「月花蝶舞―月ノ花ニ蝶ノ舞ウ」



 部室の重い扉を開けると、中では既に先生が画材の準備を始めていた。揃って挨拶の声をかけた穂波と媛野に、彼女はほんの僅か口元を綻ばせ、会釈するような素振りをみせた。それ以上、ふたりには注意を払わず、ただ黙々と筆を動かしている。先生は、いつもこの調子だった。顧問とはいえど、部員であるふたりに対してなにかしらの指導をするわけではない。その代わり、活動時間中の穂波たちがいくら好き勝手に過ごしていても、小言ひとつ言われたことはなかった。
 決まって無彩色の服に身を包み、まっすぐな黒髪をきつく結い上げたこの女性教諭の姿を、初めて声をかけられたあの日以来、穂波はこの場所の外で見かけたことがない。
「媛野君。この間の続きを描きたいんだけれど、ちょっとそこに座ってくれる?」
「モデルは、穂波に変更したんじゃなかったんですか?」
「ええ。でも、せっかくだからもう一度描いてみたいの」
 言われた通りの姿勢で椅子に腰掛け、媛野は作業机に頬杖をついた。一生懸命に神妙な顔をしようとしているが、何かの拍子に穂波と視線が合うと、悪戯っぽく瞳を回してみせる。なるほど、やはり媛野はあまりモデル向きではないかもしれない。
「媛野、動いちゃ駄目だ」
 たしなめるように声を掛けてから、穂波はひとり壁際へと歩を進めた。大きな窓に向かい合う壁面には、一枚の絵が飾られている。
 美術部員とは名ばかりで、大抵の時間はレコードを聞いたり話し込んだりして過ごす穂波たちはともかく、いつもひとりキャンバスに向かっている先生の作品は、かなりの数に上るはずだった。しかし、それらはどれもこの部室内には置かれていない。彼女の絵だけではなく、この部室に美術作品らしきものは殆ど飾られていなかった。
 唯一の例外が、穂波が今眺めている額縁である。無題、作者不詳、と素っ気無く記されたプレートが物語るように、この絵は製作者も製作年もまるで分からない、出所不明の作品であるらしい。そんなものが、何故わざわざこの部室に飾られているのか、不思議に思わないでもなかったが、穂波はどこか、この絵に惹かれるものを感じていた。

 奇妙な絵だった。舞台は砂漠のような場所なのか、一面黄土色の地面が広がっていた。そこに描かれているのは、数人の人物だ。あるものは膝を抱えて地面に丸くなり、あるものはこちらに背中を向けて立ち、あるものは両手を空高く掲げている。人物像はぼんやりした輪郭のみで描かれ、性別も年齢も、はっきりとは分からない。どんな表情を浮かべているのか、それも判然としなかった。
 そして、なによりも奇妙なのは、人物像の背中に、羽のようなものが二枚ずつ描かれていることだった。色は薄緑、かげろうのそれのように薄く、透き通っている。表面には、細かに文様のようなものが描き込まれ、その緻密さは画面全体の滲んだような描き方とはどこか不釣合いだった。
「ねえ、穂波君」
 名前を呼ばれて振り向くと、先生は道具箱の中から一本の筆を取り出したところだった。物自体はかなりの年季ものらしいが、丁寧に扱われてきたのか、まるで傷みは見られない。どこにでもあるような、ありふれた筆だ。しかし、持ち手部分に浮き出した木目に、いつかどこかで目にしたことがあるような、強い既視感を覚えた。あれは、いつ、どこで……。しかし、穂波の思考は先生の言葉に遮られた。
「あなたも、一度描いてみない? 人物画」
「でも、僕は……」
 人物画は苦手だ。そう言って断ろうとしたが、先生は分かっているという風に頷いた。
「得意じゃないんでしょ? でも、描いてみたら案外面白いかもしれないわよ。それに、ほら」
 先生は、じっと動かずにいる媛野の方に軽く笑みを向けた。
「媛野君が大人しくモデルになってくれる機会なんて、滅多にないわよ」
 そう言われて、穂波は思わず噴き出した。
「……それも、そうですね」
 酷いなあ、と呟いて、媛野が頬を膨らませてみせる。拗ねた子どものような仕草だ。先生が差し出した筆を受け取り、穂波はスケッチブックを広げた。黒ペンで大まかに全体像を描きこみ、絵の具で色を付けていく。不思議な程に、筆は滑らかに動いた。まるで、筆自身の意思に引きずられているようだ。自分が描いているのか、それとも筆に手を貸しているだけなのか、それすら曖昧になってくる。無心で走らせていた筆がふと止まると、スケッチブックの上には自分でも気付かぬ内に媛野の姿が完成していた。
「……あら」
 背後から覗き込んだ先生が、驚いたような声を上げる。
「生き写しだわ。特にほら、目の色なんて、本当にそっくり」
 感嘆するような響きに、穂波はぼんやりと先生の顔を見上げ、半ば放心したままその視線をスケッチブックに戻した。頭の芯が痺れたようで、思考がうまく纏まらない。しかし、自分が描き上げた媛野の姿が、驚くほど本人に良く似ていることだけは、理解できた。藍色を微妙に溶かし込んだような瞳など、あまりにも鮮やかすぎていっそ気味が悪いくらいだ。これを自分が描いたとは、到底信じられなかった。
「媛野君、もういいわよ、おつかれさま。あなたもこっちに来て、見てご覧なさいな」
 媛野はほうっと息をつき、姿勢を崩した。安堵したように微笑むその瞳は、気のせいかわずかに色褪せて見えた。

