「三月兎とバラッド・オレンジ」



 イヤホンを外し、本のページから目を上げた途端、鼻先にほわりと柔らかな香りが漂った。思わず、つられるようにして周囲を見回す。通路を挟んで斜め向かいの席、部活帰りらしい坊主頭の少年たちが、コンビニの袋から肉まんを取り出しながら、あっけらかんとした笑顔を見せていた。

 そういえば、私は空腹なのだった。次の停車駅を告げるアナウンスと共に、窓の外を流れる景色が段々と速度を落とす。祖母は今頃、本場仕込みだと豪語する午後三時のお茶会にむけて、スコーンの生地をこねているだろうか。焼きたてのスコーンにサンドウィッチ、小さな焼き菓子に色とりどりの果物、そして丁寧に入れた紅茶。食卓にテーブルクロスを広げ、茶器やお菓子を並べ終わると、祖母は決まってぱんとひとつ手を叩き、まるで貴婦人のように宣言する。さあ、お茶会を始めましょう。
 祖母が大事にしているお茶会用の食器類は、青味がかって見えるほど澄んだ白色で、ティーカップの取っ手などは砂糖でできているかのように繊細だった。割りはしまいか、と固くなる幼い頃の私に、良い食器は使ってこそ意味と価値があるのよ、使いこんだ上で割れてしまったのならば残念がることはないのよ、と祖母は諭すように言ったものだ。
 この本核的なお茶の時間を、祖母は「三月兎のお茶会」と呼んでいた。三月兎とは、どうやら祖父のことらしい。どうしてそんな呼び方をするの、と尋ねると、祖父は決まって仏頂面になるので、私は未だその由来を知らない。不機嫌そうな顔で紅茶を啜る祖父に、祖母はいつも澄ました口調で言ってのけるのだ。あら、褒めて差し上げてるんですよ?

 つらつらとそんなことを思い出していた私は、突然に間違って飴玉を飲み込んでしまった時のように、はっと息を詰めた。膝の上に載せた、どうにも収まりの悪いかっちりした革の鞄の中で、ひっそり息を潜めている黒いワンピースのことが、頭をよぎる。あなたももう大人の女性なんだから、と華奢なコサージュが美しい仕立ての良いスーツと共に、このワンピースを選んでくれたのは、他でもない祖母だったというのに。
 私は、その祖母を見送るため、この電車に乗っているのだ。

 午前八時。長期休暇中の常に逆らって、そんな時間に私の目を覚ましたのは、枕もとに放り出しておいた携帯電話が低く唸る振動だった。半分眠ったままの頭で手を伸ばし、やっと掴み取った携帯電話の表示窓には、実家の番号が並んでいた。
 陳腐な言い方をすれば、それは虫の知らせというものだったのかもしれない。手のひらの上で小さな機械が身を震わせる様が、なぜかひどく必死に見えて、私は慌てて送話ボタンを押したのだ。
 聞こえてきたのは、思いがけず祖父の声だった。初菜か、と尋ねられて、うん、と頷く。我ながら、ぼんやりした声だった。同時に、怒られるかもしれない、とも思った。洒落者の祖父は、だらしのなさを何よりも嫌うのだ。しかし、意外にも祖父は小言ひとつ返さなかった。沈黙が数秒続く。電話越しだと、無言の間はひどく重く、そしてひどく長く感じられた。耐えかねて、どうしたの、と聞き返そうとした時、やっと祖父は投げ出すように次の言葉を口にした。
「千代美が逝った」
 どこへ、と咄嗟に聞き返そうとして、私は絶句した。違う。そうではないのだ。言葉をなくした私には頓着せず、祖父は淡々と……少なくとも思考が一時停止してしまった私の耳にはそう聞こえる口調で、用件のみを並べ立てた。葬儀は明日行われること、都合がつくならばできるだけ早くこちらに帰ってきて欲しいということ。
 それじゃあ、と言い残して祖父が通話を切った後も、私はしばらく携帯電話を耳に当てたまま、ベッドの上にへたりと座り込んでいた。今聞いたばかりの話が意味を成したのは、固く握り締めていた指先が冷えた室温にかじかみ始めた頃だった。千代美、というのが祖父の妻、つまりは私の祖母の名前だということ。そして、その祖母が亡くなったのだということ。血の気の失せた両手を擦り合わせながら、私はどこか詩を暗誦する時にも似た熱心さで、そのふたつの事実を繰り返し噛み締めていた。繰り返し繰り返し、不意打ちの衝撃が、感情という温度を伴って胸の内に沈み込むまでずっと。

