送りするわけにもいかない。
 いつもより時間をかけて朝食を摂り、部屋に戻ると私はフロントに電話を掛け切符の手配を頼んだ。眠いような退屈と蕩けるような安穏とが織り交ざった猶予期間には、そろそろ別れを告げねばならない。到着した時よりも幾分重くなったようなスーツケースをひきずってエレベーターを下りると、ロビーの中央に人垣が出来ていた。普段は色あせた造花が飾られている猫脚の丸机に、各々の部屋に据えられているものより数段立派なテレビが置かれており、人々はみなその画面に見入っている。放映されているのは、何かスポーツの試合らしい。降り込められた客たちに、ささやかな気晴らしをというオーナーの配慮なのかもしれない。
 いつにない騒々しさに包まれた中、それでもなるべく静かな席をと見回した視線が最後に留まった先、窓際にぽつりと据えられた隅のテーブルに、その青年の姿はあった。
 彼だ、とそう思った。東洋人の風貌は他に見当たらなかったし、なによりもテレビに背を向けているのは、ロビーの中で彼ひとりだった。

「雨は、嫌い?」
 唐突な呼びかけに振り向いた彼は、一瞬不意打ちを食らったように私をまじまじと見つめた後、取り繕うように数度瞬きした。
「いや……なんだか、驚いてしまって。まさか、こんなところで同郷の方と出会うとは思ってもみなかった」
「それは、私も同じ。……良かったら、コーヒーでも一緒にいかがですか?」
 喜んで、と目元を綻ばせた彼は、向かいの席を掌で示してみせながら、テーブルに置いていた銀色のライターに似たものを、慎重な手つきで胸のポケットにしまい込んだ。
「こちらへは、旅行でいらしたんですか?」
「ええ、そんなところです。あなたも、長い長い旅の途上なんですってね」
 僕をご存知なんですか、と目を丸くする彼に、私は思わず知らず微笑が浮かぶのを感じた。どうやら、話に聞いた印象とはまるで違う。目の前に座る青年は、身一つで放浪する頑健な求道者というよりも、初めての一人旅に胸躍らせる生真面目な学生のように見えた。
「この近辺では、あなたはなかなかの有名人なのよ? 流浪を続ける謎めいた若者がいる……ってね」
「……謎というほどの謎も持ち合わせていませんが。少なくとも、僕が酔狂な旅行者であることは、間違いないですね」
 伏し目がちに微笑む表情は、写真よりもずいぶん柔らかく見えた。着古した風のシャツに、草臥れたジーンズ、傍らの椅子には、旅行中の荷物を一切合財放り込んであるのだろう、歪な形に膨らんだリュックサックが、主人を見守る忠犬のようにうずくまっている。
「そういえば、先ほどの質問に、まだお答えしていませんでしたね」
「質問?」
「ええ。雨は嫌いかと、そう仰ったでしょう?」
 雨、と彼が口にした途端、水滴の窓を叩く音が応えるかのように一瞬大きくなり、私たちは思わず顔を見合わせた。

 コーヒーを運んできた若いウェイターは、見るからに退屈そうな顔をしていた。一際派手になった雨音に片眉を器用に持ち上げて見せ、何事か小声で愚痴を零す。訛りの強い早口は、正確には聞き取れなかったけれども、内容ならば察しがつく。酷い降りだね。もううんざりだ。
「全く、呆れるくらい良く降るわね。ねえ、雨になれば、火は消えてしまうでしょう。ならば、あなたの旅の目的からは、雨はあまり望ましくないんじゃないの?」
「そうでもないですよ。僕は、火事そのものを追っているわけじゃない。全てが燃え尽きた後を、確かめて歩いているだけです」
 曇ったガラスを無造作に手の甲で拭い、彼はその向こうにじっと目を凝らした。
「もし晴れていれば、このホテルからも僕が道標にしてきた煙が見えるはずなんですが。数日前に起こった山火事の煙なんです。山の頂には古い教会が建っていて、年中参拝する登山者が絶えないと聞きます。だから、この雨は文字通り恵みの雨なんだ。この地に暮らす人々の信仰を集めてきた聖なる場所を災禍から救ってくれた、守護の雨なんです」
 自分の僅か熱を帯びた口調に、彼は自ら少し照れたように笑った。
「僕は、火事が好きなわけではないんです。炎は全てを焼き尽くします。物も家も、それに結びついた思い出も、そして命すらも。その圧倒的な破壊から甦ることのできるものは」
 その時、ちょうどロビーの真ん中辺りから大きな歓声が沸き上がり、彼の言葉は句点を中空に投げ出すようにして途切れてしまった。