 休日前の放課後、図書館は閑散としていた。閲覧用の六人掛けの机をまるごとひとつ占領していても、文句を言う生徒は誰もいない。それをいいことに、穂波と媛野は机の上いっぱいに教科書やノートを広げていた。
 媛野が数式を睨みつけながら一心に鉛筆を動かしている間、穂波は彼のノートを手に取り、見るともなく眺めていた。媛野のノートには、余白がほとんど見つからないほどに書き込みがしてあった。その大部分は、授業の内容とは関係のない、書き殴ったようなスケッチや、詩の断片のような文章である。例え授業中であっても、彼の頭の中は先生の話を聞いているよりも自分の思いつきを追いかけることで忙しいようだ。
 学校での媛野の成績は、お世辞にも良いとは言えないものだったが、しかし彼は決して理解力がない訳ではない。ただ、彼の思考は一時もひとところに留まらず飛躍を繰り返すため、単語や公式を暗記するのがひどく苦手なのであった。
 やがて、大きな溜息とともに媛野は鉛筆をかたりと机の上に投げ出した。どうやら、数学と格闘するのに飽きてしまったらしい。無言で、訴えかけるようにこちらを見上げる彼に、今日はこれで終わりにしようかと声を掛け、穂波は開いていたノートを閉じた。
 いつの間にか、雨が降り出していた。穂波は小さく舌打ちして窓の外を見やる。今朝の天気予報では、雨が降るなどとは一言も言っていなかったのに。傘は、先日部室に置いてきてしまっている。図書館の出口で媛野と別れ、穂波は小走りで部室へと向かった。時刻は夕方というよりも夜に近づいている。この時間だと、もう先生も帰っているだろうか。