 実家の玄関では、母と叔母が私を出迎えてくれた。無言の挨拶を交わしたあと、私はふと思いついて、おじいちゃんは、と尋ねた。ふたりは軽く顔を見合わせるような仕草を見せた後、小さく頷きかけて家の奥へ手のひらを向ける。私も軽く頷いて、促されるまま奥の間へと向かった。
 祖父は、祖母の枕もとに正座していた。これから繁華街へでも繰り出すかのように隙なく身支度を整えた祖父は、すっくと背筋を伸ばし、みじろぎひとつせず祖母を見守っていた。おじいちゃん、と囁くように声をかけると、僅かに振り向いて、初菜か、と目だけで微笑んだ。私も、ほんの少し笑みを返す。
「一張羅だね、おじいちゃん」
「ああ……。千代美を見送るんだからな、下手な格好なんてできやしない」
 そっと祖父の側に歩み寄る。祖母は、ほとんど真っ白になった髪をゆったりと一本の三つ編みにして、静かに目を閉じていた。

 祖母はいつも、私のことを「ニーナ」とカタカナで呼んだ。
 私の名付け親になったのは祖父だという。しかし祖父は、この耳慣れない音の名前をどうして選んだのか、その理由を頑なに教えてはくれなかった。私が真相を知ったのは高校生の頃、祖母に連れられて古いフランス映画を見に行った、その帰りのことだ。
「ね、ニーナ。さっきの映画でね、ヒロインが洋服店で絹の靴下を買う場面を、覚えてる?」
 覚えている、と答えると、祖母は悪戯っぽく微笑んだ。
「あの場面で、ヒロインに靴下を手渡した、若い女性店員がいたでしょう? 短いまっすぐな黒髪で、鼻が少しつんと上を向いていて。あの女優さんは、名前をニーナ・エルヴィーユと言うのよ。あまり有名なひとではないんだけれど、おじいちゃんは昔から彼女の大ファンでね」
 あ、と私は目を丸くした。
「もしかして、私の名前は……」
 そう、と祖母は楽しげに頷いた。そういえば、いつか写真で見た若い頃の祖母は、スクリーンの中のニーナと同じような髪形をしていた。私がそう言うと、祖母はまるで少女のような笑顔を見せた。
「おじいちゃんが、君は彼女に似てるね、髪を短くしたらきっと似合うはずだ、なんて言うもんだから、私もついついその気になってね。でもね、ニーナ」
 そこで祖母は、とっておきのお菓子の在り処でも教えるように、声を潜めた。
「彼女が銀幕デビューを果たしたのは、おじいちゃんが私と出会った後なのよ」
 その時の、どこか誇らしげで、でもどこかはにかんだような笑み。それは、私がこれまでに出会った最も愛くるしい笑顔として、脳裏に深く刻み付けられている。

 目の前に横たわる祖母の表情は柔かく、微笑んでいるようにさえ見える。けれども、あの華やぐような笑い声も、身にまとう温かな空気も、そこにはもうない。
「良く、眠っているような穏やかな顔、と言うだろう」
 ぽつりぽつりと、私に語り掛けるともなく、祖父は呟く。
「あれは、表現としては間違ってるな。確かに今の千代美は穏やかな顔をしてはいるが、でも眠っているようには見えない。眠っているなら、いつかは起きるはずだからな」
 祖父の声は、電話口と同じように、妙に薄っぺらく聞こえる。けれどもそれが、溢れんばかりの想いを無理矢理飲み込んだ故の結果なのだということに、私はようやく気がついた。
「……ほら、もう三時だな」
 祖父に言われて、私は壁の時計を見上げた。お茶会にしましょう、と歌うような声が聞こえた気がして、私は膝の上で拳を握り締めた。

