「まほろばを泳ぐ赤き魚」



 申し分のない妻であり、母であった彼女に、たったひとつ落ち度があったとするならば、それは「ホットケーキは本来、丸いかたちのものである」と自分の娘に教えなかったことだろう。
 彼女はいつも、玉子焼を作るための長方形のフライパンで、娘のためにホットケーキを焼いていた。だからまほろは、ホットケーキは四角くあるべきだという固い信念を持っている。母が小さな旅行鞄ひとつを手に、父と娘の前からいなくなってしまった今でも。

 「研修中」と書かれたプレートを斜めにぶらさげたウェイターが危なっかしい手つきで運んできたそれの、円周部分だけを切り取って腹の中に収めた後、ほぼ正方形に残った生地を更に小さな四角に切り分け、格子柄のように苺ジャムとバターを塗り分ける、という作業に、まほろは先ほどから没頭していた。それは、例えば彼女の大好物であるホットケーキを最も美味しく食べるための準備、というよりは、明らかに遊戯に属する作業で、父親としてはここで「食べ物で遊んではいけない」と諭すべきなのかもしれなかったが、しかし彼女の至極真剣な面持ちと手付きはどこか儀式めいてさえいて、単純な小言で遮ってはいけないような、そんな気もするのだった。
 それにしてもこの子は、いつの間にこれほど器用にフォークとナイフを扱えるようになったのだろう、と彼は何気なく思い、その感慨があまりにも「父親らしい」ことに対して覚えた居心地の悪さを、一口のコーヒーと一緒に飲み下して誤魔化した。カップを受け皿に戻す瞬間、手元が小さく狂い、思いがけず大袈裟な音を立ててスプーンがテーブルに転がる。まほろが、ちらりと目を上げて彼の顔を見遣った。その視線が、先ほどスプーンの立てた騒音よりも硬質な気がして、彼は思わず目を伏せそうになる。父親、という言葉の響きがもたらす後味は、冷めたブラックコーヒーよりも苦い。

 大丈夫よ、今朝は上機嫌だし、昨日だって「お父さんに会える」って喜んでたもの、と電話口の姉は事も無げに言った。
「あの子、夕方から今日着て行く服を自分で選んで、靴と鞄と帽子まで玄関に揃えてたのよ。よっぽど楽しみにしてたのね」
 そんなことを言われても自分はもう長らくまほろとはろくに顔を合わせていないんだし、一体何を話していいのか分からない、それにあの子だってこんな父親甲斐のない男に掛ける言葉なんてないだろう、と殆ど泣き言めいた懸念を並べ立てる弟に、姉は涼やかな口調で言ってのけたものだ。
「でも、親子でしょう?」
 それともなに、あなたもしかして、娘に会いたくないの? 驚いたようにそう問われて、思わず憮然とそんなはずないじゃないか、と言い返した彼に、姉は微かに笑ったようだった。
「そうよね。それを聞いて安心したわ。じゃあ、時間通り迎えに来て頂戴ね。あ、それから」
 私は今日、急用が出来て行けなくなったから、水入らずでゆっくりしてらっしゃいな。あっさりそう告げると、彼が事態を飲む込むよりも素早く姉は電話を切ったらしい。ようやく「娘とふたりで会う」という場面が脳裏に像を結び、ちょっと待ってくれ、だから何を話したらいいのか分からないとさっき言ったじゃないか、と輪をかけて情けなく弱音を吐いた彼の耳に返ってきたのは、通話が切れた後の無機質な電子音だけだった。
 思えば、姉は初めから同席するつもりなどなかったのかもしれない。母親は突然姿を消し、その上父親までもが出張だ取材だとなにかれとなく理由をつけては「高飛び」を繰り返す、こんな生活が幼いまほろにとって心細くないはずがない。現状を打破すべく、彼女が荒療治に打って出たのだと考えてもおかしくはなかった。むろんその矛先は、年の割に気丈な姪ではなく、歳を重ねても頼りない弟の方を向いている。