 息を切らしつつ、部室にたどり着くと、予想に反し、中にはまだ明りが灯っていた。雨に濡れたマフラーを首から外しつつ扉を開けると、先生はコーヒーカップを両手で包むようにしながら、微動だにせずキャンバスを見つめていた。
「……こんばんは」
 声を掛けるのも憚られるような気がして、穂波は囁くように挨拶した。その声に、先生ははっとしたように彼の方を見た。穂波の姿を認めると、いつものようにうっすらと微笑む。
「あの、傘を忘れたはずなんですが、どこかに……」
 尋ねつつ、何気なくキャンバスに目をやった穂波は、一瞬小さく息を呑んだ。
「それ……、自画像ですか」
 ええ、と先生は答え、ゆっくりと体ごと穂波の方へ向き直った。少し照れたように微笑む。
「一度、描いてみたかったのよ」
 キャンバスには、真紅のドレスを纏った髪の長い女性が描かれていた。今目の前に座っている先生の姿からはあまりにもかけ離れていたが、形良く引き結ばれた薄い唇と、すっきりと通った鼻筋は、間違いなく彼女のものだった。灰色がかった涼やかな瞳など、今にもこちらを向いて見慣れた微笑を浮かべそうだ。
「そうだわ、さっきコーヒーを淹れたところなの。もし急いでいないなら、穂波君もどう?」
 穂波に温かいカップを渡すと、私はもうしばらく描いているから、と先生は再びキャンバスに向き直る。邪魔にならないよう、穂波はいつものように額縁の前に立った。何度見ても、不可思議な絵だ。これを描いた画家が何を伝えようとしたのか、想像もつかない。けれど、と穂波は思う。媛野ならば、この絵に込められたメッセージを、正確に聞き取ることができるのではないだろうか。彼の目に映る世界は、自分の見ているそれとはまるで異なっているような気がする。
 媛野は何故、この学校に入学したのだろう。彼にとって、退屈な数式や歴史など、耳障りな雑音でしかないのではないだろうか。彼にはむしろ、ただ自分の描くイメージを追い続ける生活こそふさわしい。
「媛野君に、理由を聞いてみたことはないの?」
 突然声を掛けられて、穂波は危うくカップを取り落としそうになった。どうやら、内心の呟きが言葉に出てしまっていたらしい。動揺を隠すように、空になったカップを慎重に作業机の上へ置きながら、穂波は小さく首を横に振った。
「……いえ。でも、一時期は画家のもとで勉強していたこともあったって、そう聞いたことはあるけれど……」
 その先生はね、自分の描きたいように、僕にも描かせようとしたんだ。媛野は、珍しく苦笑を浮かべながらそう話したものだ。でも、僕にそんなことはできない。僕は、僕の描きたいものを、僕の描きたいように描く。それだけだ。その時ほど険しい表情をした彼は、それ以前もそれからも、見たことがない。
「彼はね、素描画が苦手だったのよ。いえ、苦手というよりも、描けないのね。対象物を、見たままに描き写すことが、彼にはできなかった。彼の先生という人は、そのことについて随分と厳しく言ったようね」
 ああ、と穂波は溜息とも相槌ともつかぬ声を上げた。分かるような気がする。媛野の想像力は、目の前のものをそのまま写し取るには、あまりにも奔放すぎたのだろう。  複雑な思いで、穂波は曖昧に頷いた。自分の描く絵と媛野のそれとは、正に対極に位置している。しかし、と穂波は思う。しかし、「絵を描く」という作業に必要なのは、自分のような写真のごとき正確さだけではないはずだ。自分には致命的に欠けている無邪気な自由さを、媛野は有り余るほど持っている。その自分を、他でもない彼が羨んでいるというのか。湧き上がる苦い思いをかき消すように、穂波は軽く首を振った。
「きっと、媛野の目は素直なんだ。自分の見たいと思うものに、正直なんだ。僕は、いつもそう思います」
 すると、先生は可笑しそうに目を細めた。
「媛野君も、似たようなことを言っていたわ。あなたの目は、歪みのないレンズみたいだって」
「僕、の?」
 意外な言葉だった。戸惑いつつ聞き返す穂波に、先生はただ笑ってみせた。
「でも、ね」
 唇の端を吊り上げるようにして、先生は更に笑みを濃くする。そこには、穂波を怯ませるに充分な何かが浮かんでいた。目を逸らそうとしても、射すくめられたかのように、視線を動かすことが出来ない。
「でも、あなたの目には毒があるわ」
「……それは、どういう」
 乾いた声で問い返す穂波には答えず、先生は窓際に立ち、すっかり暗くなった空を見上げた。
「その内、分かる時が来るわ。……そう、その内にね」



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