「猫のいる風景〜招き猫」 ![]() ![]() ![]() ![]() 三年間行方知れずだった丸福食堂の長男坊が帰ってきた。しかも彼女連れらしい。そのニュースは、瞬く間に広まり、店は真相を確かめに来た人々でごったがえした。常連客のおっちゃんにもみくちゃにされている兄にはあまり同情しないのだが、気の毒だったのは百瀬さんだった。朝から晩までひっきりなしにやって来るおばちゃん連中の質問攻めにあい、食事をするひまも、お茶を飲むひまもなさそうだ。夕方、ようやっと機関銃の如き攻撃が一段落ついた隙を狙って、僕は兄と百瀬さんの手をひっつかみ、有無をいわせず台所の奥へとひっぱっていった。このままではキリがない。一旦撤退だ。 一足先に引き上げていた母さんは、僕たちを見てにぃっと笑った。 「やっと捕獲成功かいな。いやあ、お疲れさん。お腹空いたやろ?」 母さんは、お茶とおにぎりを用意してくれていた。百瀬さんがあっと小さく声をあげ、母さんに挨拶する。そういえば、百瀬さんはまだ、母さんとまともに顔を合わせていなかったのだ。まだまだ続く攻防戦に片をつけるため、母さんが勇ましく台所を出て行った後、小さな机の前にパイプ椅子を持ってきて座った僕たちはそろってふうっと息をついた。まったく、嵐のような一日だ。 「なあ、カズ。何しに戻ってきたんや?」 「なんやて。キョウ、それが三年ぶりに再会した兄貴にかける言葉か?」 「勝手に飛び出してったんはそっちやろうが。それに、帰ってくるなら帰ってくるて先に連絡寄越せや! 巻き込まれるもんの気ぃにもなってみんかい!」 僕はそこで、百瀬さんの方へ向き直った。 「すんません。なんや、えらい騒ぎになってしもうて。ほんまにもう、このニワトリ頭が迷惑かけよってからに……」 「こらキョウ! ニワトリ頭っちゅうんは誰のことや?」 「兄貴以外に誰がおるんや? トサカみたいな頭しおってからに、頭ン中も鶏並になったんちゃうか? 三歩歩いたら忘れるっちゅうさかい」 「失礼なことぬかすな!」 「ああ、そやな。鶏と比べたったら、鶏に失礼や」 「なんやとコラ!」 半身を浮かせた兄を、僕は腕組みをして下から冷ややかに睨みつけてやった。不意に、隣からクスクスと笑い声が聞えてきた。見ると、百瀬さんが口元にこぶしを押し当てるようにして、俯いていた。 「ごめん……。なんだか、あんまりに想像通りだったもんだから」 まだ笑みの残る目で、百瀬さんは僕の方を向いた。 「京介君、だったよね? 藤沢君からよく話は聞いてたの」 兄は、口をへの字に曲げ、そっぽを向いた。 「どうや、見てがっかりしたやろ? こいつは口うるそうて可愛げのないガキやからな」 「ああ可愛くなくてけっこう、兄貴に可愛いなんて言われた日にゃあ、気色悪うて寝付かれへんわ」 僕は、おにぎりに手を伸ばした。そういえば、僕だって今日はロクに食事をしていなかったのだ。 「そういうとこが、可愛げがないっちゅうねん。……ったく、お前には年相応の愛敬っちゅうもんはないんかい。兄ちゃんはお前の将来が心配や」 「どこぞのパッパラパーなニワトリ頭のおかげで、こない老けてしまいましてん。ほんまに感謝してますわ、おおきに」 「……お前なあ」 「あら、そんなことないじゃない」 百瀬さんは、にっこりと僕に笑いかけた。机の上に頬杖をつき、僕の目をじっとのぞき込む。眼鏡の奥で、黒目がちな目がピカピカと輝いているように見えた。 「京介君ね、あたしの初恋の人にそっくりなの」 「……!」 僕は、食べかけのおにぎりを喉に詰まらせ、勢い良く咳き込んだ。慌てて兄が背中を叩く。急に何を言い出すんだ。しかも、兄の目の前で。 「ごめんごめん。そんなにびっくりするとは思わなかった。でもね、本当なの」 「……はあ」 涙目になりながら、僕は百瀬さんを見上げた。それ以上、なんと答えていいのか分からない。 「目元がね、そっくりなの。きりっとして涼しげで、睫毛が長くって。ね、京介君って今いくつなの?」 「……十二歳……ですけど」 「十二かあ、若いなあ」 「こら夏樹。小学生口説いてどないするんや」 「だって、藤沢君。京介君てばすっごくあたし好みのタイプなんだもん」 「はいはい、さよですか」 兄は完全にすねてしまった。そんな兄の様子には頓着せず、百瀬さんは、あたしも十年遅く生まれてきたかったなあ、などと呟いていた。 百瀬さんと兄は、大学で知り合ったらしい。入学式の日、サークルの勧誘で声をかけ、それがきっかけだったという。