「月花蝶舞―月ノ花ニ蝶ノ舞ウ」 ![]() ![]() ![]() ![]() 先生の予言通り、冷たい雨はなかなか止む気配を見せなかった。濁った色をした雲に太陽の熱を吸い取られたか、空気は日々冷え込んでいく。このまま雪に変わるのかもしれないと、期待交じりの呟きが交わされるようになった頃、やっと久方ぶりの晴れ間が見えた。教室に掛けられた日めくりは、もう残り少ない。明日からは、冬期休暇が始まる。学校中がどことなく弾んだ雰囲気に満ちているのは、そのせいだろう。 沈み始めた夕暮れの光を浴びながら、穂波は足早に校舎を後にした。空が晴れたら、と媛野は言った。きっと今日、彼は姿を見せるに違いない。しかし逆に言えば、今日の機会を逃せばもう二度と彼に会うことは出来ないような気もする。自然と早めていた足が止まったのは、部室へと通じる枯葉の積もった小道に、ぽつんと佇む小さな人影が見えたからだった。藍色に染まりつつある空を、ひとり見上げていた背中は、唐突に途切れた足音に気付いたのか、ゆっくりした仕草で振り向いた。 「……やあ」 素焼きの植木鉢を抱えた媛野は、淡い笑みを浮かべていた。 「久しぶりだね。元気だった?」 いつかと同じ台詞に、穂波もあの時と同じ答えを返そうとして、途中でやめた。代わりに、媛野が抱えた鉢に視線を落とす。 「僕の育てた月下美人だよ。もう少しで、開花が見られたのに」 残念だったな、とやっと聞き取れるほどの声で呟くと、媛野は赤ん坊でも抱くように大事そうに抱えていたその鉢を、穂波に差し出した。 「これ、穂波にあげるよ。もう、すぐに花が咲くから、見届けて欲しい。……僕の代わりに」 穂波は、無意識に首を横に振っていた。もし、手渡されてしまえば、その途端に媛野が消えてなくなってしまいそうな、錯覚と呼ぶにはあまりにも生々しい予感に襲われる。受け取ろうとしない穂波に、媛野は困ったような微笑を浮かべると、木の葉の積もった地面に屈み込み、慎重に鉢を下ろした。 「穂波」 立ち上がりながら、媛野が呼ぶ。 「僕は、花になるんだ」 それは、何かの比喩なのだろうか、それとも。穂波の頭の中に、先日聞かされた突拍子もない話が蘇る。人の体に寄生する花。彼らは、なによりも幼子のような純粋な魂を好む。まだ絵の具を載せられていない、まっさらなキャンバスのように純真な魂を。しかし、まさか。まさか、そんなことが。困惑して見返した穂波に、媛野はいつもと全く変わらぬ屈託のない笑顔を見せた。 「どんな花になるのかは、まだ分からないけれど。でも、強く望めば、自分の願った通りの姿になれるんだって。だからね、僕は蔓を持った花になる。長い長い蔓のある花になるんだ。そうしたら」 ふつりと言葉を切った媛野は、まっすぐに穂波を見上げた。その瞳に、さっきまでの無邪気な笑みは、もう跡形もない。 「そうしたら、また穂波に会いに来るからね。蔓をうんと伸ばしたら、きっと届くよ。この世界の、どこにいても」 「……媛野?」 これまで、彼が見せたことのない表情に戸惑って、穂波は彼の名を呼び返すことしかできなかった。 「穂波。僕は、……」 何か言いかけた媛野の声は、しかし突如として吹き付けた強風にかき消されてしまった。ざわざわと、ふたりを取り巻く木々が不穏な音を立て始めている。 「媛野、なに、を……」 訊き返した穂波に、媛野はもう何も答えず、ただ微笑んでみせた。その笑みに、いつもにはない翳りを認めて、穂波は眉を顰める。 「媛野」 軽く片手をあげた媛野は、そのまま穂波に背中を向けた。追いかけようと一歩踏み出した穂波の視界を、渦を巻いて一気に舞い上がった落ち葉が遮る。 「媛野!」 もう、視界は一面の枯葉に覆われている。まるで、穂波の目から媛野の姿を隠そうとするかのようだった。突風に堪えきれず、穂波はよろめきながら立ち止まり、腕で顔を覆った。