アクアリウム 番外編 「フタタビ」 ![]() ![]() ![]() ![]() これで、いくつめの街になるのだろうか。通り過ぎた街を数えることにも飽いてしまったので、正確な数はもはや分からない。少なくとも、これまで私の生きてきた年の数よりは、ずっと多いだろう。 街の境界線を越える度に、風景は驚くほど様変わりする。出発して間もない頃は、くるくると表情を変える町並みが面白くて、いつまでも飽きもせず眺めていたものだ。しかし、長く旅を続ける内、そんな新鮮さもいつか次第に薄れていった。どれほど外見が違って見えても、その中で繰り広げられる人々の生活にさして変わりはないと、どこかで気付いた頃からかもしれない。どんな街でも、休日になれば子どもたちの声が街路に溢れ、日が暮れれば夕餉の香りが家々の窓から流れ出す。そんな営みが、繰り返されている。それは、退屈なようで、どこか心安らぐ事実でもある。特に、私のような確たる住処を持たぬものにとっては。 時折足を止めながら、私は石畳の街路を歩いていた。この街の家々は、一風変わった造りをしている。急勾配の三角屋根を持ち、玄関は街路よりも高い位置に作られ、小さいながらも階段が設けられている。これらはみな、この辺りが冬になるとかなりの降雪に見舞われる気候であるがための工夫なのだという。 一年を通し、晴天以外の空を知らない街で生まれ育った私にとって、雪は遠い国を語るおとぎ話の主人公のような、神秘的で謎めいた存在だった。できれば、この街が一面真っ白に覆われる姿を見届けたいような気もするが、恐らくその季節までここに留まることはないだろう。先を急ぐ道行きではない。しかし、ひとつの街にのんびりと腰を据えていられるほどの猶予が、もう残されていないであろうことも、また確かなのだった。 一段高くなった歩道の縁に腰を下ろし、ひとりの少年が絵を描いていた。膝の上にスケッチブックを広げ、左手に握った絵筆を無心に動かしている。辺りには水の入ったガラス瓶とパレット、紺色の傘、そしてなぜか、蓋を閉じたままのクレヨンの箱が置いてある。かなりの大荷物だ。この近所に住む子どもなのだろうか。 身に付けた色の褪せたジーンズにも、生成りのシャツにも、あちこちに絵の具の染みが飛んでいる。これが、絵を描く時の決まった出で立ちのようだ。年の頃は、六つかそこら、といったところだろうか。小柄で大人しげな印象の少年だが、長めの前髪からのぞく濃い色合をした瞳は、冴えた強い光を宿していた。 時折顔を上げ、彼は道路を挟んだ向かいの家を熱心に観察している。どうやら、この家が絵のモデルらしい。くすんだ淡い緑の外壁に、大きな白い扉、その前には、子ども用の自転車が停まっていた。ありふれた日常の風景だが、それを見つめる少年の目は真剣そのものだ。時には、筆を握った手すら止めて見入っている。その横顔は、幼い子どもには似つかわしくないほど静かで、可愛い孫を見つめる老人の如く、慈愛に満ちている風にさえ見える。不思議な少年だ、と私は思った。こんな目をした子どもに、私は以前も会ったことがある。けれど、それがいつのことだったのか、その記憶は曖昧にぼやけていた。 暖かな太陽は、知らず知らずに眠気を誘う。思わず大きな欠伸をひとつして、私は一旦考え事を頭の中から追い払った。こんな良い日和は、小難しいことを考えるには向いていない。 私は、少年の座る陽だまりでしばし足を休めることにした。体を丸め、目を閉じる。耳をくすぐって吹き渡る風が、心地よかった。 かたり、という小さな音に、私は目を開けた。いつの間にやら、眠ってしまっていたようだ。隣に座る少年は、絵筆を水の入った瓶に挿し、後片付けを始めている。私を起こしたのは、彼が絵の具箱を閉じた音だったのだろう。少年は、今まで筆を走らせていたページを太陽に向かって掲げる。自分もそちらの方を向き、眩しそうに目を細めた。 クレヨンの箱に手を伸ばそうとして、彼はふと私の姿に目を留める。驚いたように軽く目を見開いているところを見ると、私がここにいることに、彼は気付いていなかったらしい。ぱちぱちと瞬いた後、淡く笑んでみせる。 「こんにちは。いいてんき、だね」 大人びた瞳と比べて、その口調は思いがけず幼い。訥々と、ひとつひとつの言葉を空中に並べるような調子で、彼はそれだけの挨拶をゆっくりと口にした。 「かさ、いらなかったかな」 傍らにおいた傘の柄を、絵の具に染まった指先で軽く撫でる。ずいぶんと大きな、古びた傘だ。彼の小さな体には、少々大きすぎるように見える。 「きょう、あめ、ふるかな?」 首を傾げるようにして、少年は尋ねるともなく呟いた。私は空に目を向け、雲の厚さを観察し、風の匂いを確かめる。かすかに、湿った香りがした。今はどこまでも晴れ渡っているが、あと数時間も経てば降り出すかもしれない。 少年は私の仕草を興味深そうに眺めていたが、やがて同じように空を見上げた。真似をするように、すんすんと鼻を鳴らす。そして、少し残念そうに首を横に振った。 「わかんないや」 両手を空へ突き出すように、少年は伸びをした。私も彼につられ、大きく体を伸ばす。 「どこからきたの?」 特に答えを期待している風でもなく、少年は尋ねる。 「どこからきたのかな」 自問するように繰り返し、彼は頬杖をつく。その仕草に、さっきまでの子どもっぽさは見られない。