 平日の午後二時、喫茶店の店内にはまばらな客の姿しか見えない。この人々は一体ここで何をしているのだ、お茶の時間だろうかそれとも遅い昼食だろうか、と愚にも付かない推測を転がしながら、彼は周囲のテーブルを観察する。
 彼とまほろが座る場所の斜め右前方には、大学生風の若者ふたりが席を占めている。アイスコーヒーの氷がすっかり溶け、不透明な二層を成していることも気に掛けず、なにやら手振りを交えて議論に熱中している。彼らの隣のテーブルには、すっくと背筋を伸ばした老紳士が、ひとりで小説雑誌を熱心に読んでいる。ティーカップの脇で綺麗に畳まれている茶色い紙は、恐らく書店の紙袋なのだろう。老紳士の背中越しには、まほろより少し年上の男の子を伴った若い母親が座っている。パフェに夢中で取り組んでいるその子の、チョコレートやクリームにまみれた口元や手元にをこまめに拭いてやりながら、目を細める母親の横顔はいかにも満ち足りて見えた。ここにいる自分以外の誰もが皆、なにかしら己を充足させるに足る何事かと向き合うことに忙しいのだ。手持無沙汰なのは俺だけか、と彼は内心で呟き、即座に自嘲した。まったく、数ヶ月振りにこうして娘と向かい合っているというのに、「手持無沙汰」などという言葉しか浮かばないとは。

 テーブルを隔てて座るまほろは、バターとジャムを綺麗に塗り終えたホットケーキを前にして、小休止とでもいうようにカルピスをストローでかき回している。グラスの横には、黒いリボンを結んだ麦わら帽が鎮座していた。
 まほろの、その幼子特有の冷ややかさを纏った顔を伺う限り、その完璧な無表情から「今朝は上機嫌」だという高揚や、ましてや「お父さんに会えると喜んで」いたという兆候を読み取ることは難しかった。ふっくりと丸い頬や、上瞼がより強い弧を描くアーモンド型の目や、小さくて尖り気味の耳、といった外見上の特徴だけでなく、泰然とした物腰までもが母から娘へ脈々と引き継がれているらしい、と彼は半ば感嘆する。まほろが彼から受け継いだものといえば、色素の薄い猫っ毛くらいのものだ。

 あれはいつのことだったか、保育園から帰ってきた妻と娘を、ソファで本を読みつつ出迎えた覚えがあるから、きっと失業して間もない頃だろう。珍しく憤慨した顔で、スリッパの足音も高く居間へ入ってきた妻は、数歩後を遅れてついてくる娘に、すぐおやつにするから手を洗ってらっしゃいね、と首だけを振り向かせて声をかけると、彼女が洗面所の扉の向こうへ姿を消したのを確かめるや否や、今日ね、と話し始めたのだった。
「保育園でタイムマシンの話になったらしいの。それで、まほろが落ち込んじゃってね」
 唐突に飛び出した「タイムマシン」という単語にぽかんと疑問符を浮かべたままの彼を前に、妻は仁王立ちになって事の次第を早口に説明し始めた。発端は、近頃子どもたちの間で話題になっているSF風味のアニメ映画だったらしい。主人公の少年が、父の書斎から勝手に拝借した古い謎めいた本を手掛かりにタイムマシンを自作し、それに乗って過去の世界へと旅立つ、というよくある筋立ての話だ。
「それで、もし本当にタイムマシンがあったら、どんな時代に行って、どんなことをやってみたいかって、園長先生がみんなに質問したらしいのよね。そうしたらまほろがね、小さい頃のお母さんに会いに行って友だちになりたいって、そう言ったらしいの。誰よりも仲良くなって、ずっと一緒に大きくなるんだ、って」
 可愛いじゃないの、ねえ? と妻はその瞬間だけ目元を柔らかく緩ませた。
「でもね、他の子がこう言ったんだって。小さい頃のママになんて会えっこない、子どものママなんてママじゃないや、って」
 相手の子どもは、恐らく映画で聞き齧ったのであろう「タイムパラドックス」という言葉まで持ち出して、まほろに反論したのだという。近頃の保育園児はなかなか論理的だ、と密かに感心する彼とは対照的に、妻は憤懣やる方ないといった風に唇を噛み締めていた。
「もし、まほろと同じ年に戻れるなら」
 普段、滅多に感情を暴発させたりはしない彼女が、内から溢れ出す何ものかを抑えきれないといった風に、細かく声を震わせていた。
「私はいくらだってあの子と仲良くなるわ。唯一無二の親友になって、ずっと傍にいるわ。ずっと守ってみせるわ」
 あの子がそう望むなら、私は。彼女の言葉がそこで途切れたのは、まほろが居間へ戻ってきたからだったろうか。記憶は定かでなかったが、はっきり覚えているのは、娘に向き直るや否や一瞬にして穏やかな母親の表情に戻った妻の、一切陰りのない笑顔を目にした自分が、どうして彼女はあんな風に譲歩なく幸せそうに笑えるのだろうと違和感にも似た疑問を抱いたことだった。あるいはそれは、羨望だったのかもしれない。今になって彼は、そう思うことがある。