泣き声のような音を立てて吹き荒れる風の中、じゃあねと媛野の声が聞こえた気がして、穂波は必死に目を開ける。煙幕のような落ち葉の向こう、敏捷に走り去る小さな人影がぼんやりと見えた。その背中から、細かい光の粒子をまとった羽のようなものが広がっていくように見えたのは、果たして幻影か、否か。 「媛野……!」 まとわりつく落ち葉を腕で払いながら、彼の名を叫んだ途端、ぷつりと糸が切れたように、風は吹き止んだ。耳が痛むほどの沈黙の中、媛野の姿は、もうどこにもない。追いかけなければと焦る反面、心のどこかから聞こえる悟りきったように冷めた声が、もう遅いのだと告げている。……そうだ。もう、遅かったのだろう。間に合わない、とは、つまりそういうことだったのだ。 彼女に、会わなければならない。今の自分には、確かめておかなければならないことがある。きっと、彼女はこの場にやって来るであろうという、確信めいた予感があった。その証拠に、さくさくと枯葉を踏む軽い足音が、次第に近づいて……。 「……それね。媛野君が育てていた月下美人」 一度、軽く唇を噛み締めて、穂波は聞き慣れた声の方へ向き直った。 彼の方へ数歩近づくと、先生は鉢を覗き込んだ。結い上げていない長い髪が揺れた瞬間、ほのかに香水のような香りが立ち昇る。彼女は、自画像と同じ真紅の衣装に身を包んでいた。周りのなにもかもが無彩色の世界に沈み込もうとする中、その赤と口紅の色だけが、毒々しいほどに鮮やかだった。 「もうすぐ蕾が開くわね。……さあ、どちらの開花が早いかしら」 「それじゃあ、媛野は……、媛野は本当に……」 「彼はきっと、最も無垢なる花を咲かせるはずよ。楽しみだわ」 「あなたは……、いや、あなたが……」 ひどく艶やかに微笑むと、先生はどこからともなく一本の筆を取り出した。これといって特徴のない筆だ。持ち手には、木目が浮き出して……。 「それは……」 「これは、魔法の筆よ。この前、月の花については話したでしょう? この筆で、種を蒔くの。なかなか洒落た趣向だとは思わない? この世にふたつとない稀有な花を咲かせることができるのは、絵筆を操る者だけ。絵を描く者だけにこの筆は託され、今この時まで伝えられてきたのよ。この筆を手にすることができただけでも、私は絵を志して良かったと思ったわ。……あら、どうしたの、そんな怖い顔をして? これからこの筆を、あなたに託そうと言うのに」 先生の言葉は、心地よい旋律のように染み込んでくる。誘い込むような響きに、ともすれば流されてしまいそうだった。 「……嫌だと言ったら、どうなるんです。そんなものは受け継ぎたくない、途絶えてしまえばいいんだと、僕がそう言ったら?」 「あなたに、そんなことはできないわ」 自信に満ちた口調に、穂波はたじろいだ。抗い切れない。敗北感にも似た思いが、忍び寄ってくる。 「どうして、ですか?」 「ねえ、穂波君。媛野君の肖像を描いたのは、あなたなのよ。私には結局、彼を描くことはできなかった。でも、あなたにはそれができたのよ。彼を描いたのはあなた。種を蒔いたのは、あなたなのよ。……考えてご覧なさいな。これからあなたは、その筆であなたにしか生み出せない作品を残していくことになる。あなたにも分かるでしょう? 自分にしか作れないものを模索する苦しみ、それに到達した時の喜び。あなたにだって、それが分からないはずはないわ」 ……そうだ。分からないはずはない。その誘惑に、逆らい切れるはずなどないのだ。黙りこんだ穂波を、先生はひどく満足げな笑みを浮かべて眺めていた。 「この筆を継いだ者は、自ら土壌を選んで、種を植え付ける。もちろん、誰でも彼でも絵に描けば花を咲かせるわけではないわ。自分が、なにかしら強い感情や興味を抱いている相手……それが、愛情であれ憎悪であれ、心動かされる相手でなければ、種はうまく根付かない。この花はとても純粋な生き物なの。