「ワタゲノヒトビト」



* 結・ワタゲノフユ *

 それがどういうことなのか、今の僕にはちゃんと分かっている。お出かけ用のバスケットに入れられて、連れていかれた先は、僕も家族と何度も来たことのある家だった。玄関で僕たちを迎えてくれた女の人が、「おばあちゃん」と呼ばれていたことも覚えている。でも、何かが変だった。いつもはお母さんに男の子と女の子、みんなで一緒に来るのに、その日はお父さんだけだった。それに、僕の入ったバスケットを、じゃあお願いしますねとおばあさんに渡すと、お父さんはそのまま家の外へ出て行ってしまった。最後に一度、僕の頭を撫でて、元気でな、と言い残して。
 これは多分、なにかの間違いなんだと思った。新しい家族となったおばあさんは、僕にとても優しくしてくれたけれど、でも、僕の家はここじゃないと、ただ一心に思い続けた。だから、必死で帰ろうとした。家を飛び出し、まるで見覚えのない景色に怯えながら、それでも無我夢中で歩き続けた。気付き始めたのは、いつのことだったろう。もしかしたら、僕は帰っちゃいけないんじゃないだろうか。そう思うと、たまらなく寂しくなった。でもその反面、ああそうだったんだと妙に納得したりもした。そういうことだったんだ、と。そんなことを、雪のちらつく公園のベンチ下で考えた。これが、ひとりぼっちってことなんだ、と生まれて初めて心の底から実感した。だから、冬は嫌いだ。あの時の、なにもかもが透けてなくなってしまうような心細さを、くっきりと思い出してしまうから。

 僕が日和に出会ったのも、鈍色の空が広がる寒い日だった。
“なにしてるの?”
 開口一番、彼女はそう聞いた。なにしてるもなにも、ここから動けないんだ、と説明しようとしたけれど、体が凍えてしまって上手く言葉にならない。けれどとにかく、この場所から連れていって欲しくて、僕は痛む足をひきずりながら、必死に彼女の足元まで擦り寄っていった。寒かった。とてつもなく寒い日だった。ふうん、と一人納得した風の彼女は、しゃがみこんで僕を膝の上に抱き上げた。
“あんた、どっかへ行きたいんだ。ね、そうでしょ?”
 きょとんと見上げると、彼女は確信に満ちた笑みを浮かべてみせた。
“どこか、帰りたい場所がある。会いたい人がいる。そうなんじゃないの?”
 そう。そうなんだよ。帰りたい。帰らなきゃ。でも、ねえ、どうしてだか足が動かないんだ。帰らないといけないのに。帰らないと……。うわごとのように繰り返す僕の頭を撫でながら、彼女は分かってるよ、と言った。とてもとても、優しい声だった。
“心配しなくていいよ。あたしが連れてってあげる。だから、今は休んだ方がいい。あんた、足に怪我してるんだよ。だけど、大丈夫だから。あたしがちゃんと手当てしてあげる。ね、だから、あたしと一緒に行こう?”
 そうして、僕らの奇妙な道中は始まった。彼女の唯一の持ち物である黄色いリュックに、僕も一緒に詰め込んで。