 軽やかな笑い声が突然店内に響き渡り、彼は薄膜に包まれたような物思いを破られて瞬きをした。見れば、浴衣姿の少女がふたり、連れだってカウンター席に座るところだった。喫茶店の店主とは顔馴染みらしく、ティーフロートふたつ、とメニューには確か載っていなかった注文を告げている。そうか、今日は夏祭りだったか、と彼女たちの華やかに結いあげた黒髪を見るともなく眺めながら彼は思い、だから神社の境内に金魚すくいの露店が出ていたのか、と納得する。ふと気付けば、さっきまで小難しい額を突き合わせていた学生風の若者ふたりも、ちらちらと彼女たちの浴衣姿に視線を送っていた。微笑ましい、いや懐かしい光景だな、と彼は頬杖をつきながら考える。

 ねえ、どうしてお父さんはお仕事を辞めたの? まほろが妻に訊ねているのを偶然耳にしたのは、彼が勤め先だった大学を半ば飛び出すようにして退職した一週間ほど後のことだった。どちらかといえば沈思黙考型で―この点も妻によく似ている、と彼は思うのだ―、矢継ぎ早な質問で両親を立ち往生させるような娘ではないまほろの問い掛けは、そうであるからこそ余計に、答える側の大人に熟考を要求する重みがある。だからだろう、あの時の妻も、小さく唸ったきりしばらく黙り込んで答えを探している様子だった。風呂上がりの髪から滴が零れることも忘れ、寝室の入り口で息を殺して返答に意識を凝らしていた彼は、しかし妻の思いがけない返答に唖然とさせられることになる。
「お友だちと喧嘩したからよ」
 娘と父は、恐らく同じくらいの時間、その答えを噛み締め、理解しようとしていたのだろう。まほろが、そうかあ、と何故かどこか嬉しげに聞こえる相槌を打った一方で彼は、その言い方はあんまりだ、と鼻白んでいた。しかし妻に前言の撤回を求めようかと一歩踏み出しかけた彼の足を止めさせたのは、続く娘の一言だった。
「それじゃあ、まほろと同じね」
 まほろもお友だちと喧嘩するもの。娘の声に、これまで聞いたことがないほどはしゃいだ響きを聞き取って、彼は静かに目を見開いた。
「お父さんも、まほろと同じなのね」
 そうね、と同意した妻の声が、どういうわけか泣き出しそうになっているように感じられて、彼は無言で風呂場へ引き返した。娘と同じ癖の強い髪をバスタオルで無造作に乾かしながら、彼は我知らず小さく笑い出していた。確かに、彼女たちは正しいのかもしれない。派閥だのポスト争いだの、そんなものはまほろの目から見れば子どもの諍いと大差ないだろう。そうだ、自分は子どもの喧嘩に負けたから、いや―と彼は思い直す―、喧嘩になることが嫌で、逃げ出したのだ。ただ、それだけのことなのだ。くつくつと笑い続ける彼の耳に、お父さんアイス食べようよ、と妻の呼ぶ声が聞こえた。

