「ワタゲノヒトビト」



* 転・ワタゲノアキ *

   秋が来れば思い出す。僕が、まだほんの子犬だった頃のことだ。狭いケージの中から抱き上げられて、新しい家族と一緒に新しい家にやってきた。季節は、ちょうど秋。
 僕がもらわれていった先の家には、いつもどこかしらに絆創膏を貼っている男の子と、ショートカットがよく似合う女の子の姉弟がいて、いつも争うようにして一緒に遊んでくれた。学校から帰ってくると、まず僕の名前を呼んで、がしがしと頭を撫でてくれるんだ。そんな僕らの様子を、お父さんとお母さんがにこにこしながら見守っていたりして。
 うん。幸せ、だったんだな、本当に。
「なあに、しんみりしてんのよ」
 ぺしっと頭をはたかれて、僕ははっと我に返った。ううん、なんでもないよ。ちょっと……、うん、ちょっと、お腹が空いただけだよ。
「あたしもそう思ってたとこ。もうすぐ晩御飯の時間だわ。あたしのお腹がそういうんだから間違いない」
 あたしの腹時計はものすごく正確だからね。そう言いつつ、日和はくんくんと鼻を鳴らす。ねえ、なにしてるの?
「ん、さっきからね、なんかいい匂いがしてるんだ。あんたは気付いてなかったの?」
 全然。……って、犬の僕より鋭い鼻って、どういうことだよ。
「美味しいものにはよく利くのよ、あたしの鼻は」
 あっちだ、と指差して、日和は嬉しそうに小走りになる。そんな彼女の背中で揺られながら、僕は目を閉じてみた。懐かしいひとたちの面影が、瞼の向こうに浮かぶ。いつの間にか、ずいぶんとおぼろげになってしまったけれど。

「あ、ここだ!」
 言うが早いか、日和はがらがらとどこかの家のドアを開けている。おいおい、勝手に入っちゃまずいんじゃない? 背中に揺られる僕には、いまひとつ状況が掴めない。
「いいのいいの。こんにちは! 誰かいませんか?」
 相変わらず強引だな。怒られたらどうするんだよ。ぶつぶつ文句を言う僕を、日和はリュックごと肩から下ろして胸に抱える。
「大丈夫だって。こういう古い田舎の民家に住んでるのは、優しそうなおばあちゃんだって相場が決まってるんだから。……あ、こんにちは! お邪魔してます」
 家の奥から現れたのは、果たして日和の想像通りのおばあさんだった。よく来たねえ、と柔らかく微笑んでいる。
「ささ、上がんなさい。お腹が空いてるんでしょう? 今、栗ご飯が炊き上がったところだから」
 ……なんて都合のいい話だ。昔話かなんかだと、このおばあさんが実は恐ろしいやまんばで……なんてことになるパターンだ。僕は俄かに警戒したが、日和は疑う様子もなく、栗ご飯! と歓声を上げている。そんな彼女をおばあさんは目を細めて見つめていた。

 結局、僕らは晩御飯をご馳走になった上、今夜の宿まで提供してもらうことになった。単純に喜ぶ日和を尻目に、僕は一層警戒心を強くしていた。怪しい、絶対に怪しい。見ず知らずの僕らに、これほど親切にしてくれるなんて。きっと、僕らが寝静まった頃に、ろうそくの灯りで包丁を研いだりするんだよ。よし、今夜はずっと起きてよう。自分の身は自分で守らないと……。決意を固めて日和の方へ顔を向けると、彼女はもうぐっすり眠ってしまっていた。僕は一気に脱力して、盛大に溜息をついた。だめだ、こりゃ。ここは、僕がしっかりしないといけないってことだな。日和が頼りにならないなら、僕だけでもきっちり見張ってなきゃ。そうだ、僕がしっかりしないと。しっかり……しない……と……。