百瀬さんは兄よりひとつ年上で、軽音楽サークルに所属し、サックスを吹いているそうだ。僕としては、兄が大学に行っていたという話自体が初耳だったのだが、そこら辺に触れるとややこしくなるので、とりあえず黙っておいた。 「藤沢君、入学式の日に構内のベンチにぼんやり座ってたのよ。もう式が始まる時間だっていうのに。そんなところで何してるの、あなた新入生でしょう? って言ったら、なんだかきまり悪そうにしてるのね。もしかしたらと思ったら、案の定、迷子になったんだって。うちの学校、敷地が広いから、毎年けっこう迷子が出るのよねえ」 なんというか、実に兄らしい話だ。僕の九歳年上の兄である和哉は、信じられないくらいの方向音痴で、僕と同じ年の頃、自分の小学校の中で迷子になり、校内あげての大捜索が行われたという逸話の持ち主なのだ。そんな兄が、高校卒業とともに僕や母さんが必死で止めるのを振り切って東京へと飛び出していった時、僕はこれでもう二度と兄に会うことはないだろうと覚悟した。あの兄が、東京なんていう巨大迷路の中で行き倒れずに生きていけるはずがない。母さんだって、内心はそう思っていたと、僕は確信しているのだが、それでも毎月兄がちゃっかり指定していった銀行口座にいくらかの生活費を振り込んでやっていた。僕に言わせれば、親に金を出してもらうような家出なんて邪道だと思うのだが、あの兄に食い扶持全てを自分で稼げるような甲斐性があるわけがない。それにしても。 (……生きてたんやなあ……) その事実は、ほとんど感動的だ。よくもまあ、三年間も生き延びたものだ。僕はてっきり、兄も父さんと同じようになってしまうものだと諦めていたのに。もしかしたら、案外と父さんだって、どっかで元気に暮らしているのかもしれない。ただ、帰り道が分からないだけで。父さんは、僕が小学校にあがった年に、「日本一のアジの干物を探してくる」と言って出かけたきり、戻ってこない。長い長い迷子。人はそれを、失踪と呼ぶ。 それ以来、母さんがひとりで丸福食堂を切り盛りしてきた。その上、兄までが家を出ると言い出した時、僕は泣き喚きながら兄に喰ってかかったものだ。母さんを放って出て行くような奴はもう俺の兄貴なんかやない、と。 ……そうだ、僕はあの時、兄ときっぱり兄弟の縁を切ったはずなのだった。いつの間にやらすっかり忘れていたが。何度も言うようだが、僕は兄が帰ってくるなんてこれっぽっちも期待していなかったのだ。 「あ、たこ焼き!」 隣を歩く百瀬さんが弾んだ声をあげ、僕は我に返った。僕らは、母さんに頼まれて夜定食用の豆腐を買いにきていたのだ。荷物持ちをかってでてくれた百瀬さんは、道中ずっと商店街の様子に目を輝かせていた。 「京介君、たこ焼き買っていこうよ」 「ええけど、カズはたこ焼き食べられへんねん。あいつ、たこ嫌いやから」 「そっかあ、残念だなあ。……じゃあ、食べて帰ろうよ。京介君は、たこ焼き食べられるでしょ?」 頷くと、百瀬さんは嬉しそうに僕の手を引いて屋台に走り寄っていった。青海苔は多目で、あ、マヨネーズもたっぷりね、なんて屋台の親父さんに元気良く注文をつけている百瀬さんは、まるで僕と年の変わらない女の子のように見えた。 「ただいまあ!」 「おかえり、ご苦労さんやね。今お茶淹れるから、適当に座って待っててや。キョウ、あんたはカズを手伝ってやって」 「あ、おばさん、あたしも手伝いますよ」 「いいのいいの、夏樹ちゃんには昨日ずいぶん迷惑かけてしもうたからね、今日はゆっくりしといてや」 でも、明日からはあたしの片腕になってもらうさかい、そう言って、母さんは豪快に笑った。母さんは、百瀬さんがすっかり気に入ってしまったようだ。晩御飯の時にはもう「夏樹ちゃん」と呼び、お皿を運ぶ後姿に目を細めて、うちにもあんな娘が欲しいわあ、としきりに繰り返していた。 エプロンを着けて台所に入ると、兄が野菜を刻んでいた。人参に椎茸、絹さやにネギ。ああ、今晩のメニューは炒り豆腐だな。あとはええと……、生姜焼きにおすまし、か。並んだ食材を見て、メニューが推測できるようになってきた辺り、僕もずいぶん食堂の仕事に染まってきたものだと思う。 「カズ、なんか手伝うことある?」 「ああ、そやな……。生姜、おろしといてくれるか?」 そう言いながらも、兄は手を休めない。なにかといい加減で、のんべんだらりとしたこの兄だが、昔から手先だけは器用だった。