 涼やかなドアベルの音と共に、小さな男の子を連れた母親が喫茶店を出て行った。壁掛け時計を見遣ると針は午後五時少し前を指していて、まさか、と驚いて凝視すれば、なんのことはなく秒針はぴくりとも動いていない。壊れているのか、と溜息を零した彼は、その感情が安堵なのか落胆なのか分からず困惑する。自分は、娘と過ごす時間が長く続いて欲しいのか、それとも早く過ぎ去って欲しいのか。
 彼の座る窓際の席からは、車が二台も停まれば身動きが取れなくなりそうな大きさの駐車場が良く見えた。先ほど、まほろにホットケーキを運んできたウェイターが、ひっきりなしに額の汗を拭いながら、焼けたアスファルトの地面に水を撒いている。高温の炎を思わせる透明な午後の日差しを浴びて、ビニールホースから迸る水は、まるで液体というよりも小さな硝子の粒を吹き出しているかのように目映かった。あの様子では、文字通り焼け石に水だな。ビニールホースが蛇のようにうねる様をぼんやりと眺めながら、彼は脳裏に二年前の夏に訪れた南欧の城塞都市の面影を浮かべていた。

 あの場所を思い出すにつけ、甦るのは「茹だるような」としか表現しえないような情け容赦ない暑さと、その陽光さえ呑み込むほど深い色の瞳を持つひとりの少女だった。
 休日の昼間に放映されるという歴史ドキュメンタリーの取材に立ち会うため、一泊三日の強硬日程を組んで降り立った石造りの城壁に囲まれた小さな街の市場で、撮影班が声を掛けて急遽参加が決まったという彼女の役割は、己の結婚を政治の道具にされることを拒絶し、一国の運命と愛する男の命とを秤にかけた―そして後者を選んだ―麗しき王女を演じることだった。金糸にビーズを散りばめたヴェールを纏い、柱だけが辛うじて残る神殿跡に佇む少女の横顔は、決して付け焼刃とは思えぬ憂いと気高さを漂わせていっそ荘厳にすら見えたものだ。これは良い絵が撮れる、と色めき立つ撮影班をよそに、少し離れた場所で成り行きを見守っていた彼は、この同じ場所に父が立ったならばどんな感慨を抱いたのだろう、と柄にもなく感傷的な思いに捕らわれていた。
 今、少女が踏みしめている正にその場所から発掘された銀貨に刻まれたうら若き女性像に、「まつろわぬ王女」という呼び名を与えたのは、他ならぬ彼の父であった。古代の幻が具現化したかのような少女の姿は、父の目にどう映ったであろう。しかし、息子である彼が「まつろわぬ」という形容詞からまず思い浮かべるのは、くっきりした目鼻の大人びた顔立ちにそこだけ妙に子どもっぽく小さく整った歯並びのあの少女でも、父が書き物机の一番奥にまるで臍の緒でも仕舞うかのように丁寧に保存していた銀貨に描かれた横顔でもなく、一文字に唇を引き結んだ娘の顔なのだった。

 まほろ、という名前を彼女に贈ったのは、在野の歴史学者だった彼の父だった。その由来を、「まほろば」に通じる良い音だ、と得意げに説明していた父の無骨に日焼けした腕に、綿菓子でも抱くようにそっと包み込まれて、雛鳥に似て小さく赤い口をぽっかりと開けてあくびをしていた娘の姿を、彼は鮮やかに記憶している。この世に生を受けたばかりの赤ん坊は、腹が空く度、眠くなる度、まだ言葉にならない要求を、その小さな体からは信じられないほど逞しい泣き声で主張し、その度におろおろと落ち着かない男たちの傍らで、母となった妻のよりしなやかな力強さを増した泰然自若ぶりばかりが際立っていたものだ。
 まほろ、まほろ、まほろ。その音を飴玉を転がすように繰り返していた妻は、まぼろしにも似ているわ、と小さく呟いたのだった。ただ、父から妻の手を経て今度は彼に託された娘の、柔らかくて頼りない、それでいて圧倒的な存在感を宿すぬくもりと重みは、決して幻などではなかった。