 祖父が突然姿を消したのは、翌日の午前九時半頃のことだった。おじいちゃんがいないのよ、朝ご飯の後で外出用の背広に着替えていたのは知っていたんだけれど、まさか出かけるつもりだとは思っていなくて、と叔母は困惑し切っている。
「外出用の背広?」
「ええ。初菜も見たことあるんじゃないかしら。あなたが生まれた時、初孫と写真を撮るんだからって張り切って新調した、杉綾織りの背広なの。多分、おじいちゃんが一番気に入ってる服じゃないかしら」
「それを着て、出かけたの?」
「ええ、多分。そうだと思うんだけれど……」
 でも、どこへ。困ったように窓の外と時計を見比べている叔母に、私は大丈夫よ、と請け合って見せた。
「大丈夫。すぐ帰ってくるわ」
「それは分かっているけれど、でも……」
 大丈夫、と私はもう一度繰り返した。叔母はまだ不安げな顔をしている。けれども、私にはひとつ確信があった。祖父はきっと、デパートへ出かけたに違いない。

 あれは、何年か前の夏休みに帰省した時のことだ。
 お待たせしました、と可愛らしい声のウェイトレスが運んできたグラスを前に、私はしかめ面をしていた。
「どうしてオレンジジュースなんて頼んだんだ? ジュースなんて子どもの飲み物だから、もうこれからは飲まないと、初菜はいつかそう言ってただろう?」
 そんなこといつまでも覚えてないでよ、と私は少し拗ねて見せる。あれは、私が中学校に上がった年のこと、今祖父と向かい合っているちょうど同じこの席で、私は確かにそう宣言したのだ。もうジュースなんて頼まない、私は大人なんだもの、と。しかし、紅茶は祖母の淹れたものが一番だと確信していた私が他に注文するものといったら、コーヒーくらいしかなかった。祖父の分のミルクと砂糖まで拝借して、ようやっとカップを空にしたことを、今でもよく覚えている。
「だって、ほら……」
 私は、メニューの一部を指差しながら、祖父の方へ押しやった。
「ブラッド・オレンジのジュース。そう書いてあったから、頼んだの。普通のオレンジジュースが出てくるって知ってたら、頼みやしないわ」
「ブラッド・オレンジ?」
「そう。文字通り、真っ赤なオレンジなの。トマトジュースみたいに真っ赤。でも、味はちゃんとオレンジジュース。ねえ、面白いでしょう?」
 祖父は、呆れたように片方の眉をくいっと持ち上げてみせた。
「そんな物騒な名前は、好みに合わん。バラッド・オレンジの方がよっぽどましだ」
「バラッド・オレンジ?」
 今度は、私がきょとんと聞き返す番だった。
「ああ、初菜は知らんだろうな。バラッド・オレンジというのは、香水の名前だよ。初めて千代美と海外へ旅行に行った時、古い商店街の香水店に置いてあった。千代美はそれがいたく気に入ったようでな。確かに、橙色の濃淡が綺麗な瓶だった。名前に因んでいるんだか、蓋がト音記号の形になっていて、なかなかに洒落た造りだったな」
「ふうん。どんな香りなの?」
「知らん。オレンジというからには、柑橘系なんだろうが」
「買ってあげなかったの?」
 思いのほか私の言葉は責めるような響きを含んでいたらしい。祖父は少し慌てたように片手をひらりと降った。
「いや、その頃は高価な品物だったんだ。千代美もずいぶん残念がってはいたがな」
 ふうん、ともう一度呟いて私は背の高いグラスの中身をストローでかき回す。久々に飲んだオレンジジュースは、どこか懐かしい味がした。期待していたものとはまるで違っていたけれど、懐かしいと感じる自分がちょっと大人になったようで、それはそれで少々気分が良かった。そう思ってから、これでは中学生の頃の背伸びと変わらないと、我ながらおかしくなった。
「千代美は、な」
 再び口を開いた祖父は、アイスコーヒーをストローなしで一口啜り、顔をしかめてグラスを脇へ除けた。氷が溶けたコーヒーなんて薄くて飲めたもんじゃない、と小声で文句を零す。
「千代美は、よっぽどそのバラッド・オレンジが心残りだったらしい。何度も何度も、それこそ耳にタコができるくらい、あんな綺麗な香水は他に見たことがないわ、と繰り返しておる。あの当時は珍しい品物だったが、今じゃあちょっと大きなデパートに行けばごく普通に並んでいるんだ、買ってくれば良かろうに」
「……なんだ」
 私は、わざと意地悪く目を細めて祖父の顔をみやった。
「今ならデパートに置いてある、だなんて、おじいちゃんも気にしてたんじゃないの」
 祖父は、しまったという風に目を見開いた。途端に、誤魔化すような早口になる。
「いや、偶然だ。偶然見かけただけだ。だから、その、今ならすぐ手に入るだろうと私は言うんだが、そうすると千代美は大げさに溜息なんぞついて、あなたは本当に何も分かってらっしゃらないのねえ、とくる」
「そりゃあそうよ。だって……」
 そこで言葉を切ったのは、祖父が難しい数式の答えを教えてもらうのを待つ生徒のよう目で私を観察していることに気付いたからだ。私は心もち顎をそらせて見せると、にっこり微笑んだ。
「それは、おじいちゃんが自分で考えた方がいいわね。その方が、おばあちゃんも喜ぶだろうし」
 そう言うと、祖父はそんなもの考えたって分かるものか、とそっぽを向いてしまった。