 誰かが部屋の中に入ってくる気配で、僕は目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。不覚だ。誰かは足音を忍ばせて近づいてくる。僕は、小さく小さく身を縮めた。やがて、誰かは僕のすぐ側までやって来て、座り込んだ。どうしよう、どうしたらいいんだろう。ええい、とにかく日和を起こすんだ。そうしたら、きっとなんとかなる。意を決して、ワン、と声を上げようとした時、その誰かはそうっと僕の頭に手を載せて、シィッ、と囁いた。
「お嬢ちゃんはよく寝てるよ。起こすと可哀想だ」
 おばあさんの声だった。ゆっくり僕の頭を撫でながら、呟くように続ける。
「大丈夫だよ、別に取って喰ったりしないから。安心おし。わたしは、ただのばあちゃんだよ」
 そう言って、くつくつと笑う。気付かれていたのか。僕は恐縮して、更に小さく体を丸めた。
「さあて。坊やにひとつだけ聞いておかないといけないことがあるんだがねえ」
 よいしょ、と小さく掛け声をかけ、おばあさんは畳の上に座り直したようだった。
「坊やたちが旅に出て、もうずいぶん経つだろう? そろそろ、どうするのか決めないといけない時期なんじゃないかと思うんだよ。いや、どうするかというより、坊や自身がどうしたいのか、と言ったほうがいいかねえ」
 僕は、棒でも飲み込んだかのように体を固くした。おばあさんは、知ってるんだ。僕たちが旅を始めたきっかけも、僕が未だにぐらぐらと迷っている理由も。
「坊やの決心さえ固まれば、目的地まではもうすぐ辿り付ける。ばあちゃんも、少しは手を貸してあげられるしねえ。まあ、最後は坊や自身が決めることだ。好きなようにおし。それが一番だよ。……さあて、ばあちゃんもそろそろ寝ることにしようかねえ。それじゃあ、おやすみ。良い夢を見るんだよ」
 最後にもう一度僕の頭を撫でて、おばあちゃんは部屋を出て行った。僕は、息をすることすら忘れて、ただただ大きく目を見開いていた。どうしたいか、なんて。そんなことは、最初から決まっている。散々迷ったけれど、でも。僕の願っていることは、たったひとつだけだ。ひとつだけ、なんだ。

 次々とおにぎりが出来上がっていく様を、僕は感嘆の眼差しで眺めていた。おばあさんが水で濡らした手のひらにご飯をのせ、きゅきゅきゅっと何度か転がす。そうすると、もうきれいな三角形が生まれているのだ。しかも、どのおにぎりもぴったり同じくらいの大きさ。すごい。それに比べて日和ときたら……。
 ねえ、そんなに握らない方がいいんじゃない? お餅になっちゃうよ。
「……うるさいなあ」
 ねえ、それじゃ三角形になってないよ。大人しく丸おにぎりにした方がいいんじゃないの? その方がずっと美味しそ……。
「うるさい! なによさっきからごちゃごちゃごちゃごちゃと! ふん、じゃあいいわよ、あんた今日一日ご飯抜きだからね!」
 そんなあ。ひどいよ、今までひとつの鮭おにぎりを取り合……じゃない、分け合ってきた仲じゃないか。
「だったら、ちょっと黙っててよ。あんたが横でうだうだ抜かすから気が散るんじゃないよ」
 大騒ぎしつつ、日和はなんとかおにぎりを作り終えた。玄関先で、おばあさんにお世話になりましたとお礼を言って、僕らはまた出発する。今日の日和は、なぜか僕の入ったリュックを背負わず胸に抱えていた。
「行くよ、覚悟はいい?」
 いつになく真剣な顔で、日和が僕の顔を覗き込む。ああ、そうか。僕ははたと気付いた。昨日の晩、きっと日和は眠ってなどいなかったのだ。
 うん、大丈夫。平気だよ。そう答えると、日和は一度大きく頷いた。引き戸に手をかけ、深呼吸をひとつ。そして。
「いち、にの、さん!」
 勢い良く戸を開ける。雪混じりの風がぶわっと吹き付けてきて、僕も日和も、思わず目を瞑った。戸口から家の中へ吹き込み、また外へ逃げ出そうとする風に背中を押されるようにして、日和が数歩前によろめき出た。その途端、ぱたりと強風が止んだ。
 ああ、と日和が溜息のような声を上げ、僕をリュックごとぎゅっと抱きしめる。僕らの周りに広がっているのは、ありふれた住宅街だった。そして、その内の一軒の前に、僕らは立っている。他の家々とまるで造りは変わらない、多分、通りすがりの人が見たら周りとの区別なんてつかないであろう、そんなどこにでもある家。でも、僕にとっては特別な家。帰ってきたんだ。僕はここに、帰ってきたんだ。



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