 乾いた咳払いと共に、小説雑誌を読んでいた老紳士が席を立つ。畳まれた茶色い紙はやはり書店の袋であったらしく、再び広げたそれに分厚い雑誌を仕舞いこむ慎重な手つきは、蔵書の整理に没頭する父の姿と重なって見えた。
 どうしたんだ、と彼は内心で苦笑する。死んだ親父のことを思い出してしんみりするなど、俺らしくもない。それに、と彼は思う。あの老紳士は父より随分と高齢だ。むしろ、父の一番弟子を自任していたかの高崎翁を思い起こす方が妥当だろう。

 息子さんも大学で教鞭を取ってらしたわけでしょう? ならば、お父様の仕事とも遠からぬ縁がある、と言ってもそれほど間違いではないはずだ。低いが良く通る声の持ち主である老人―高崎と申します、と帽子を軽く持ち上げて会釈する姿が英国紳士を思わせた―の訪問を受けたのは、父が亡くなって半年ほど過ぎた秋のことだ。真面目で実直な高校教師であった父と、単位の取り易さだけが取り柄の至極いい加減な穴埋め授業ばかり行ってきた自分とを、教壇に立っていたことがある、という一点で一括りにするのはいかにも乱暴にすぎるとは思ったのもの、恐らく二回り近く年下であったろう父を「先生」と尊称する高崎翁が、孫と言ってもおかしくない年頃の彼に対して向ける視線は、まるで教えを仰ぐ従順な生徒のそれのようで、無下には撥ね付け難い一途さがあった。
 しかし、父が南欧の小都市の遺跡に興味を持っていたなどとは、僕も初耳でした。殆ど独り言のような感想に高崎翁は、お父様にとってこの研究はあくまでも趣味の範疇だと認識されていたようですからね、と応じた。
「しかし、なぜあなたは父の研究を手伝って下さるようになったんですか?」
 彼が尋ねると、高崎翁は遠くを見るように目を細め、元はと言えば市民講座の脱線がきっかけでしてね、と懐かしそうに口元を綻ばせた。
「脱線?」
「ええ。あなたのお父様は、高校を早期退職された後、時折地元の市民講座で歴史の講義をして下さっていたのです。先生のお話を聞いておりますと、遠い少年時代に新しい教科書を開いた時の期待感が甦ってくるようで、それはそれは心楽しい時間でしたよ。ある日、いつものように講義を終えられた先生が、ふと思い付いたようにして我々聴講生に一枚の銀貨を見せて下さったのです。美しい娘さんの横顔が彫られていましてね、これは遠い昔の城塞都市で、恋多き故に我が身と己の国とを滅ぼした悪名高き王女の姿だと言われている、しかし私には恋深き娘の哀しい肖像なのだと思えてならない……と、こう仰ったのです」
 私はすっかりその古代に生きた美女に魅了されてしまいましてね、と高崎翁は初恋の女性について語るかのようにはにかみながら続けた。
「それから、お父様の蔵書をお借りしたり、執筆途中の論文を見せていただいたり、といった交流が始まったのですよ。私は勝手に先生の弟子を名乗っておりましたが、まあ実際のところ、殆どお役には立てておりませんでしたけれどもね。しかし、あの少女のような王女様が、悪女の汚名を背負ったまま長い眠りに就いている、その事実を痛ましく思う想いだけは、先生にも負けはしませんです」
 ですから、と高崎翁は彼の目をひたと見据えて身を乗り出した。
「お父様の研究を、このまま埋もれさせてしまうのはあまりにも忍びないのです。どうか、あなたの手で引き継いではもらえないでしょうか?」
 正直なところを言えば、父の遺志を継ぐという使命感に駆られたのでも、高崎翁の熱意に共感したわけでもなかった。けれども、気付けば彼は、几帳面に陳列された資料群を自室へ運び込み、強烈な日差しに無防備な首筋をじりじりと焦がされながら黒い瞳が美しい少女に娘の横顔を重ねていたのだった。

