「月花蝶舞―月ノ花ニ蝶ノ舞ウ」 ![]() ![]() ![]() ![]() それから数日、太陽は分厚い雲の向こうに隠れたままだった。空は一面の鈍い鉛色で、こう曇天が続くと、何もなくとも気分が沈んでくるような気がする。 「ねえ、穂波」 パレットを洗っていた媛野が、不意に穂波を呼んだ。空を見上げていた目を彼に移すと、媛野は笑いをこらえている時のような、ひどく複雑な表情をしていた。 「背中がむずむずするんだ。ちょうど、小さい虫でも這ってるみたいに。何かおかしくないか、見てもらえないかな?」 言われた通り、穂波はこちらに向いた媛野の背中をまじまじと凝視した。肩甲骨が不自然に出っ張っているように感じるのは、彼が華奢だからだろうか。そっと手の平を乗せてみる。すると……どくり、と跳ね返すような感触があった。慌てて手を引っ込める。……気のせいいか。 もう一度触れてみたが、くすぐったいと言って媛野が首を竦めるので、それ以上確かめることは諦めた。恐らく、錯覚だろう。そう、自分に言い聞かせる。 「何もないよ。変わったことは何も」 そうかなあ、と、媛野はまだ納得のいかない様子で、精一杯首を後ろへ回し、自分の目で確かめようとしている。 「最近、ずっとそうなんだ。雨の日には特に酷くなる。なんだか、体の中に自分とは別の生き物でも住んでるみたいで、落ち着かないんだ」 気のせいだよ、と穂波は強いて笑ってみせた。ふと思いついて、からかうように媛野の瞳を覗き込む。 「ひょっとして、羽でも生えてくるんじゃないか?」 冗談めかした口調で言った穂波に、媛野は存外真剣な顔で、そうかもしれない、と答えた。 「……そうだ、天気になったら、穂波の絵、描かせてよ。天気が良くなったら、すぐに。今度はちゃんと描くから」 「うん。それは構わないけど、でも……」 何をそんなに急いでいるのだ、と訊こうとしたが、媛野はせき込むように遮った。 「約束だよ? 空が晴れたら、すぐにだからね。でないと……」 肘の上まで捲り上げていたシャツの袖を直しながら、媛野は俯き加減で何事か呟いた。 「……何だって?」 「ううん、なんでもないよ。……僕、先に帰るね。忘れないでよ、穂波。約束だからね」 どこか取って付けたように明るい声で早口に告げると、媛野は軽く手を振って駆け出していった。その後姿を見送りながら、穂波は彼が呟いた言葉を小さく声に出して繰り返した。 「間に合わない、だって……?」 何に間に合わないと言うのだ。彼の後を追おうとした穂波は、しかし扉の前で凍りついたように足を止めた。扉の脇には、穂波の描いた媛野の肖像画が掛けられていた。いつの間に飾られたのだろう、まるで気付かなかった。けれども、穂波の足を竦ませたのは、思いがけず自分の絵と遭遇した事実ではなく、そこに描かれた媛野の瞳だった。この前よりも、生き生きとした光を帯びている。生きているようだ。まるで、媛野本人から生気を吸い上げたかのように……。 ぞくり、と背筋が冷たくなった。慌てて、壁から額縁を外し、作業机の上に裏を向けて放り出す。この絵は不吉だ。自分が描いたものとは言え……いや、この絵を描いたのは自分ではない。筆を握ったのは確かにこの手だが、描かせたのは自分の意志ではない。この絵を処分しなければ。穂波は額縁から絵を取り出し、一気に破り捨てようとした。 「無駄よ」 突然、涼やかな声が背後から降ってきて、穂波は弾かれたように振り返った。 「先生……」 「どうして破ろうとするの? そんなに良く描けてるのに」 言葉を失って立ち尽くす彼に、先生は婉然と微笑んでみせた。 「それにもう、遅いのよ」 「……遅い?」 問いには答えず、先生は穂波の脇をすり抜け、窓の向かいに掛けられた額縁の前に立った。 「穂波君は、良くあの絵を眺めているわね。あなたはいつも、この絵を見ながら何を考えているのかしら?」 「……口頭試問みたいですね」 「そうね。そうかもしれないわよ?」 背中を向けていても、声に含まれる響きで、先生が笑みを浮かべているらしいことが分かる。 「……何を、考えているんだろうって、いつも思うんです。ここに描かれている人たちは、一体何を思っているんだろうって。彼らはみんな、今自分のいるこの場所に、充たされながらも絶望しているように見える。ここは自分の居るべき場所じゃない、本当の居場所へ帰りたい、そんな風に思っているように、僕には見える」 だけど、と続けようとした言葉を、穂波は飲み込んだ。絵から受け取った印象は、あまりにも漠然としていて、人に伝えるのは難しい。 「面白いことを言うのね。あの絵を、そんな風に読み解いたのは、あなたが初めてだわ」 くすくすと笑いながら、先生は額縁の表面を慈しむように指先でなぞっている。 「この絵はね、穂波君。とても、貴重なものなのよ」 貴重、という言葉に、穂波は眉を寄せた。あの絵に、そんな表現はまるで似合わない。確かにどこか人の心を捉える作品ではあるが、技巧的には稚拙といってもいいだろう。