「雨は、お嫌いですか?」
 一瞬テーブルに下りた沈黙を掬い上げるようにして、彼は静かに口を開く。
「ええ、あんまりね。でも、雨そのものが嫌いというわけでもなくて……」
 言葉を探して、水煙の上がる街道に目をやる。彼が先ほど拭った窓は既にまた曇り始め、風景は再び度の合わない眼鏡を通したようにぼやけ、歪んで見えた。
「ねえ、あなたはこんな経験をしたことがないかしら。ふと目にした光景が、思いがけない記憶を呼び覚ます。脈絡のない情景同士が、自分自身にしか分からない秘密の回路で繋がっているの」
「分かるような、気がします。……僕には、稲が刈り取られたばかりの田圃に結びついた思い出がふたつある。ひとつは、小学生の頃の天体観測なんです。特別星に興味があったわけじゃないのに、その晩のことはくっきりと覚えている。吸い込むと鼻の奥が痛くなるほど冷たい空気も、うっかり転んだ時に膝を刺した稲藁の感触も。……そういう、ことでしょうか?」
「ええ、そう。上手く説明はできないけれど、そういうことなんだわ。……あれは、私がまだ髪の短い女子学生だった頃のことよ。図書館で本に夢中になっていたら、うっかり帰るのが遅くなって。外に出た時には、もう辺りは薄墨を流したように暗くなっていた。その上、傘も持っていないのに土砂降りの雨で。そんな中、信号待ちをしている私に、ひとりのおばあさんが道を尋ねてきたの。行き先がどこだったのかはもう忘れたわ。でもその時、自分がどう答えたかは、はっきりと覚えている。私は、こう言ったの。誰か別の人に聞いて下さい、誰か傘を持っている人に、と」
 視界の隅で、彼が黙ったまま頷くのが分かった。
「おばあさんは、向日葵柄の傘を差していたわ。そんなことまで、思い出すのよ。誰か別の人にと突っぱねた自分の素っ気無い口調や、家に帰り着いてからの後悔や、そういったものまで全部。……だから、雨の日はあまり好きじゃない」
 そこまで話してから、私は小さく息を吐いた。思い出話なんてするつもりじゃなかった、と呟いてみる。きっと、彼には聞こえなかっただろう。

「……当ててみましょうか」
  コーヒーカップに語り掛けるようにして彼がぽつりと投げた言葉に、私は一呼吸遅れて短く感嘆詞を零した。
「ここへ、あなたを導いた目的を、です。多分、あなたは何かを……あるいは誰かを探している。違いますか?」
 正解だとも的外れだとも答えなかった。けれども、目を見張った私の気配が、なによりの返答だったろう。図星でしたか、と彼は僅か悪戯っぽい上目遣いで私を見返した。
「何かしら探し物をしている人は、その纏う空気でなんとなく分かるんです。これまで旅を続けてきて、僕が身に付けたものといえば、この直感だけかもしれない」
「ええ、あなたの言う通りよ。私は……」
 そこで、しばし躊躇って私は言い淀んだ。再び、霞む街角に目をやる。向日葵柄の傘が横切ったような気がしたが、恐らくは蓋を開けられた記憶が見せた錯覚だろう。雨の日は、どうにも感傷的だ。けれども、その感傷に乗じて、誰かにこの旅の動機を打ち明けてしまうのも、悪くないかもしれない。
「私は、姉を探してここまでやって来たの。ちょうど、二年ほど前、突然いなくなってしまった姉を」
 彼ならば、自分自身でさえ掴みきれないおぼろげな衝動を、しなやかに受け止めてくれそうな気がした。