 いささか効き過ぎの感がある冷房のためか羽織っていた長袖のシャツを、肘の上まで捲り上げながら、大学生風の若者たちが店を出て行く。店内に居残っている客は、浴衣の少女ふたりと自分たちだけで、あまり若い娘たちをまじまじ凝視するわけにもいくまいし、駐車場のウェイターはとっくに水撒きを終えてしまったとなれば、もう彼に視線を逃す先は見当たらない。
 気付かれぬように一度小さく深呼吸すると、彼は改めて、娘のふたつに括った髪の分け目辺りに目を据えた。ホットケーキを食べ終えたまほろは、テーブルに載せていた麦わら帽を膝の上に置くと、その下で窓越しの日を避けていた水に満たされたガラス玉を両手で目の高さに持ち上げて覗き込んでいる。風鈴を逆さにしたような形のそのガラス玉の中では、金魚が二匹泳いでいた。一匹は赤、もう一匹は黒の出目金で、良く見ると右の出目が無い。まほろは、大人の小指程度の大きさしかない魚たちが漂うその袋を、光にかざしてみたり、氷嚢のようにそっと額に乗せてみたり、黙々と戯れている。

 同じ菓子型で抜いて作ったように特徴の無い家並みが連なる新興住宅街に建つ姉の家に、約束の時間より十五分ほど早く到着すると、既にまほろは玄関先の小階段に膝を揃えて腰掛けていた。やあ、でもなく、よう、でもない不明瞭な挨拶と共に片手を軽く挙げてみせた彼は、ひょっとしてあの子は自分を待っていてくれたのだろうか、と一瞬胸の内に蝋燭が灯ったような温もりを覚えていた。
 夏の朝に咲く花をあしらったふわりと広がるワンピースに、丈の短い紺のカーディガンを羽織ったまほろは、特別嬉しそうでもなくひとつ頭を頷かせて無言のまま駆け寄ってくると、彼の着たシャツの裾をきゅっと握った。少なくとも迷惑そうには見えないな、と彼は僅かに安堵する。
 まほろの手を引いて歩き出しながら、彼は娘のワンピースが去年の夏に仕立てた浴衣と同じ柄であることに気付いた。そういえばしばらく前、突然彼の家にやってきた姉が、あの浴衣について話していたことを彼は思い出す。この間合わせてみたらすっかり丈が短くなっていてね、でもあの子に良く似合っていたから洋服に作り直そうと思うの。すごいわよねえ、あの年頃の子どもって。ちょっと目を離すと、すくすく大きくなるんだから。
 あれはもしかすると、娘の成長から目を逸らしてばかりいる自分に対する遠回しの糾弾だったのかもしれない。それにしても見え透いた演出をするものだ、と苦々しく思い、しかしそこで数時間前に姉と交した会話が、冷水のように彼を打った。そうだ、まほろは今日着て行く服を自分で選んだのだと、姉は言っていなかっただろうか。

 去年の今頃、彼と妻は幼い娘を夏祭りに連れ出した。この日のためにと、彼の姉が姪に贈った浴衣は清々しい朝顔柄で、濃紺の鼻緒が付いた玩具のように華奢な下駄と、小さな風鈴の付いたかんざしは、妻が見立てた品だった。夕方から下がり始めた気温と反比例して湿度の高かったあの夜、慣れない下駄を履いたまほろの足元を気遣いつつ、彼と妻はゆっくりと神社の境内をそぞろ歩いたものだ。時折、汗で額に張り付いた娘の髪を直してやりながら妻は、あれはりんごあめ、あれは綿菓子、とひとつひとつの屋台を指さしていた。
 しかし、まほろが生まれて初めての夏祭りに対して示した反応は至極淡白なもので、彼と妻は揃って肩透かしを食らうこととなる。彼女が唯一興味を惹かれたのはヨーヨーつりの露店で、その大人の目には毒々しいほどに原色の球体がぷかりぷかりと浮かぶ前にしゃがみこみ、まほろは動かなくなってしまったのだった。お嬢ちゃん、やってみるかい? と店主に声をかけられても首を振り、目は水面に釘付けになっている。白地の浴衣に大きく結んだ黄色の帯が、まるで巨大な蝶が止まっているかのようだった。その後ろ姿を隣に並んで見守っていた妻は、不意に彼のTシャツを引っ張ると、耳元に口を寄せ、やっぱりまほろがどの子よりも一番美人だわ、と誇らしげに囁いたのだった。
 あの時、と彼は時折思うことがある。あの時、自分もまた屈託なく頷くことができていたら、あるいは妻はまだ、自分たちの傍らに留まってくれていたのだろうか。