隣に座るこの幼い少年が、一気に年老いてしまったように感じて、私は目を疑った。 流れる雲を追う瞳は、今そこにある空を遥か通り越し、遠く彼方を見据えているように見える。そんな眼差しは、年端のいかない子どもにはあまり似合わない。しかし、その遠い視線に潜むものの正体を、私はよく知っている。 間違いない。感慨にも似た思いに捕らわれながら、私は眼前の幼い子どもを見上げた。この少年は、旅人の瞳をしている。 「どんなところ、だったんだろうね」 三たび呟いた彼の言葉に誘われるように、私はかつて暮らした街へと思いを馳せた。 あの街は、ここよりもずっと強い日差しに照らされていた。白い街路に光が反射し、夏などは眩しくて目を開けていられないくらいだった。そしてその分、冬の冷え込みは厳しい。この街のように、雪が降ることはないが、突き刺すような冷たい風がびょうびょうと泣き声にも似た音を立てて吹き荒れる。 空気は乾ききり、特に晩春から初夏にかけて吹く砂混じりの風は、街に住む人々を長年に渡って苦しめてきた。この私も、私の宿主も、その風に追い立てられるようにして、あの街を後にしてきたのだ。私が今よりもずっと若かった頃のこと、もう遥か昔の話だ。 思い返せば、決して暮らしやすい街ではなかったかもしれない。けれど、そこに暮らす穏やかで物静かな人々のことを思い出す度、私はいてもたってもいられないような思いに駆られる。痛いほどの青空や、鮮やかな果物の色や、ざらりとした感触の街路や、そういった細切れの記憶が、焼け付くように胸を熱くする。もしかしたら、それが郷愁というものなのだろうか。 どこからともなく、バターの香りが漂ってきた。香ばしい、というよりも、少し焦げ付いたような香りだ。 「オムレツだ」 少年は、心底嬉しそうな表情を見せ、もうかえらなきゃ、と小さく付け加えた。その言葉を、私はまるで異国の音楽のように聞いていた。帰る、とは、なんと遠い言葉だろう。眩暈すら覚えそうなほどに。 旅人たちはみな、まるで何かに背を押されるようにして歩き続ける。遠くへ、もっと遠くへ、そんな思いだけが、彼らを……私たちを前へと進ませるのだ。それは、旅人の瞳を持って生まれたものの性、逃れることのできない定めだ。好むと好まざるとに関わらず。望むと望まざるとに関わらず。 「ぼくは、ここにいるの」 小さな手のひらを見つめ、確かめるように彼は首を横にふる。私の、声にならない疑問が彼に届いたかのようだった。 「ここにいるんだ。ずっと」 きっぱりと言い切り、彼は私に向かってにっこりと微笑んだ。その瞳は、既に無邪気な子どものそれに戻っていた。そこにいるのは、愛くるしい顔立ちをした、幼い少年に違いなかった。 向かいの家のドアが開いた。顔を出したのは、エプロン姿の青年だ。彼はきょろきょろと辺りを見回し、私たちを見つける。 「ユキ! 昼ご飯の時間だよ」 隣の少年は、それを聞くとぴょこんと立ち上がった。ユキ、というのが、彼の名前らしい。ぱたぱたと服についた砂を払い、絵の具箱とスケッチブック、そしてクレヨンの箱を大事そうに小脇に抱える。最後に傘を拾い上げ、歩き出そうとして、彼はふと再び私の姿に目を落とした。深い色の瞳で、私を見つめる。 「もう、かえろう?」 幼い口調とは不釣合いな、大人びたその表情に、私は見覚えがあった。そう、あれはもうずいぶんと前、あの街でのことだ。緩やかな風に吹かれる小柄なその姿に、ひとりの少年の面影が重なる。あの少年もまた、旅人の瞳をしていた。彼は、あれからどうしたのだろう。その体を流れる放浪の血は、やはり彼をあの街から遠く運び去ってしまっただろうか。 「きっと、まってる」 そうだろうか。私は、私たちはあまりにも、帰るべき場所から離れてしまった。それでもまだ、帰ることができるのだろうか。 「まってるから」 最後に、どこまでも真摯な瞳で頷き、少年はくるりと私に背を向けた。転がるような足取りで、街路を渡る。 「ただいま」 小走りでドアの前に立つ青年の下まで駆け寄り、少年は晴れやかな声で一言告げた。 「うん、おかえり」 大きな傘を受け取り、柔らかな面立ちをしたその青年は少年の髪をくしゃくしゃと撫でて微笑む。その手につかまりながら、少年は屈託のない笑顔を見せていた。彼は、帰るべき場所を見つけたのだ。彼の旅は、この場所で終わりを告げた。そうすることを、彼自身が選んだのだ。 旅立ちは、生まれたその瞬間から決められた運命だ。そこに、選択の余地などない。旅人はただ、自身を駆り立てる衝動のまま、進むだけだ。 しかし、その旅をどこで終わらせるか、選び取ることはできる。いや、それだけは、自分で決めなければならないのだろう。根無し草の如く回遊を続ける旅人たちにとって、帰りたいと思うその場所こそが旅の終点、いずれ辿り着くべき故郷なのだ。 帰ろう。私は思った。空を流れる雲は、いつしか厚みを増し始めている。帰ろう。雨が降り出す前に、私は私の、帰りたかったその場所へ、帰ろう。 向かいのドアが閉まるのを見届けて、私は歩き出した。げんきでね、とあどけないはなむけの声が聞こえたようだったが、気のせいだったろうか。振り返ってみても、そこにはもう、誰の姿もない。 挨拶代わりにぱたりとひとつ尻尾を振って、私は長い帰り道を辿り始めた。 ![]() ![]() ![]() ![]() あとがき→ 創作品へ 入り口へ |