「姉は、誰にもなにひとつ伝えないまま、姿を消してしまったの。後に残されたのは、スクラップブック一冊だけだった。姉は……消えてしまった王国を探していたらしいの」
「消えてしまった王国……ですか」
「ええ。そして彼女は自ら、失われたその王国を探しに行ったんだと、私は思っている。……この街の外れに、閉鎖された港があるでしょう? その港から、今は幻となってしまったその国へ向かうただ一隻の船が出る。少なくとも、姉はそう信じていたようだわ。だから、私はここへやって来た」
 そして、雨に降り込められ身動きもできなくなっている、と私はひとり自嘲気味に胸の内で思う。姉が軽やかに飛び越えて行った境界を求め、その前に辿りつくことすらできず右往左往している。
「この町についたその日、私は港まで行ってみたの。けれど、誰もそんな船なんて知らなかった。たとえ船が出るとしても、こんな悪天候では無理だと言われたわ」
 新聞や雑誌の記事、そして本のコピー等が、姉らしい几帳面さで切り貼りされたノートの隅々までを、私は殆ど諳んじることができるほどに何度も読み返した。しかし私は、姉を駆り立てたものの正体を、未だ読み取れずにいる。
「……不死鳥の夢、と姉は最後に一言そう書き残していたわ。夢に不死鳥が現れたのか、不死鳥が見た夢なのか……私には分からないけれど」
 いえ、と低く呟いて、彼は海の底から上がったばかりの潜水夫のように深く大きく息を吐いた。
「不死鳥に見せられた夢……です」
 胸ポケットの辺りにまるで誓いでも立てるかのように片手を当て、しばし逡巡するように俯いた後、彼は決然と顔を上げた。
「そこから先は、僕が引き受けるべきなんでしょう」
「あなた……が?」
「ええ。あなたのお姉さんが辿った回路は、どこかで僕に繋がっているようです」
「回路?」
 田圃に秘められたもうひとつの回路です、と彼は厳かでさえある口調で告げた。