彼の内心の疑問を読み取ったように、先生は軽く頷いてみせる。 「技術的には大した作品じゃないわ。けれど、その絵には博物学的な価値があるの」 「博物学的?」 再度頷くと、先生は絵の前を離れ、窓際へと歩み寄った。四六時中閉めたままになっている日焼けしたカーテンを脇へ押しやると、窓を大きく開け放った。古い木材が立てる軋みと共に、冷えた空気が流れ込んできて、穂波は思わずコートの襟元をかき合せた。 「……地球照の月、という現象を知っているかしら」 言葉こそは問いかけだったが、特に答えを期待する風でもなく、先生は言葉を続ける。 「三日月の頃、いつもならば見えないはずの、光の当たらない暗く欠けた部分が、うっすらと光って見えることがあるの。地球に反射した太陽の光が、月の影を照らし出して見せるのよ。それが、地球照の月と呼ばれる」 窓の枠に腰掛け、先生は窓の外を見上げた。 「昔の人たちは、その暗く光る面を、地球でも月でもない場所だと考えた。そして、そこには人類でも、ましてや月のうさぎでもない、特別な生き物が暮らしていると言い伝えられてきたの。彼らは、動物でも植物でもない。ちょうど、その中間のような存在だと考えられてきた。そして……」 細い指を伸ばし、先生は額縁を指してみせる。 「その絵は、彼らを描いたものだといわれている。不思議な絵だわ。さして見所があるわけでもないのに、なぜだか人の目を惹き付けて離さない。……この絵はね、私の学生時代の恩師から譲られたものなの。あなたと媛野君も、一度会ったことがあるはずよ。覚えていないかしら。あれは、夏だったわね。あなたたちふたりも一緒に、スケッチの題材になる景色を探して歩いたでしょう?」 言われて、思い出した。媛野の瞳を、真昼の湖面に喩えたのは、確かその老画家だったはずだ。あれは蝉が今を盛りと鳴き立てる、暑い日だった。そう言えば、媛野が穂波をモデルにアゲハ蝶を描いたのも、あの日のことだった。老画家がスケッチに熱中している間に、退屈した媛野が、こっそり筆を一本拝借して描いたのだ。後で、彼がこっぴどく叱られていたことを覚えている。 「この絵は、先生が大切に保管してきたものなの。先生の手に渡る前には、また別の画家の持ち物だったそうよ。そうして、何人もの手を渡り歩きながら、この絵は守られてきた。それだけの価値がある絵だからよ」 「博物学的な価値が、ですか」 「ええ。……ところで、穂波君。さっきの続きを聞かせてくれないかしら。あの絵について、何かまだ言い足りないことがあるのでしょう? そんなに難しく考えなくていいのよ。私はただ、あなたの感想が聞きたいだけだから」 突然話題を変えた先生に面食らいつつ、穂波は言われるままに訥々と言葉を並べた。 「どうして……、どこか別の場所へ行きたいなら、どうして……、望む通りにしないんだろう……、そう思うんです。彼らには翼があるのに……、翼があれば、どこへだって飛んでいけるのに……」 「……違うわ」 体ごと穂波に向き直ると、先生は風にあおられたほつれ毛を白い指でかきあげた。室温は、指先がかじかむほど低くなっているというのに、彼女はまるで寒そうな様子を見せない。 「あれは、翼じゃないの。双葉よ。植物の、双葉。見た目はよく似ているけれど、その役目はまるで違う。翼は、それを持つものをその場所から解き放ち、双葉は繋ぎとめる」 「双葉?」 「そう。あの絵に描かれているのは、地球照の月面にだけ咲く、伝説の花なの。人の体に宿り、人の魂を養分にして育つ花。……この花はね、生まれたての赤ん坊のような、純粋な心が大の好物なの。猜疑や打算や、そんなものをまだ知らない無垢な心をね。……ああ、そうだわ。例えば……」 先生はふと、何故かひどく楽しげに微笑した。 「媛野君ならば、とても綺麗な花を咲かせるかもしれないわねえ」 背筋に、這い上がるような冷気を感じた。それは決して、寒さだけのせいではなかったはずだ。 「……冗談、なんでしょう?」 何とかそれだけ聞き返した声は、ひどく掠れていた。 「さあ。どうかしらね」 音も立てずに立ち上がると、穂波には目もくれず、先生はドアへと向かった。背を向けたまま外へ一歩踏み出し、そこで立ち止まる。 「降ってきたわ。……この雨は、当分止みそうにないわね」 ドアが閉まり、ひとり取り残されてからも、穂波はしばらく立ち尽くしていた。絡みつくような寒気は、更に酷くなっている。小刻みに震えながら、穂波は、手近の椅子をひいて腰を下ろした。今の話は、一体なんだったのだろう。何故、先生はそんな話を自分に聞かせたのだろうか。ただ……と、自分の両腕を抱きこむようにしながら穂波は思った。針のようなこの雨が降り止むまで、媛野が自分の前に現れることはないだろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ←戻る 進む→ 贈答品へ 入り口へ |