 しかし、口ではそう言いながらも、祖父は祖母の小さな期待を察していたに違いない。常にぶっきら棒な態度を装いつつ、その実誰よりも妻想いだった祖父のことだ、ただただ、香水を贈る自分というのが、照れくさかっただけなのだろうと、私は思う。だからきっと、祖父はデパートに出かけたのだ。もうすぐ、華奢で華麗な小さな包みを提げて、帰ってくるだろう。

 棺の中の祖母は、いつもより小さく見えた。淡い笑みを浮かべた口元も、あらずい分窮屈なのねと苦笑しているように思えてくる。綺麗に編んであったはずの三つ編みが少し乱れていて、思わず手を伸ばそうとしたその時、背後からやけに音高い足音が聞こえてきた。
「おじいちゃん」
 片手に小さな紙袋を提げた祖父は、私の側までやって来ると棺に納まった祖母の顔を見下ろし、どこか痛むかのように顔をしかめた。一度、大きく震える息を吐くと、紙袋の中から何か小さなものを労わるような手つきで取り出す。そっと握った手の中から、ト音記号が顔をのぞかせている。
「あの頃とは、瓶が変わっていてな。橙色の小瓶は見つからなかったんだが」
 どこか申し訳なさそうな祖父の口調は、隣の私にというよりも、祖母に語り掛けるようだった。手にした小瓶を開けた祖父は、香りを確かめるように鼻先を近づけると、満足そうに頷いた。
「遅くなって、済まなかったな」
 そして、やおら瓶を傾けると、眠る祖母の枕もとに数滴、ほんの僅かにオレンジがかってみえる透明な香水を振り掛けた。棺の周りをゆっくりと歩みつつ、数滴、また数滴。やがて、むせ返るような柑橘系の香りが立ち昇る。ああ、と私は知らず呟いていた。ああ、これが……。
「バラッド・オレンジ……」
 爽やかというよりも圧倒的な香りに包まれながら、私は体の奥から熱い塊が押し寄せてくるのを感じていた。上品で茶目っ気があって、貴婦人のように優雅で少女のように愛らしい、そんな祖母が、あんな綺麗な香水は他にないと言うほどに愛した、これがバラッド・オレンジなのだ。

