「猫のいる風景〜招き猫」 ![]() ![]() ![]() ![]() 丸福食堂の朝は、母さんの拍手(かしわで)とともに始まる。パンパンと二回。少し間を空けて、再び二回。 かなり威勢のよい音がするので、僕の目覚まし代わりになっている。一度目のパンパンが聞えるあたりで目を開き、二度目のパンパンが鳴り終ったら起き上がり、布団を畳む。これが、僕の毎朝変わらぬ日課なのだ。 着替えを済ませると、食堂の台所に向かう。母さんは既に朝定食の仕込みに入っていて、割烹着に三角巾、手にはお玉と菜箸を持って、さほど広くもない台所の中を所狭しを動き回っている。 おはよう、と母さんに声をかけて、丸椅子の上に置いてあるエプロンを身につける。鏡の前に立って、背中のひもをきゅっと結ぶと、なんだか気が引き締まるような感じがするから不思議だ。 「母さん、今日のメニューは何?」 「鮭の塩焼きにほうれん草の味噌汁、それから温泉卵にきんぴらごぼう。ついでに味付け海苔も二十パーセント増量、出血大サービスや。……ほら、キョウ。早いとこテーブル拭いてきてや。もう、お客さん来てまうで」 「今行くとこやって。あ、母さん。俺の分の温泉卵、ちゃんと取っといてや」 「はいはい。分かってるがな」 濡れ布巾を手に台所を出る。ひとつめのテーブルに取りかかろうとした時、台所の奥から母さんのでっかい声がした。入り口のガラス戸がびりびり言うくらいの大音響だ。 「キョウ! ちゃんと猫さん拝んでから仕事するんやで!」 猫さん、というのは、我らが丸福食堂の守り神だ。と、少なくとも母さんはそう信じている。なんでも、先代がどこかの港町にあった骨董店で一目惚れし、有り金はたいて手に入れた代物らしい。 「ほら、見てみい! この神々しいお姿、この優美な耳、この華麗な肉球! このお方こそ、わしらに遣わされたありがたい神さんや。ほれ、坊主らもようよう拝むんやで! ああ、ありがたや、ありがたや……」 僕たち兄弟の頭をぐりぐりと押さえつけては、口癖のようにそう言っていたものだ。ここいらで種明かしをしておくと、ま、なんてことはない大型の招き猫なんだけれども。しかしこの招き猫、親切というのか強欲というのか、両手で福を招いている。どっちの手が人招きで、どっちが金招きだったかは忘れたが、とにかくどっちともがっぽり招いたろやないか、ということらしい。僕から見れば、バンザイとお手上げのポーズをしているようにしか思えないのだが、そんなことを言えば命に関わるので、口が裂けても言えない。先代……僕から見ればおじいちゃんにあたる人だ……はこの「猫さん」をたいそう大事にし、大火事に遭った時も、大水の出た時も、まずこれを抱えて守り抜いてきたのだった。 そして、母さんも先代の遺志を受け継ぎ、毎朝の拍手を欠かさない。もちろん、三代目の有望株と見なされているらしい、この僕も。 僕は、鎮座まします猫さんの前に立ち、一礼した。 「猫さん、今日もよろしゅう頼んます」 パンパンと二回、一礼して、また二回。手の叩き方にはコツがあって、僕は母さんのように派手な音をたてることはまだできない。 全てのテーブルを拭き終わり、調味料を並べ終わった頃、最初のお客がどんどんと入り口のドアを叩いた。僕は急いでドアへ向かい、鍵を開ける。最初のお客がやってきた時が、開店時間なのだ。 「よう、キョウ。おはようさん」 「おはよう。今日はえらい早いんやな」 「ちぃとばかり遠出の仕事があってな、朝飯喰うたら、すぐ出かけなあかんねん。ああ、佳美ちゃん! おはようさん。悪いけど、早いとこ頼むわ!」 「はいはい。ほな、超特急で用意するわ。キョウ、温泉卵とご飯、頼むで」 鮭を焼き上げ、味噌汁をよそい、キンピラを盛り付け、海苔を皿にのせる。僕がご飯をどんぶりによそい、温泉卵を割ってダシをかけている間に、母さんはそれだけの作業をちゃっちゃと片付けていた。 「はい、お待ちどうさん」 「おおきに。キョウ、大分エプロン姿が板についてきたやないか」 学校が夏休みに入ってからというもの、注文の品をテーブルに運ぶのは僕の役目になっている。 「どうや、キョウ。三代目を継ぐ気はないんか? お前やったら十分に勤まると、わしらは思っとるんやけどなあ」 「おっちゃん、おだてても何も出てこうへんで。それに、三代目継ぐんは、俺やのうて兄貴の務めや」 「カズかあ……。あいつ、どうしとるんやろうなあ」 「さあ。ずっと音沙汰ないから、さっぱり分からんわ。ま、どっかで野垂れ死んだら連絡くらいはくるやろ」 首をすくめた時、ガラガラという音とともに、二人目の客が入ってきた。僕はそちらに顔を向けた。 「いらっしゃいま……」 言いかけて、僕は思わずポカンと口を開けた。入り口に立っている人物に、見覚えがあったからだ。ドングリ目に、ひょろりとした長身。 「おはようさん。久しぶりやなあ、キョウ。元気しとったか?」 間延びした口調、栗の渋皮みたいな色の髪。間違いない。 「……兄貴!」 噂をすれば影とはよく言ったもんだ。感心している僕を尻目に、兄は軽く振り返るようにして、声をかけている。どうやら、誰か一緒らしい。 「ほれ、遠慮せんと入りぃや」 兄の後ろから顔を出した人を見て、僕は今度こそ絶句した。テーブルに座ったおっちゃんも、箸を空中で止めたまま、酸欠の錦鯉みたいに口をパクパクさせている。 「おはようございます。こんなに早くからお邪魔して、ごめんなさい」 凛とした声でそう言って、その人は小さく会釈した。栗色の髪をショートカットにして、深緑色の縁をしたオモチャのような眼鏡をかけている。 「あたし、百瀬夏樹と言います。初めまして」 おっちゃんの手から、カラリと箸が落っこちた。 ![]() ![]() ![]() ![]() 進む→ 贈答品へ 入り口へ |