今だって、危なげない手つきでまな板の横に積み重なった野菜を次々とみじん切りにしていく。手際だってなかなかのものだ。おまけに、かなりの凝り性でもある。僕は、幼稚園に通っていた頃の遠足で、それを思い知ったのだった。 あの日は、母さんが珍しく風邪で熱を出して寝込んでいた。だから、母さんに代わって兄が僕の弁当を作ってくれたのだった。僕はそれまで、兄の作ったものなんて食べたことがなかったから、弁当箱を開けた瞬間にどんな惨状を目にすることになるのだろうと、朝からびくびくしていたものだ。そして昼食時間。意を決してふたを開けた僕は、あまりのことにしばらくの間言葉を失った。うさぎりんごに、干瓢の鉢巻きも凛々しいたこさんウィンナー。三色のおにぎりには、自動車やら飛行機やらの形に切り抜かれた海苔がのっている。僕の弁当は、周囲の注目をいっぺんに浴びることになった。子どもたちばかりでなく、先生たちまでが、入れ替わり立ち代わり見に来ては、ため息をついていった。 「京介君のお母さんって、器用なんだねえ」 感嘆の声に、僕は終始えへへ、とかあはは、とか馬鹿みたいに笑い続けていた。そうするより他なかった。「笑ってごまかす」という術を、僕は弱冠四歳にして身に付けることになったのだ。 考えてみれば、当時からたこ嫌いだった兄が、「たこさんウィンナー」を作るなんて涙ぐましい努力だったと思う。そして、兄のそういうところだけは、僕も素直に認めてやってもいいかと考えているのだ。 食堂の仕事を手伝い始めたその日のうちに、百瀬さんは丸福食堂にしっかり馴染んでしまった。東京で、喫茶店のウェイトレスのアルバイトをしていたという百瀬さんは、僕よりもずっと鮮やかな手つきでお客の注文をさばいていく。負けてはいられないと思うのだが、きびきびと動き回る姿につい目がいってしまって、どうにも仕事がおろそかになってしまう。 「はい、親子丼に天ぷらうどん、おまちどうさま」 「ありがとさん。いやあ、夏樹ちゃん。すっかり丸福食堂の看板娘やねえ」 「おおきに。ささ、お兄さん。お茶でも淹れましょか」 「……ノリのええ子やねえ」 「これで、丸福食堂も安泰やな。三代目も帰ってきたことやし、四代目も心配な……」 ゴツッ、と鈍い音がした。 「……ってぇな、こらキョウ! なにさらすねん! 目ぇから火花飛んだぞ!」 当然だ。木製のお盆の縁で思いっきり後頭部をはたいてやったのだから、痛くないはずがない。 「アホ。下世話なこと言うてんと、とっとと喰わんかい。うどんのびてまうわ」 「……へぇへぇ。なあ夏樹ちゃん、こいつこれでも小学生やねんで? 見えへんやろ、この若年寄が」 「やかましわ。どこぞのぼんくらのおかげでこうなったんや。文句があったらそいつに言わんかい。ほれ、向こうでたくわん刻んどるわ」 僕は台所に立つ兄をびしっと指差してやった。聞えていたのか、兄がべぇっと舌を突き出す。僕らのやりとりを、百瀬さんは可笑しそうに眺めていた。 「京介君て格好いいなあ。うん、惚れ直した」 にっこり笑って百瀬さんがそんなことを言う。なにか言い返そうとして、結局僕は口をつぐんでしまった。不覚だ。 「……おお、なんやキョウ。夏樹ちゃんにはずいぶん素直やないか」 「ははあ、これは、アレか。兄貴の彼女に横恋……」 「ドアホッ!」 ガツンッ、とさっきよりも派手な音がした。遠慮は一切なしだ。殴られたおっちゃんは、頭を押さえてううう、とうめいている。これで、しばらくは静かになるだろう。 「……キョウ、ちったぁ手加減ってもんを覚えんかい」 「悪いな。俺の辞書にはそんな言葉あらへん」 「夏樹ちゃん、なんとか言ったってぇな。こいつ、いっつもこんな調子やねんで。口は悪いわ、荒けないわ、喧嘩っ早いわ……」 「情けない声出しなや。だいたい、ええ大人が小学生に言い負かされてどないすんねん」 「夏樹ちゃん、助けてぇなあ」 後頭部をさすりながら、おっちゃんが百瀬さんに訴える。百瀬さんはおっちゃんと僕とを見比べながら、再びにっこりした。 「うん、やっぱり格好いいや」 「夏樹ちゃん、あんたも奇特な人やなあ……」 「やかましい」 言い捨てて、僕は台所へと引き返した。耳の奥の方で、バクバクと耳障りな音がしている。それが、自分の心臓の音だと気付いたのは、しばらく後のことだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 贈答品へ 入り口へ |