 棺をぐるりと一周して戻ってきた祖父は、半分以下に中身の減った小瓶を、しゃくり上げる私に素っ気無く差し出した。
「残りは、お前が持っていろ」
「でも、おじいちゃんは……」
「私はいらん」
 跳ね除けるような言葉の語尾が、わずかに湿って聞こえた。はっとして顔を上げると、きかん気な子どものように引き結んだ祖父の唇が、細かく震えていた。見つめている私に気付いて乱暴に顔を背けたその一瞬前、こちらを向いていた偏屈そうな横顔が、残像のように焼きつく。私はその時確かに、祖父の涙を生まれて初めて目にしたのだった。

 葬儀の翌日は、ぬるま湯のような虚脱感の中を漂うように過ぎていった。母や叔母たちは忙しく立ち働いているようだが、かえって足手まといになってしまう私に手伝えるような仕事はないようだった。祖父は自室にこもったきり、朝食にも昼食にも顔を見せなかった。
  腑抜けたように座り込んでいると、時間はひどくのろのろと進む。いっそこのまま失速して、いつか止まってしまうのではないかと思うほどに。だから私は、しょっちゅう時計に目をやっては、まだ針が動いていることを確かめるのだった。時刻は、午後二時十五分を指している。祖母が、愛用のボールや天板をいそいそと台所に並べ始める時間だ。そういえば、祖母が台所で立てる物音は、なぜかどれもこれも楽しげに聞こえたものだった。でも今はもう、いくら耳を澄ましても、あの暖かな音は聞こえてこない。空っぽの台所はやけに冷たくて、私は慌てて目を逸らした。
 この先、お茶会という言葉を聞くたび、三時を示す時計の針を目にするたび、私は祖母を思い出すだろう。いつか、この胸に穴が空いたような哀しみが優しく溶けてしまう時が来ても、祖母に繋がるキーワードに出会うたび、私の心はそこで一瞬立ち止まることだろう。時刻は、午後二時四十分。紅茶用のお湯を沸かし、ティーセットを用意する頃合だ。
 そうだ、紅茶を淹れよう。祖母のように上手くはいかないだろうけれども、それはきっと、私なりの弔いになるだろう。立ち上がった私の目に、誰もいない台所は、もう寒々しい場所とは映らなくなっていた。

 食卓には真っ白なテーブルクロス、祖母愛用のアフタヌーンティーセットには、ありあわせのお菓子を乗せる。音もなく時を刻む砂時計を横目で確かめながら、温めたティーカップを人数分並べる。
 準備が整ったところで、私はいつも祖母がそうしていたように、数歩さがってテーブルの上を見渡した。どこかちぐはぐな印象は否めないけれども、なんとか様にはなった、と思いたい。これまた祖母の真似をして、ぱんとひとつ手を叩いてみる。その途端、甘く香ばしいスコーンの香りが、幻のように一瞬漂ったような気がして、鼻の奥がつんと痛んだ。くしゅんとひとつ鼻を鳴らしてから、私はもう一度、今度は自分のために手を打ち鳴らした。そして、その場に立ったまま、三時を告げるべく素っ頓狂なほどの大声を張り上げた。家中の皆に届くように。できることならば、祖母にも聞こえるように。

 意外にも、一番先にやって来たのは祖父だった。まるで、昼寝から無理矢理起こされた子どものような顔をしている。終始俯き加減のその瞼が腫れぼったいことに、私は気付かないふりをした。
 テーブルの上に目を留めた祖父は、しばらく黙りこくったまま、急ごしらえのお茶会の首尾をじっと眺めているようだったが、やがて軽く唇の端を吊り上げるようにして、悪くないじゃないか、と呟いた。
「しかし、お茶会に出るには相応しくない格好だったな。ちょっと、待ってくれ」
 立ち上がった祖父は、鏡の前に立つと、悠々とした仕草でネクタイの歪みを直し始めた。シャツの襟を整え、髪を撫でつけようとしたところで、ふと手を止める。
「初菜」
「なあに?」
 真っ赤になった目をしばしばと数回瞬かせた祖父は、鏡をのぞきこむ私と目を合わせるように視線を上げて、本当に兎みたいだなと、小さく笑った。

【THE END】

* 「一夏の香水同盟」提出作 *



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