「猫のいる風景〜招き猫」



 母さんは、兄が目の届くところにいる内に、料理人としての基礎を叩き込んでやろうと決心したらしい。朝の早くから閉店後まで、台所には必ず兄の姿がある。あの怠け者の兄のことだ、すぐになんとか口実を見つけて逃げ出すだろうと思っていたのだが、意外にも毎日、大人しく包丁を握っている。午後の一番暇な時間帯、母さんが兄の指導にかかりきりになっているため、夜定食用の食材調達は、いつの間にか僕の役割になっていた。そして、僕が買い物に出る時には、百瀬さんも必ず同行した。行ってきます、と声をかける百瀬さんに、兄は決まってちらりと不機嫌そうな視線を投げかける。そんな時、僕はいつも少しばかりくすぐったいような気分になった。これが優越感というやつなんだろうか、とぼんやり考えて、なんでそんなもんを感じなけりゃいけないのだと、慌てて否定した。
 百瀬さんは、商店街にいくつか立っている屋台がいたく気にいったらしい。買い物帰り、僕らは時々そのどれかに立ち寄っては、しばらく休憩していった。通りに面したベンチに腰掛けて、ふたりで鯛焼きなんかかじっていると、なんとなくほっこりしてくる。まるで、縁側のご隠居気分だ。
「なんだか、デートみたいだね。お忍びデート」
 湯のみを両手で包み込むようにしながら、百瀬さんが言う。その横顔があまりに楽しそうで、僕はしばらく見惚れてしまった。
「……なに言うてるの。兄貴に怒られるで」
 やっとのことでそれだけ言い返すと、百瀬さんは屈託なく、だからお忍びなの、と笑った。その笑顔をまともに見ていられなくて、僕は地面に目を落とした。
「……ねえ、京介君。あたしね」
 妙に改まった口調に、僕は伏せていた顔を上げた。
「なに?」
 訊き返しても、百瀬さんは黙ったままだ。
「どうかしたん?」
「……ううん、なんでもない。また、今度話すね」
 そう言うと、百瀬さんは僕の手から尻尾だけ残った鯛焼きを取り上げ、ぴょこんと立ち上がった。
「あっ」
「これ、もらうね」
 あたし、鯛焼きの尻尾が好きなんだ。そう言いながら、百瀬さんは僕の鯛焼きをぽいっと口に放り込んだ。
「さ、そろそろ帰ろうか」
 スーパーの袋を下げた手を大きく振るようにしながら、百瀬さんはどんどん歩いていってしまう。僕は、ベンチに腰掛けたまま、ぼんやりとその背中を見送った。
(……なんで……)
 手元の湯のみに視線を落とす。茶柱が一本、横になって浮いていた。
(なんで、あんなこと言うのん?)
 残っていたお茶を、一気に飲み干す。なんでだろう、目の奥が、じんと熱い。
「……本気にするで、俺……」
 冷たくなったお茶は、ひどく苦かった。ひとつ大きく深呼吸し、ぶんぶんと頭を横に振る。なんやなんや、らしくもない。帰ろう。もうすぐ、夜の仕込みが始まる。今日のメニューはサンマだった。きっと、大量に大根を下ろさないといけないだろう。

 店に辿り着くと、母さんがひとり、テーブルについてお茶を飲んでいた。
「ああ、おかえり。遅かったやないの。夏樹ちゃんはとっくの昔に帰ってきてたで」
「うん。……あれ、兄貴は?」
「休憩中。部屋にいるんとちゃうか? ……なんや、キョウ。そんな暗い顔して」
「別に……。俺、ちょっと昼寝してくる。なんかあったら起こしてや」
 階段を上り、自分の部屋へ戻る。途中、兄の部屋の前を通りかかった。五センチほど開いたドアの向こうから、兄の声と百瀬さんの笑い声が聞えてくる。僕は、足早に突き当たりにある自分の部屋に駆け込んだ。ドアを閉め、畳んであった掛け布団を引っ張り出し、頭の上まですっぽりと被る。そして、きつくきつく目を瞑った。