 あれから、一年。季節は一回りして、僕はここに戻ってきた。懐かしい、僕の家。でも、ライオンの顔を象った取っ手のついた、見慣れた門扉の脇に掛けられた表札には、まるで見覚えのない文字が並んでいた。どういうことだ、どういうことなんだ、これは? 混乱する僕の頭の上から、日和の静かな声が降ってくる。
「あんたの家族はね、お父さんの仕事の関係で、引っ越してったんだよ。新しい家は、どこか遠くにあるマンションでね、あんたを一緒に連れていくことはできなかった。だから、あんたをおばあさんの家に預けたんだよ」
 バーゲンセール後のワゴンみたいにぐちゃぐちゃになった僕の頭の中に、彼女の言葉は不思議とするする吸い込まれていく。僕は、ライオンの取っ手をもう一度見上げた。この扉の向こうには、僕には関わりのない別の生活があるんだ。もうここは、僕の家じゃないんだ。
「でもね、あんたは、捨てられたんじゃない。最後の最後まで、あんたの家族はあんたを大事に思ってたんだよ」
 思っていた、と過去形で言った彼女の言葉に、僕はなぜか重りのように沈んでいた寂しさがすうっと解けていくのを感じていた。
 本当は、もうずっと前に諦めていたんだ。でも、それを認めるのが嫌だった。認めてしまえば、動かしようのない事実になってしまう。それが嫌だった。
 ……うん。僕も、大事に思っていたよ。とてもとても、大切だった。とてもとても、大好きだったよ。ひとつだけ心残りなのは、今までどうもありがとうって、ちゃんとお礼を言えなかったことかな。だから、今ここで言っておくね。ありがとう。そして、さよなら……。

  「おい、日和! と、リュックに入った柴犬!」
 突然割り込んだ大声に、センチメンタルな気分を台無しにされて、僕はちょっとむっとした。しかも、その呼び方はなんだ。リュックに入った柴犬だって? 確かにその通りだけど、もっと他に言い方はないのか。文句を言おうと息巻いていた僕は、無遠慮な声の主を見定めて、思わずあんぐりと口を開けた。あの、夏に行ったお化け屋敷で出会った男の子だ。それに、栗ご飯のおばあさんも。突然現れたふたりを見ても、日和はまるで驚いた風でもなく、あら迎えに来てくれたの? なんて呑気に声をかけている。
「そうだよ。あんまり遅いからさ。君がきっちり宿題を片付けて、早くこっちに来てくれないと、お目付け役の僕らまで叱られるんだぞ?」
 憤慨した様子の男の子を、おばあちゃんがまあまあと宥めている。日和に向けられたおばあちゃんの目は、この前と同じでとても優しかった。
「さて、日和。これで宿題はおしまいだよ。よく頑張ったねえ」
「じゃあ、もうおばあちゃんたちと一緒に行けるのね?」
 いつになく真面目な顔で訊ねる日和に、おばあちゃんはほんのちょっぴり悲しそうな笑顔で頷いた。
「ほら、早く行こうよ、日和」
 足踏みしながら男の子が急かす。さあ、行きなよ、と言いかけて、僕は何かがおかしいことに気付いた。ちょっと、ちょっと待て。まじまじとじれったそうに足踏みしている男の子を凝視する。そうだ、そうだよ、この子は生きている人間じゃなかったんだ。今日は足があるからすっかり忘れていたけど。そうか、日和のアドバイスを採用したんだな……って、そうじゃなくて。
「リュック犬、リュック犬、あのね」
 ぐらぐらと混乱している僕の目を、日和が少し困ったような顔で覗き込む。
「たぶん、あんたにももう分かってると思うけど、あたしはあんたと同じ世界の人間じゃないんだ」
 でも、でも日和はちゃんとここにいるじゃないか。ここにいて、僕と話をしてるじゃないか。僕をリュックに詰めて、ここまで連れてきてくれたじゃないか。
「うん、今はね。今のあたしは半人前だから。宿題を片付けてる間は、こっちの世界の姿のままでいられるんだ。その方が動きやすいしね。だって、あんたの入ったリュックだけがふよふよ浮いてたりしたら、大騒ぎになっちゃうでしょ?」
 そりゃあ、そうだけど……って、大事なのはそこじゃなくって。ああ、もう。なにがなんだか分からない。ぶんぶんと僕は首を振った。