 ねえ、大人になるってどういうこと? いなくなってしまった妻に思いを馳せる度、彼の耳には母にそう問い掛ける娘の声が、幻聴のように木霊する。何度となく繰り返されてきたその質問に対して、妻はいつも決して口当たりの良い答えで誤魔化したりはしなかった。
「大人になるってことはね」
 その遣り取りを最後に聞いたのは、妻が姿を消す数日前のことだったはずだ。娘と同じ目線まで屈み込み、その頬を両手で包み込んだ妻は、一種悲壮なほど真摯な面持ちをしていた。
「自分が、この世界において決して特別な存在ではないんだって、そう学習していくことなのよ」
 随分と身も蓋もないことを言うものだ、と彼が唖然としていると、でもね、と妻はいつにもまして慈愛に満ちた声で続けるのだった。
「私にとってのあなたは、例え大人になっても特別な存在よ。大切な大切な、かけがえのない、たったひとりのあなた」
 だから大丈夫よ。あなたは安心して、大人になりなさい。そう言って妻は、娘の小さな体をきつく抱き締めたのではなかったろうか。そして、その時自分は一体どうしていたのだろうか。
 そういえば、と彼は思う。まほろは一度も、この父親に対して大人になることの意味を問い質したことはなかった。

 くぐもったような鐘の音が鼓膜を柔らかく震わせ、彼はうたた寝から覚めたように丸めていた背筋を伸ばした。鐘は、五回時を打って再び沈黙する。五回? 壁の時計を見上げれば、止まっていたはずの針がいつの間にか動き出し、五時を指している。正しい時間を確かめようと腕を持ち上げかけて、しかし彼は衝動的に腕時計を外し、テーブルに放り投げていた。じっとこちらを見つめるまほろの視線を、頬の辺りに感じる。

 交すべき言葉が見つからないまま、当てもなく歩いていた途中で出くわした小さな神社に、金魚すくいの露店を見つけたのは、まほろの方だった。きんぎょ、と小さく呟いた娘の繋いだ手に、僅かながらも強く握り返されたような気がして、彼は誘われるように境内へと足を踏み入れた。
 木陰に設けられた露店の前に座り込んだまほろは、意外なほど危なげない手付きであっという間に片手ほどの金魚をすくい上げていた。上手いねえ、お嬢ちゃん。露店の主が、お世辞ではなく本心から感心したように唸った。鰻でも燻していたのかと思えるほど煤けた団扇を鷹揚な仕草で仰ぐ主は、その彫りの深い目元と相まって、中近東の領主を思わせる雰囲気を漂わせていた。椰子の葉陰にでも座っていたら様になりそうだ、と彼が密かに空想している傍らで、まほろは何を思ったか、すくい上げた金魚を再び水の中へと返してやっていた。逃がしてやっていいのかい? 主に訊ねられたまほろはこくりと頷き、銀色の椀の中に二匹だけ残った金魚を、この子たちだけ連れて帰る、と主へ差し出した。そうかいそうかい、じゃあ代わりにいいものをあげよう。主は、椅子代わりにしていた木箱の中から薄紙に包まれたガラスの小さな器を取り出し、こいつは金魚玉って言うんだ、持ち運びするにはちょいと注意が必要だがな、ビニール袋よりよっぽど洒落てらあね、と闊達に笑った。