無垢な魂を一欠片も持ち合わせていない人物を宿主に選んでしまえば、やがて種の断絶にも繋がりかねないのよ。何代にもわたり、この花は人知れず守り継がれてきた。そんな美しいものを絶えさせてしまうなんて、あまりにも惜しいことでしょう? さあ……」 促されるまま受け取った絵筆は、不思議なほど手に馴染んでいた。まるで、もう何年もこの筆と共に過ごしてきたかのようだった。 「自らに種をまくだけの力が残されていないと悟った時、画家は最後に一枚だけ、自分のために絵を描く。自分の、肖像をね。その筆を使って、自画像を描く。それが、どういう意味を持つのか。穂波君、あなたには分かるわね? ……私が伝えるべきことは、これで全部よ。後は、あなたに全てを託すわ」 はらりと、何か白いものが舞い落ちた。雪ではない。雪よりもなお白い無数の花弁が、先生の頭上から降り、足元から舞い上がり、幾枚かが穂波の頬を撫でていった。やがて真紅のドレスを覆い隠し、世界を黒と白に染め上げていく。 「覚えているかしら」 吹きすさぶ花嵐の向こうから、細いながらも明瞭な声が、歌うように語り掛ける。 「いつだったか、あなたに言ったことがあるわね。あなたの瞳には毒があると。ねえ、穂波君。私が今、何よりも待ち望んでいることを、教えてあげましょうか? ……それはね、あなた自身が花になる、その時なのよ。昔からよく言うでしょう? 綺麗な薔薇には鋭い棘があるって。美しいものと禍々しいものとは、本来表裏一体なのだと、私は思っているわ。あなただってそう。それに」 一瞬、吹き荒れる白い風の中に、笑みを浮かべた唇の紅が、浮かんで消えた。 「毒花こそ、より艶やかに咲くもの。そうは思わない?」 我に返ると、何事もなかったかのような静寂に満たされた小道に、穂波はぽつねんと残されていた。くずおれるように座り込んだ鼻先を、微かな甘い芳香がかすめる。誘われるように辺りを見回した穂波は、香りの正体を見定め、思わず小さく声をあげた。媛野の月下美人が、今正に開花の時を迎えていた。 羽化する蝶のように、花弁が広がっていくに従って、甘やかな香りが一層色濃く立ち込める。吸い寄せられるように、花弁に触れようと延ばした手の平に、ふわりと白いものが落ちた。花弁よりも柔かな、この冬最初の雪だった。ひとひら、ひとひら、舞うように降る雪片にいざなわれるように空を振り仰ぐと、漆黒の闇をそこだけ引っ掻いたような三日月が、ぽかりと浮かんでいる。目を凝らすと、欠けて見えるはずの月面が、仄かに光を放っていた。 「地球照の月……」 呟いた途端、背中の辺りで何かがどくりと蠢いた。 記憶は、定かではない。しかし、あの夏の日、媛野が気紛れに選び出したのは、もしや今自分が手にしているこの筆ではなかっただろうか。この筆の秘めた引力に、媛野も惹き寄せられたのだとしても、決して不思議ではない。だとしたら……。そうだとしたら、媛野の差し伸べた目に見えない蔓に、この身は既にもう、囚われているのかもしれない。 「あのアゲハ蝶は……」 両の腕を、ぼんやりと輝く月に向かって伸ばす。清明な光に青白く透けて見える指先を伝って、微かな振動が大気を震わせていた。今ならば、分かる。これは、あの月面に咲く月の花たちの鼓動なのだろう。その中にはきっと、媛野の分も含まれているに違いない。ならば……と、穂波は知らず微笑んでいた。ならば、怖くはない。それならば、何も恐れることはないのだ。あの場所で、彼はきっと自分を待っていてくれることだろう。 「あれは、やっぱり僕だったんだな、媛野」 目を閉じると、この身の奥深く、淡い月光を浴びて歓喜するように脈打つもうひとつの鼓動が、確かに聞こえるような気がした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る あとがき→ 贈答品へ 入り口へ |