 銭湯に行きたい、と百瀬さんが言い出したのは、夏休みも明日で終わるという、日曜日の夕方だった。
「あたし、銭湯って行ったことないんです。藤沢君に、実家の近くに古いお風呂屋さんがあるって聞いてから、一度行ってみたくって」
「そりゃあええわ。場所はうちの子に案内させるさかい。……ちょっと、キョウ! あんた、夏樹ちゃんと一緒に銭湯まで行っといで!」
「母さん、なにもキョウに行かせんでもええやろ?」
「別にええやないの。ここらの地理は、あんたよりキョウの方が詳しいんやから。……あ、あんたもしかしてやきもち焼いてるんか?」
「アホ。なんで弟相手にそんなややこしいことせなあかんのや」
「そんならええやろ。ささ、行っといで。ほら、キョウ! なにをもたもたしとるんや! そや、夏樹ちゃん。下駄、履いてかへんか? なかなか風情があってええもんやで」
 銭湯は、商店街の一本脇の路地を抜けたところにある。昔は、兄とふたりでよく来たけれど、三年前に兄が家を出てからは、一度も足を運んでいない。当時からさびれた銭湯だったが、なんとか潰れずにはすんでいるらしい。
 番台には、三年前と同じおばあさんが座っていた。いくらかしわが増えたようだが、後はまるで変わりがない。着ている服まで一緒なんじゃないかと思えた。
 風呂場には、僕以外に客の姿はなかった。だだっ広い湯船にひとりでつかっているのは、何となく落ち着かない。そそくさとあがり、銭湯の外に出た僕は、自動販売機にもたれかかって、百瀬さんが出てくるのを待った。夏とはいえ、風のある晩は涼しい。ロクに髪を拭かなかったせいか、軽い寒気すら覚えて、僕はひとつくしゃみをした。続けて、もうひとつ。くしゃみ二回はいい噂だっけ、それとも悪い噂だっけ。そんなことを考えていると、肩にふわりとカーディガンがかけられた。百瀬さんだった。
「ごめんね。寒かった?」
「いや、大丈夫。……これ、返しとくわ。別にそんな寒ぅないし」
 僕は、カーディガンを百瀬さんに渡した。小さく頷いて、百瀬さんはそれを左腕にかけた。並んで歩きながら、僕らはしばらく無言だった。百瀬さんが履いた下駄の、カラコロという音だけが、人気のない路地に響いていた。
「あのね、京介君」
 ぽつんと、百瀬さんが僕の名を呼んだ。
「藤沢君に、家に帰ろうって言ったの、あたしだったの。藤沢君、いつもお母さんや京介君のこと、楽しそうに話すもんだから……。あたし、どうしても、藤沢君の家族に会ってみたくなっちゃってね」
「別に、そんなわざわざ見に来てもらうほど面白いもんでもないのに」
「でも、来てよかった。……京介君にも会えたしね」
 ドクン、と心臓が跳ね上がったような気がした。どうしてこの人は、こんな台詞をさらりと言ってしまえるんだろう。
「ね、京介君。今、好きな子いるの?」
 案外と真面目な口調で、百瀬さんが尋ねる。僕は目を逸らし、ぶっきら棒に答えた。
「別に……」
「でも、モテるでしょ? 格好いいもんね、京介君」
 僕は思わず笑い出してしまった。
「そんなこと言うのん、百瀬さんくらいやで」
「そう? あたしが京介君のクラスメートだったら、絶対放っておかないのになあ」
「そりゃあ、おおきに」
 軽く返しながらも、僕は胸の奥がちくちくと痛むのを感じていた。でも、百瀬さんは僕の同級生ではない。僕より年上で、そして……。僕は、百瀬さんには気付かれないように、小さく苦笑した。まったく、面倒なことになったもんだ。こんなことになるなんて、思いもよらなかった。
「そうだ、京介君」
 何か思いついたように、百瀬さんが言う。
「手、つないで帰ろうよ」
「……へ?」
 我ながら間の抜けた声を出して、僕は百瀬さんの顔をまじまじと見上げてしまった。今、なんて言った?
「いや?」
「そういうわけやないけど……」
「じゃ、そうしようよ」
 言うが早いか、百瀬さんはまだ呆然としている僕の左手を握った。思いのほか、小さい手だった。
「これで京介君のこと、忘れずにすむかな」
 その声は、いつもの百瀬さんとは別人のように寂しげだった。僕は思わず、つないだ手に力を込めた。同じようにきゅっと握り返しながら、百瀬さんが呟く。
「あたし、明日の朝、東京に帰る」
 見送りに来てくれる? そう続けた百瀬さんの言葉に、僕は軽く首を横に振った。
「見送りに行くんは、俺やのうて兄貴やろ?」
「……そうだね」
 百瀬さんは、微かに笑った。そうだね、ともう一度繰り返す。
「でも……」
 僕は大きく息を吸い込み、早口で一気に続けた。
「でも、兄貴は早起き苦手やから。もし、あいつが起きられへんかったら、代わりに俺が行くわ」
「……うん」
 ありがとう。聞き取れないほど小さな声で、百瀬さんがそう言ったような気がした。



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