 気付けば、店内に他の客はいなくなっていた。カウンターの向こうにも、ウェイターはおろかマスターの姿さえ見当たらない。そんなはずはないと頭では分かっていながら、それでもなお彼は、今この時間、この地球上で自分と娘だけが取り残されて相対しているような、そんな錯覚を振り払えずにいた。
「なあ、まほろ」
 娘の名前を呼んだ自分の声は情けないほどにしゃがれていて、狼狽した彼は次の言葉を見失ってしまう。一度閉じた口をもう一度開き、また閉じる。これではまるで瀕死の金魚じゃないか、と諦めとも憤りともつかない感情に拳を握りしめた、その時だった。
 まほろが突然、彼女の手には持ち余る大きさのあるカルピスのグラスを両手でつかみ、半分ほど残っていた中身を一気に飲み干した。喉が渇いていたのか、ならば何か飲み物を、と一瞬の激情も忘れメニューに伸ばしかけた彼の手を遮るように、まほろは金魚玉を傾けると、金魚もろとも空になったグラスに注ぎ込んだ。そして、呆然とする彼の目の前に、ぐいっとばかりに突き出す。睨みつけんばかりに力強いその瞳が、最後に見た妻のそれと驚くほどに似ていた。

 まほろにはね、人間の得手不得手を見抜く才能があるのよ。一言一言を噛み締めるように、妻はそう言った。
「だって、あの子はとても聡明な子だもの」
「君と僕の子どもだから?」
 茶化すつもりで言ったその台詞に、彼女は一切冗談めかした様子はなく、そうよ、と頷いた。あなたと私の娘だから。
「でも、あの子は君にそっくりだ。芯が強いところも、思慮深いところも、みんな君に似たんだ。僕には、あの子に授けるべき美点なんてない。君だって、何も思いつかないだろう?」
 違うわよ。彼女はいつになく真剣な、まるで懇願するかのような声音で、彼の目を一心に見つめ返していた。
「そういうことじゃないのよ。あの子が私とあなたに求める役割は、それぞれ違うものなの。ねえ、どうしてそれが分かってあげられないの?」
 だとしたら、と応じた自分の答えを、彼は何度反芻したことだろう。そして出来得ることならば、噛み砕いて消化し尽くして、記憶の外へと排出してしまいたいと、何度願ったことだろう。
「だとしたら、僕の役割は、せいぜいあの子の反面教師になることかな」
 彼女が自分とまほろの前から姿を消したのは、その翌日のことだった。

 今、あの時の妻と同じ瞳をした娘が、真正面から自分を見返している。俺は、試されているんだろうな。いや、彼女から母親を取り上げてしまった不甲斐なさを断罪されているのか。ならば、と彼は自分に言い聞かせる。ならば、いい加減に腹を括るべきだ。
 彼は、まほろが押しやったグラスを片手でつかんだ。思ったよりも重い。そして、ゆらゆらと二匹の金魚が泳ぐグラスを持ち上げ、乾杯でもするかのようにまほろに向かって軽く捧げてみせると、そのまま一気に飲み干した。
 仄かに魚臭く生暖かい水と、続いてひやりと冷たくぬめりと滑る何物かが喉を通り過ぎていく。華奢な尾鰭がぴちりと喉の粘膜を叩いた、と感じたが、気のせいだったかもしれない。

 ごとり、と鈍い音を立てて彼がグラスをテーブルに置くや否や、つるりとした革のシートを滑り降りて、まほろが慌てたように駆け寄ってきた。麦わら帽がころりと床に転がったのも、一切意に介さない。彼の膝によじ登ると、思い詰めたような表情で、臍の辺りにぴたりと片耳を押し当てている。どうした、と声を掛けても細い指を一本立てて、しずかに、と鋭く制止する。
 やがてまほろが、あ、と小さく声を上げた。唇に指を当てたまま目だけで彼を見上げ、聞こえた、と囁く。
「……聞こえた?」
「金魚。ぽちゃん、ていった」
 まさか、と言下に否定しかけて、彼は口を噤む。
「……元気そうか?」
「うん、元気。泳いでる。お父さんのおなかの中」
 まほろがそう答えた途端、確かに彼の鳩尾より少し下の辺りで、何かが密やかに跳ねたような気がした。ああ、と彼は驚きと感嘆が綯い交ぜになった溜息を零す。
「金魚だな」
 ね、と満面の笑みを浮かべたまほろに、彼も自然と微笑み返していた。

【THE END】

* 競作企画「小説福袋」参加作品 *

企画管理人:ねこK・T様




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