 ……いや、そうじゃない。本当は、ちゃんと分かってるんだ。冷静に考えてみれば、僕と日和が当たり前に会話できてしまう、それ自体がずいぶんとおかしなことのはずなんだ。そんな彼女が、「普通の人間」であるはずはなかったのに。そう、あの時と一緒だ。分かってるんだけれど、ただ、信じたくなくて。ただ、それだけなんだ。だから僕は、一言だけ、日和に尋ねることにした。
 ねえ、日和。日和の宿題って、なんだったの?
 日和は、じっと僕を見つめた後、いつかと同じ、どこまでも優しい微笑みを浮かべた。道路脇にうずくまっていた僕を助けてくれた時の、あの微笑だ。
「あんたの願いを叶えること、それが、あたしの宿題だったの」
 僕の見ている前で、日和の姿がだんだんとぼやけ始めている。
「あんた、きっとまた幸せになれるよ。あたしは、やると決めたことはとことん追求するタイプだからね」
 そう言って、からからと笑う。この、底抜けに明るい笑い声が聞けるのも、これで最後なんだな。そう思うと、急に胸が痛くなった。
「なによ、そんな顔しないの。あんたはれっきとした日本男児なんでしょう? だったら、笑って見送ってよ。さよならはね、笑って言わないといけない言葉なんだからね」
 うん、分かった。分かったよ。僕にだって大和魂ってもんがあるんだ。
「そうそう、その意気よ。それじゃあ、あたしはそろそろ行くから。じゃあね、リュック犬。あ、でもリュックはあたしが持ってくんだから、あんたはもうリュック無しになるわけだ。残念ねえ。せっかくいい名前だったのに。……ま、いっか」
 日和の姿は、もうぼんやりとしか見えない。待って、待ってよ、日和。僕は慌てて彼女を呼び止めた。もう、君には会えないの? もう、これで本当にお別れなの?
「あら、そんなことないわよ。また……、そうね、冬には会えるわ」
 冬、だって? よく分からなくて首を傾げた僕に、それ以上は説明せず、日和は意味ありげに微笑む。
「ちょっと耳貸して」
 日和は僕の耳元に口を寄せて、コハルヒヨリ、と囁いた。なに、それ?
「あたしの名前。これがを覚えておいたら、また会えるよ。ちっちゃい頃は駄洒落みたいで嫌いだったんだけど、まあ洒落た名前だっていえなくもないわね」
 日和の名前? でも、それと冬がどう関係あるんだよ。
「自分で考えなさいよ。辞書で調べたら分かるわ。……ああ、でもあんたの肉球じゃあ、ページはめくれないわねえ」
 言って、日和はくつくつと笑う。
「あんた、冬は嫌いだって言ってたよね。でも、これからはそれほど嫌いじゃなくなると思うよ」
 予言めいた台詞をいかにも自信ありげに告げて、日和はにいっと笑った。彼女の姿は、もうほとんど見えなくなっていた。日和が完全にいなくなってしまうその瞬間を見たくなくて、僕はぎゅっと目をつぶる。さよなら。さよなら。さよなら、日和。
「ばいばい、リュック犬。元気でね。新しい名前、ちゃんと付けてもらいなさいよ」
 それっきり、日和の声は聞こえなくなった。ただ、最後にふんわりと暖かな風が、僕の頭を撫でていったような気がした。

 ばたばたと駆け寄ってくる足音に、僕はやっと目を開けた。あら、と驚いたような声に顔を上げると、門扉の向こうから女の子が目を丸くしてこちらを見つめていた。この家の子なんだろうか。彼女はすぐさま門を開け、僕の側に駆け寄ってくる。
「どうしたの? この辺りじゃ見かけない顔だけど、迷子にでもなったの?」
 言いつつ、そうっと僕を膝の上に抱き上げる。
「首輪はしてないのね。じゃあ、どこかで飼われてたわけじゃないんだ。……とりあえず、家に入ろう。寒かったでしょ? お腹空いてない?」
 かくして、彼女に連れられ、僕はかつての我が家に戻ったのだった。おとぎ話なら、主人公が数多の苦難を克服して生まれ故郷に帰る、最大の見せ場だな。そう考えて、心の内でちょっとだけ笑った。僕の場合、この結末がハッピーエンドなのかは、まだ分からないけれどね。でもとりあえず、旅の終わりを祝して、僕は小さくただいまと呟いた。



←戻る 進む→                         贈答品へ  入り口へ