「僕が彼に出会ったのは、一昨年の秋のことです。彼は、田圃の真ん中にひとりすっくと立っていました。と言っても、その立ち姿は颯爽という言葉からはかけ離れたものでした。その日は風の強い日で、僕などは上着の襟をきつくかき合わせていたというのに、彼の回りではコートやら背広やらネクタイやらが盛大にはためいて、思えばその違和感が僕の目を惹いたのかもしれません」
 彼はそこで、殆ど手をつけていないコーヒーカップを注意深い手つきで口元に運んだ。中身はきっとすっかり冷め切っているだろうと、私はまるで関係のないことを考える。
「振り向いた彼は、外国の風貌をした老紳士だったのですが、しかし思いがけず流暢な言葉で、御機嫌よう、と僕に声を掛けました。そして、まっすぐに空を指差し、私はあの雲と共に旅をしているのです、と言いました」
 右手の人差し指を伸ばし、彼は自分の頭上を指した。つられて見上げた先に、もちろん雲など浮かんでいるわけもなく、ただ鱗に似た染みが無数に広がっていた。
「生憎、空はどんよりと曇っていて、彼が示す道連れというのが一体どの雲のことを指すのか、僕には見分けられませんでした。何もかもが移ろっていっても、雲だけは今も昔も変わらず私を見守ってくれています、とそう続けた彼の口調はひどく寂しげで……それで僕は、その場を立ち去ることができなくなってしまったのです。もしそこでさっさと引き返していたならば、きっと僕は今こんなところにはいなかったでしょう。
 どこに行こうとしているんですか、と訊いてみると、彼は私に聞いても分かりませんよ、と笑って首を振りました。全ては雲の赴くままです、と。そして不意に真面目な顔になって、ここであなたに出会ったのも何かの縁だ、あなたに私の秘密をお教えしましょうと、そう言ったのです」
 彼はそこで、胸ポケットから銀色をした小さなものを取り出し、ことりと小さな音を立ててテーブルの上に置いた。
「実は自分は不死鳥の末裔なのだ、と彼は僕に告げました。その証拠にと見せてくれたのが、この銀の小箱です」
 軽く私の方へ押しやられたそれを覗き込むと、表面には凛と首をもたげ羽を広げた鳥の姿が刻み込まれていた。不死鳥、と確かめるように呟いた私に、彼は頷いて見せる。
「不死鳥は、自らの身を炎に投じ、その中から新たな命を得て甦る。これは、その再生を司る灰を収めておくための箱なのだそうです。ここに刻印されているのは、今は滅んでしまったある王国の紋章なのだと、彼は言いました。そして自分は、その国でやがて王となるべき人間なのだ、と。王国再興の日は必ずやって来ます、と彼は熱っぽい口調で続けました。その日が来たらあなたも我が国を訪れるといい、これは招待状の代わりです、と彼はこの小箱を僕に手渡しました。思えばその時、僕は彼が見た夢の欠片をも共に受け取ったんでしょう。
 彼は、長旅で草臥れているとはいえ、造りも布地も上質な衣服を見につけていました。きっとそれは、王族として暮らした日々の名残だったのでしょう。ボタンやネクタイピンやら、そうした装飾品には、王家の象徴である気高き鳥が刻まれていたに違いない。だから彼はそれを、旅先で自分の話に耳を傾けてくれた人々に、己の夢の分身として、ひとつずつ預けていったんじゃないでしょうか。そして、この小箱は、彼が託すことのできる最後のもの……形見のようなものだったのだと、今は思います」
 彼は、眩しいものでも見つめるように目を細めた。彼の脳裏にはきっと、その日の光景が鮮やかに投影されているのだろう。
「帰る途中、僕はもう一度振り返ってみたのです。……或いは、それはただ雲の切れ目から夕日が差したというだけだったかもしれません。けれども僕には、炎にまかれて燃え上がる彼の姿が、確かに見えた。……見えた、と思ったんです」
 不死鳥の夢です、と彼は噛み締めるように呟いた。
「僕は、そしてきっとあなたのお姉さんも、彼と同じ雲の下に立ち、同じ夢を見たんだと思います。そして未だ醒めないままに、僕はこんなところまで来てしまった。こんなところでまだ、見当違いな灰を掬い上げ続けている」

 彼が口を噤んだ途端、まるで閉幕のチャイムのように、置時計が重々しい鐘の音で時を告げた。いつの間にか二周りした短針は、まるで魔法が解けたように、切符に印刷された時間を私に思い出させた。暇を告げるつもりで開いた私の唇は、気付けばまるで別の言葉を吐き出していた。
「この雨は、私が降らせたのかしら」
 物問いたげな視線から逃れるように、私はテーブルに置いた指先を睨みつけた。
「姉は、あるいは姉の探していたその場所は、私の来訪を拒んでいるのかしら。お前はここに来るべき人間じゃない、招かれた者じゃない、と。だから、この雨は……」
 違いますよ、と彼は厳しくさえ聞こえる断固とした口調で私をさえぎった。
「これは、他の旅行者から聞きかじった受け売りですが……この町の雨はずいぶんとおしゃべりなんだそうです。例えば、傘がいらない程度の霧雨ならば、"砂糖壷が空だ″と降る。もうすこし大粒の雨ならば、"もうパンは焼けたか″と聞こえるそうです。そして」
 彼はそこで僅か身を乗り出し、柔らかな色を瞳に浮かべた。
「そして、今日のような大雨は"まだその時じゃない"と、降るのだそうです。だから……あなたにとって、そして僕にとっても、つまりはそういうことなんでしょう」
「……まだ、パンが焼けていないのね」
 湿ってしまった声で呟いた、あまり出来の良くない冗談に、それでも彼は晴れやかな笑顔で頷いた。
「では、また。今度はきっと、晴れた日に」
 もうすぐ雨は上がります、と予言めいた彼の言葉に背を押され、私は立ち上がった。

 数週間後、差出人のない絵葉書が届いた。消印はまるで大粒の雨に打たれたかのように滲んで読み取れなくなっていて、きっとこれが最後の雨だったのだろうと、私は思った。

【THE END】

* 企画本「ココハコ」参加作 *




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