「猫のいる風景〜招き猫」



 また遊びに来てや、約束やで。母さんは百瀬さんの両手をきつく握り、何度も何度も念を押した。夏樹ちゃんはもう、うちの娘みたいなもんやさかい、遠慮はいらへんよ。
「はい。また来ます。絶対に」
 うんうんと頷きながら、母さんはエプロンの裾で目元を拭っている。百瀬さんが東京へ帰るのを一番残念がっているのは、どうやら母さんのようだった。
「兄貴は?」
 聞くと、母さんは大げさに眉を持ち上げてみせた。
「寝てるわ。なんぼ大声で呼んでも、蹴飛ばしても起きひん。ほんまにもう、薄情な子やわ」
「いいですよ、おばさん。京介君が送ってくれるんだから」
「ごめんな、夏樹ちゃん。そうや、なんやったら和哉の代わりに京介の……」
「アホッ。何ほざいてるんや。百瀬さん、そろそろ行こか」
「うん。それじゃあ、おばさん。お世話になりました」
 元気でなあ、またおいでやあ。歩き出した僕らの背中を、母さんの声が追いかけてくる。僕はため息をついた。
「朝っぱらからあんな大声出してからに。近所迷惑やっちゅうねん」
「元気なお母さんよね」
「元気すぎるんや、うちの母さんは。まあ、あんなんでよかったら、また会いに来たって。母さん、百瀬さんのこと、ほんまの娘みたいに思てるみたいやし」
「うん。また来るね。……また、いつか」
 ふっと、百瀬さんが口をつぐんだ。なんだか、ざわざわと胸が騒いで、僕は足を速めた。
「あたし、次の三月で大学卒業なの」
 再び、百瀬さんがゆっくりと話し出す。
「卒業したらね、あたし……、留学しようと思ってるんだ。日本を飛び出してね、もっと広い場所で、違う空気を吸ってみたいんだ」
 だから、しばらくの間は、会いに来れないね。そう言った百瀬さんの声は、昨日よりももっと淋しそうで、僕はその顔を見ることができなかった。
 最寄の駅までは、店から歩いて十五分ほどだ。入場券を買って、僕はプラットフォームまで見送りに行った。電車の到着まで、あと十分。なにかを言わなければいけない、そう思うのだけれど、なにをどう伝えればいいのか、まるで分からなかった。僕はただおし黙ったまま、唇をかんだ。刻々と時間が近づいてくる。
「……どのくらい?」
 ようやっと、僕は口を開いた。百瀬さんの目を真っ直ぐに見据える。
「どのくらい、かかるの? 今度、帰ってくるまで」
「五年くらい……かな。まず、そのくらいは、頑張ってみようと思ってる」
「その頃には俺、高校生やね」
「そうだね。きっと、見違えるくらい、大人になってるんだろうね」
「じゃあ、兄貴とも渡り合えるかな。小学生と大学生じゃあ、あんまりに不利やもん」
 百瀬さんが、目を見開くのが分かった。視線を逸らさないまま、僕はきっぱりと宣言した。
「俺、待ってるから。今より大人になって、百瀬さんが帰ってくるの、待ってるから」
 電車が、プラットフォームに入ってきた。僕はふと思いついて、肩から下げた鞄から、キーホルダーを外した。ぶらさがっている地球儀のミニチュアを取って、輪の部分だけを残す。それを、僕は百瀬さんに差し出した。
「約束、やからね。俺は絶対、忘れへんから」
「……うん」
 僕の渡したリングを手のひらに包み込み、百瀬さんは頷いた。
「帰ってくるからね。きっと」
 その時は……。百瀬さんは、悪戯っぽく微笑んだ。リングを左手の薬指に通し、僕の方にかざして見せる。
「本物、くれる?」
「うん」
「約束してくれる?」
「うん、約束する」
 百瀬さんは、ふわりと満面の笑みを浮かべた。じゃあ、もうひとつだけ、約束して。そう言って、すっと伸ばした人差し指を、僕の唇にあてる。
「今度会う時は、名前で呼んでね」
 僕は、もうひとつ頷いた。ピーッ、と鋭い笛の音が響く。発車時間だ。百瀬さんが電車に飛び乗ると同時に、ドアが閉まった。窓の向こうから、百瀬さんが手を振っている。電車が駅を出て、もう見えなくなってからもずっと、僕は線路の遥か彼方に、目を凝らしていた。

「おう、おかえり」
 食堂に戻ると、兄が起きてきていた。僕は、兄の正面の椅子に腰を下ろした。
「なんで見送りに行かんかったの?」
 兄は、軽く肩をすくめただけで、何も答えなかった。僕らは黙ったまま、テーブルの上のお品書きを、見るともなく眺めていた。
「……初恋の人、なあ」
 手を伸ばして、兄は僕の額をつん、と小突いた。
「こんな、こまっしゃくれた小学生の、どこがええんやろうなあ」
「うるさい。根無し草の大学生よりは、なんぼかましやろうが」
 ふん、と笑って、兄は僕の頭を軽くはたいた。大きく背伸びをして、立ち上がる。
「さぁて、仕事始めよか」
 僕らは、猫さんの前に並んで立った。一礼して、パンパンと二回、もう一度礼をしてから、再び二回。兄の拍手は、母さんほどではないけれど、なかなか様になっている。
「なあ、兄貴」
 台所へと入っていく兄の背中に、僕は声をかけた。
「俺、負けへんからね」
 一度立ち止まった兄は、背中を向けたまま、僕にむかって親指を突き出してみせた。

【THE END】



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